☆家族日和

 学校が休みの土曜日、僕はお母さんの言いつけでお父さんの手伝いをしていた。


 僕と理沙が持って変えてくる学校からの保護者へのプリントや、洗濯機や冷蔵庫などの家財製品の保証書、さらにはお父さんが所属している自治体関連の文章など、大事な資料ばかりを閉まっていた座敷の棚が一杯になり、一度すべてのファイルを引っ張り出して整理することにしたらしい。


「しっかし、お母さんもひどいだよな」


 僕が棚から出してきたバインダーの中身を畳のうえに広げながら、お父さんは言う。


「仕分けをしなければお小遣いを減らすって脅すんだ。毎日家族のために働いているお父さんに、それはないよなぁ。なぁ、颯太。お前もお父さんを哀れんでくれるだろう」


「そうだね。だけどお母さんも働いているわけだし」


 僕はお父さんの横に棚から引っ張りだしたファイルを積み上げていく。棚の奥に閉まっていたファイルの表面には埃が被っていて、あとで掃除しないと畳が埃まみれになってしまう。


「お父さんは早く帰ってきても料理をしないじゃない。帰ってくるなり缶ビールを開けてお母さんの帰りをただ待っているし、土日もパチンコに行っちゃって家事はまったく手伝わないから。お母さんも鬱憤うっぷんが溜まっているんじゃないかな」


「颯太、これだけは覚えておけ」お父さんは急にコホン咳をして、真面目な顔になる。


「お父さんって言うのは孤独だぞ。お母さんはもとはといえば俺に惚れて結婚したはずなのに、子供が生まれた途端に蚊帳の外だ。子供もそんなお母さんを見てお父さんを軽んじていく。母性ってのは恐ろしいな」


「そんなこと、僕に言われても」


「颯太、お前もいつかお嫁さんをもらうんだ。結婚する前にはちゃんと、『結婚して子供が生まれても、あなたのことをちゃんと大切にします』って契約書にサインをもらっておくんだぞ。捺印なついんはシャチハタじゃなくて、印鑑でもらうんだ」


 お父さんのは冗談なのか、本気なのか分からないことを言いだして、ついていけなくなった僕は洗面所に雑巾を取りにいく。


 二階からはお母さんが布団を叩く音がのどかに聞こえている。


 僕は洗濯機前にゴムで止まっている雑巾掛けから、ボロボロになったタオルを一枚手にとって水で湿らす。もともと家族で使っていて古くなったタオルを雑巾に再利用しているんだ。 


 タオルを水で湿らして柔らかくしていると、僕の心が踊るように跳ねた。春のうららに白いモンシロチョウが、野原に咲いている花々で遊んでいるみたいに。

 これは僕の心じゃなくて、理沙の心が踊っている証だ。


 一階の居間からは、ピアノの音がずっと鳴り響いていた。理沙がピアノの練習の真っ最中だったんだ。


 そうというのも、秋の文化祭に開催される合唱コンクリールでピアノを担当するのが理沙になりそうなんだ。クラスメイトでピアノを習っていたのが理沙しかいないらしく、早めにリハビリをしておこうと練習を再開したんだ。


「頑張れ、理沙」


 僕は畳の客間に戻りながら、音楽って素晴らしいなぁと、理沙の心が踊るのに合わせて弾む自分の心をしみじみと味わっていた。手先が器用じゃないから楽器を練習したことがないけど、理沙みたいに演奏できたら楽しいだろうな。


 お父さんは手に持ったプリントを捨てようか残そうか悩んでいる。僕は棚を拭こうと身を屈めた。そこで棚の奥にある青いファイルに気付く。


「あれ」


 手を突っ込んで引っぱり出してみると、表紙には英語でMEMMORYと書かれていた。僕はなにげなく一ページをめくると、そのなかの薄いビニールのペラペラのなかに写真が二枚ずつ収められていた。


「うわぁ、懐かしい」


 まず最初の一ページ目に入っていたのは、僕と理沙が小学校のときの写真だった。


 お気に入りの草むらで撮られたもので、ちいさな頭の上にはシロツメクサで編んだ花冠が乗せて僕と理沙は手をつないで満面の笑みを浮かべていた。前歯が揃って欠けていた。僕たちの後ろには白塗りの百葉箱がある。


「お父さん、見てみて」


「どうしたんだって、お。これまた懐かしいものが眠っていたな」


 お父さんは僕の手からアルバムを受け取ると、懐かしそうに眼を細めた。


「いつだったかな、お前たちと一緒に学校で遊んだときに一眼レフで撮ったんだ。覚えているか」


「もちろん。僕と理沙はここがお気に入りだった」


 僕たちは小学校のとき、変わったものが好きだった。


 温度計が入れられた白塗りの箱である百葉箱の、品のよい名前の響きとそれにそぐわない使用頻度の低さをいたく気に入り、僕と理沙はこの百葉箱を僕たちの守り神として大事にしていたんだ


