☆青夏の訪れ(前編)
夏の空と言われて思い浮かべる、あの澄み渡る青空には及ばない。けれど流す汗が美しく映えるくらいには澄んだ空へと、季節は移ろいでいた。
セミの生存戦略をかけた合唱も教室に届くようになり、それに反比例するように勉強が手につかなくなる。
熱い夏が、すぐそこまで近づいてきていた。
制服も衣替えの時期を迎え、長袖が半袖のシャツに代わる。教室の空気は一気に夏へと加速していく。
女子たちのほっそりとしているのにどこか丸みのある二の腕とか、髪をまとめる一瞬だけ垣間見えるうなじとか、そんな些細な仕草が僕たち男子を苦しめる。
男子たちはそんな夏の訪れを肌で感じ、今年こそはと気合いを入れる。でもなにを張り切ればよいか分からず、なにもしないままに夏が過ぎていく。
そんなこんなを含めて、夏の恒例行事みたいなものかな。
僕は思う。今僕たちは青春真っ盛りなわけだけど、春よりも夏の方が恋愛とか大会とか、熱中できるイベントが多い。
先人たちは、“青夏”と名付けるべきだったんじゃないかな。きっと熱さが物質のエントロピーを上昇させるように、夏の熱気と浮ついた雰囲気が、人間の気持ちのエントロピーも上昇させているんだ。
☆
「練習中の体育館より教室が暑いなんて、拷問かよ」
透は僕の隣で下敷きをパタパタ言わせながら、生温い風をワイシャツの下から送っていた。透は下敷きをうちわの代わりだと思っているらしく、ノートに挟んでいるのを今まで一回も見たことがない。
「透、そっちの方が余計に暑くならないか」
後ろの席では冷が机にもたれていた。冷曰く、教室の机に突っ伏すとひんやりしていて気持ちがいい、らしい。
「暑くてそんなの考えられねぇ。お前こそうざったい髪をさっさと切りやがれ」
透は舌を出し、なんとか体の熱を逃がそうとしていた。透のシャツからはタンクトップの線に沿って日焼けした肌が透けている。夏からのお知らせみたいだ。
「透、ずいぶん焼けたね」
「ああ、一昨日は誠とずっと外でバスケしてたからな」
なんだか誇らしそうに、透は小麦色の肌を撫でていた。
「帰ろうって言っても『後一回』って粘りやがってよ。うざかった」
そう言いつつも、口元に浮かべる笑みは隠しきれていない。そこで冷が、僕の机を叩いてずっと前の席を指差す。
「おい見ろよ、休み時間にも関わらずハカセ、勉強しているぜ」
冷の人指し指の先には、一番前の席で涼しげに教科書と向き合うハカセの姿があった。
ハカセは今月に行われた席替えで、クラスの皆が一番後ろの席を希望する中で唯一、一番前の席を希望した。彼は「後ろにいてもやることがないので」と澄まし顔で言ってのけた。やはりハカセだ。
「信じられん、常軌(じょうき)を逸している」と透。
「心頭滅却(しんとうめっきゃく)すれば火もまた涼し、なのかな」と僕。
「自分だけ涼しくなるような発明でもしたんじゃないか、ハカセだし」と冷。
僕たちは口々にハカセへの不審や賞賛、懐疑を口にした。どれもハカセの性格を捉えているから面白い。
そんな折り「ねえ、このクラスがプール掃除って噂、なんか聞いている」と、夏服でさらに
制服が代わり、元々可愛い容姿にさらに磨きがかかるから、眼のやり場に困ってしまう。
透は亜弥を振って以降、どう接していいのか分からないのか、亜弥から露骨に視線を逸して、わざとらしく教科書なんか開きだす。冷はそんな透と亜弥の気まずい関係に気づかないのか、その面白そうなニュースに顔を輝かせる。
「そうだったら最高だな。小六のときにやったことがあんだけど、すげぇ楽しかった」
「いいなぁ。私の小学校では、プール掃除は先生たちがしていたから、やったことないんだよね」
亜弥はしょげていた。僕もしたことがないんだと相づちを打つ。
でも間接的に経験したことならある。中学一年の理沙のクラスがプール掃除だったから。
共感覚を通して理沙が楽しそうにしているのがすごく羨ましかった。国語の授業中なのに、全身にヒヤッとした流動的な水の感触が突然おそってきて、思わず身悶えてしまった。ぜひとも体験したいと息巻いていたけど、残念ながら機会に恵まれなかった。
「透くんはプール掃除、したことがあるの」
亜弥はごく自然な流れで透に話し掛ける。透は亜弥とは反対にゼンマイ人形のようにぎこちない。
「ないな、俺の記憶では」
よく見ると読んでいる化学の教科書が逆だ。それくらい気づいてよ、透。
「どうした、透。なんだか変だぞ。腹でも痛いのか」
透の挙動不審に、冷がひょいっと教科書を奪い取りながら訊ねる。
「いや、なんでもない」
透はそれだけ言うとふたたびそっぽを向く。冷は透の不自然な態度が気になるらしく「なんか亜弥に不自然だけどなんかあったのか。あ、そうか」と納得し、勝ち誇って亜弥と透を見比べる。
僕も透も一気に青ざめる。人間関係に一際鈍い冷が、ついに二人の関係に気付いてしまったのかな。