 。百葉箱のまわりでバッタを捕えて、お供え物として百葉箱のなかに入れていたら、先生に見つかってこっぴどく怒られたっけ。


「良い写真だ。だけどこの下に入っている二枚目はなんだ」


 百葉箱を背景にして撮った写真の下をお父さんは指差した。それを見た僕は一気に懐かしくなる。


「これ、焼却炉だよ」


「焼却炉。なんでこんなところで写真を撮ったんだ」


「さっきの草むらの近くにこれがあって、僕たちが撮ってくれって頼んだんだよ。ここはかくれんぼでよくお世話になったから」


「そうなのか」


 お父さんはすぐにページをめくってしまったけど、僕は感動していた。


 僕たちの小学校には焼却炉があって、昔はそこに授業プリントや冊子などが集められ、焼却されて灰にしていたらしい。


 だけど焼却の際のダイオキシンが問題となって、焼却炉は沈黙を余儀なくされたとか。


 火が点されない焼却炉は年を取ったお爺さんの髪みたいに真っ白で一気に老けてしまったようだった。


「こうしてみると色々なところで写真を撮ったんだ。お、この写真は」


 そう言ってお父さんが広げた場所には、小学生のときよりもちいさい理沙と僕がどこかの地下街で抱き合っている写真だった。そこで僕はぞわっと恐怖が蘇る。だけどお父さんは不謹慎に笑っていた。


「これって、理沙が迷子になったときの写真だよな」


「お父さん、笑わないでよ。このとき僕は、すっごく心配したんだから」


 僕はあの事件を笑っているお父さんに文句を言いかけたところで、お父さんは僕の頭をワシワシと撫でた。


「すまんすまん。だけどお父さんにとっては、嬉しい事件でもあるんだ。お前がお兄ちゃんとしての自覚が出てきたなぁって」


 僕はなされるがままになりながら、本当に理沙が無事で良かったなぁと噛み締めていた。


                  ☆


 それは僕と理沙が幼稚園年長さんのころ。


 そのころ僕と理沙はいつも手を繋いでいた。共感覚が鋭敏だったこのころ、そうしていれば僕たちは本当に一つの個体として世界を共有できた。


 二人でいると世界を自分たちで変えられる。そんな気もしていた。


 都会のデパートは自分の街のものと比べたら失礼なほど大きくて、ここに夢と希望も売っていると言われても本気で信じたくらい圧倒的だった。


 いつもより倍以上の大きさの本屋に、キラキラした服を売っているおしゃれな洋服屋さん、びっくりするほどの騒音がひしめくゲームセンターなど、ここが本に見たネバーランドかと僕と理沙は胸おどらせた。


 僕たちは初めて見るものに眼を奪われながら、夢中でデパートの中を走り回って両親をヘトヘトにさせた。当時の僕は夢の世界に浮かれすぎていた。


 そういうことが重なって、買ってもらった少女漫画に夢中だった理沙がエスカレーターの上下を間違って乗ってしまったことに、だれも気がつくことができなかった。


 理沙がいないことに最初に気がついたのは僕だった。

 いつまで経って姿を見せない理沙に、両親は真っ青になって元の階に引き返した。


 やっぱりいない。


 それから上下の階を一通り探してみる。どこにも理沙は見つからない。そのころには、どちらの不安なのか分からない、黒くて分厚い雲が僕の胸に押しよせてきた。


 僕は辺りを見渡す。まわりの人たち全員が理沙を連れ去った悪い人に思えた。子供の誘拐が立て続けに起きた時期だった。


 理沙に二度と会えないかもしれないという不安。


 それを一度意識してしまうと、共感覚は僕と理沙の両方の不安の波をシンクロさせて、より一層強い不安をもたらした。


 だけど僕はぎゅっと右手を握りしめる。そこには理沙の掌の感覚が残っていた。理沙の不安の雲はどんどん厚く大きくなって、やがて土砂降りの雨を降らして洪水になった。


 それが分かっても、僕は泣くわけにはいかなかった。僕まで泣いてしまったら、それはそのまま理沙にまで伝染してしまう。


 僕は精一杯お兄ちゃんであろう

とした。涙をぐっと飲み下し、地面に立つ足に力を込めた。


 フリフリのスカートを履いた理沙を両親と一緒に探した。デパートの右へ左へ、上へ下へ。永遠とも思えるくらいの時間を探しまわった。


 僕には世界にはじめて生み出された赤子のように、泣き叫ぶ理沙の気持ちがずっと流れ込んでいた。一秒でも早く理沙を見つけて、安心させたかった。


 僕はここにいる。大丈夫だから。必ず僕が見つけるから。


 ずっと心の中で理沙に呼びかけていた。 


 それから二十分くらいして、迷子センターから理沙を見つけたというアナウンスがあった。理沙が地下街でうずくまって泣いているのを、親切なおじいさんが迷子センターまで連れてきてくれたらしい。


 僕たちは急いでセンターに向かった。家族三人、息を切らしながら迷子センターに到着すると、キレイなお姉さんの横で泣きじゃくる理沙の姿があった。


 理沙がふと顔を上げる。僕たちの姿を見つけると、理沙はもつれる足でこちらに走ってきて、真っ先に僕を抱きしめた。ぎゅっと抱きしめる理沙の手は、それはもうすごい力だった。


 理沙の中にたちこめていた雲が姿を消し、温かな光が差す。その感情が鮮やかなままに僕に流れ込んできて、息苦しいくらいに胸が一杯になった。僕は涙をこらえきれなくなった。


 そしたらカシャリとシャッターが切られる音がして、ずっと

妹の理沙を心配していた僕の頬をお父さんが撫でた。


「さすがは理沙のお兄ちゃんだ、これからも理沙を守ってやるんだぞ」


 微笑みかけられ、僕は理沙と一緒に泣きじゃくりながら、なんどもなんども頷いた。


                ☆


「懐かしいな。僕、これを理沙に見せてくるよ」


 僕はアルバムを持って襖を開ける。


「理沙、これ」


 そこで僕は足を止めてしまった。ああ、そうかと思った。なんでこんなに懐かしい気持ちになるのか。


 理沙がそのとき弾いていた曲は、パッヘルベルの『カノン』をもとにした合唱曲、『遠い日の歌』だったんだ。

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