今、僕たちの前には亜弥がいる。変なことを口走られたら大変なことになる。僕は急いで、冷を黙らせようとした。だけど間に合わない。
「透、お前」
ああ、もうお終いだ。僕は眼をつむった。
「亜弥の夏服の可愛さに、目のやり場に困ってるんだろう」
冷はフンっと自慢げに鼻息を荒くして、教科書の背でトントンと自分の肩を叩く。
「は?」「は?」
脱力した僕と透は、思わず声を揃える。
「だから、亜弥の夏服姿に
亜弥は「そうなのかぁ」なんて冷の言葉に乗っかりながら、両手でスカートをひらひらさせながら「へへ、可愛いでしょ」と顔を赤くしながらおどけてみせた。
そこに一陣の風が吹いて、亜弥の髪がさらさらと揺れ、プリーツスカートが優雅にさらわれる。
透き通るように白くて、ほっそりした足。風鈴の音のような清潔な笑顔を浮かべると、そこには愛らしいえくぼがぽっこりとへこみ、スイカの果肉みたいに血色がいい唇からは、白い八重歯がひょっこりと頭を覗かせていた。
ここで男子三人揃って、亜弥のあどけなさに撃沈して言葉に詰まる。
そんな僕たちの沈黙を、亜弥は僕たちがどん引いたと勘違いしたらしく「じょ、冗談だよ。やってみただけで」と、恥ずかしそうに理沙のところへと退散していく。
「俺、亜弥と結婚して幸せな家庭を築くわ」冷が上の空で答える。
「色々と順番を間違ってないかな」僕はさっきの亜弥を眼に焼き付けておこうと
必死だった。「気持ちは痛いほど分かるけど」
そんな僕と冷の横で、透は亜弥の後ろ姿をなにやらもの憂げに追っていた。いくらバスケのためとはいえ、逃した魚、じゃなくて、逃した亜弥はあまりに大きかったんじゃないかなぁ。
そこで授業の始まりを告げるチャイムが鳴った。
生徒たちがガタガタと自分の机へと急ぐ。そしたら教室のドアが勢いよく開いて、ピチピチのポロシャツを来た
「こら、俺の可愛い生徒たちよ。チャイム前には席に着いとけって言っただろ」
そうは言いながらも怒っている様子はなく、
先生がなんの受け持ちなのか知らない人だったら「体育の教師ですよね」と確認したくなるような体格なのに、専門は英語の先生だから、そのアンバランスさが奥ゆかしい。
細貝先生はとても若く、豪快で生徒のノリも分かる先生だ。そしてそんな先生は僕たちのクラス担任でもある。
「さて、生徒諸君に吉報がある。英語で言うとgood newsだな」
留学で培ったという
「先生、良い大人が子供たちを前にニヤニヤしていたら、今のご時世、捕まっちまいますよ」
冷がクラス中に聞こえるように大声を出すと、クラスの男子の一部からどっと笑いが起こる。
「相変わらず元気だけが取り柄だな、冷。だが俺がニヤニヤしていた理由はお前らに目が眩んだからじゃない。お前たちにいい話を持ってきたんだ」
クラス中がなんだろうと騒がしくなる。
細貝先生は教室中の視線が自分に注がれていることに満足し、黒板を振り返って白のチョークをポキポキ折りながら黒板に大きな文字を書き始めた。
僕たちは細貝先生の奇行をただただ眺めていた。先生は最後まで書き終えるとこちらを振り返り、黒板をバンと叩いた。そこには『再来週の三・四限はプール掃除』とあった。
クラス中がぽかんとしている。元気組みは、ガッツポーズやら口笛を鳴らして祝福している。
他の男子やほとんどの女子は「なんだよ、そんなことか」「ええ、めんどくさそう」「でも予習しなくて済むね」とつれない対応で、プール掃除よりも授業がなくなることが嬉しそうな様子だ。
でも理沙と亜弥は二人顔をあわせてピースしていた。僕にも理沙のじ〜んと胸に染み渡るような喜びが伝わっていた。
僕はその歓喜の渦のなかで、ハカセはどうかなと注目してみた。一番の前の席には、じっと黒板を睨むハカセの後ろ姿があった。なんとなく、あまり喜んでいないみたい。ハカセはぶれないなぁ。
「お前ら、ちっとは喜べ。俺が並みいる先生方とのじゃんけんで勝ち取ってきたんだぞ」
細貝先生は僕たちの反応が不服らしく、「可愛げがねぇな」と本音まで飛び出した。
「俺たちの時代だったらお前、小躍りしているぞ」
「それっていつの時代ですか」「感覚がいちいち古いんだよ」「今時プール掃除ぐらいで盛り上がるかよ」
男子たちがあちこちで
「ええ〜い、うるさい」有無を言わさないつもりだ。「ということで、再来週は三、四限は、ぶち抜きでプール掃除だ。間違いなく汚れるから体操服を持ってこいよ。それから女子は、っておい、お前らちゃんと聞け」
細貝先生の視線の先には、元気組みがハシャいで小躍りしている姿があった。先生は異国の地で友を見つけたみたいに満足げだ。
「まったく、お前らだけはいい性格しているよ」
透たちはそんな先生に向かって「ほっそがい、ほっそがい!」と、先生の健闘を讃える、ほっそがいコールを送っていた。
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