終話 咲き誇れ されど散りゆけ ユリの花

 「まだ散らねーか」

 一人の男が、庭に咲いた若干季節外れの1輪のユリに向けて発した言葉は、その花にとってはあまりにも非情なことだった。

 それでも事情を知っているその男は、その花が咲き続けることは良くないことだと確信していた。

 だからこそ、その男は願う。強く願う。

 

 ──早く散ってくれ、と。

 


 ○○○


 徐々に満たされていく感覚。空きコップに水を一滴一滴静かに、ゆっくり注がれる感覚。それが今の僕を支配していた。 

 彼女と以前、どこかで会ったことがある。それは、一緒に遊んだ、友として。僕は、僕の友だちは今は高校に通っているやつらだけだと思っていた。それは間違いだった。彼女も、りなも僕の友だちの1人だ。

 1つ。また1つと思い出す記憶に僕は頭痛を訴えていた。しかしここですべてを投げ出して逃げ出したら、大切なものが跡形もなく崩壊して、こぼれてしまいそうだった。

 行く宛も知らず、りなに背中を押されて無理やり足を動かされている。緑の生い茂った地面を誰かが整備したかのようにその中心だけ草の禿げている部分。土が露出した、道とは言えぬ道をされるがままに進んでいた。

 その最中に僕は記憶を取り戻していた。

 背中に触れている手のひらからじわじわと温かみを感じ、それと一緒に注ぎ込まれる記憶。僕はその一滴一滴を確実に受け止めた。一気に記憶を注ぎ込まないのはりなの優しさからだろうか。

 人というのは1度に大量の情報を取り込んでしまうと脳の機能が崩壊してしまう。新たな事実を知った時、それはその人の生きてきたことを否定するのに近しいと僕は思っている。

 ともあれ、僕の脳はりなによって守られているということだ。

「⋯⋯」

 りなは魂の抜け落ちた僕の体を支えながらもぐいぐい押してくる。だんだん夕暮れが近くなっているのか、日は傾き、そのため陽光が木々の葉に遮られ、それでもなお入ってくる光はオレンジだった。

 さらにひぐらしの鳴き声があちこちから聞こえてくる。夏の風物詩の1つだ。僕の家にも聞こえてくるが、こんなに美しくはない。

 しかし、今の僕にはそんなことを堪能している暇はない。──忘れていたものを早く思い出さねば。

 背後から短く、浅い呼吸が聞こえてくる。やっとの思いで背後を見やると、息を切らせながらも、汗だくになりながらも僕を誘導するりながいた。

「⋯⋯ちょっと、休んでく?」

 無意識に零れた言葉をりなははっとした様子で顔を上げるとニコリと笑った。

「うん!そうしよう!私つかれたよー」

 最後の言葉が切れるのと同時に背後の支えがすっと無くなる。僕は一瞬後ろによろけたがすぐに元に戻った。

 りなは道を外れ、雑草の生い茂る地べたに座り込んだ。その背中には大きな石を背負っている。休むにはもってこいの場所だ。

 僕もいろいろと疲れていたが、少し先に行ったところに一点だけ陽光が明るく差し込んでいるところがあったのでそこに行ってみることにした。


 ──最終的に、それが仇となった。


 さっきから黙ることの知らないひぐらしは未だにその美声を出し続け、傾いた日は1日の終わりを告げんとばかりに、これから訪れる危険を、夜を警告しているかのように赤く僕を照らしていた。

 その幻想的な、けれども至極当然な夏の一瞬に見蕩みとれていたせいで、僕は『それ』が身近に迫っていることに気づけなかった。

 グルルと怪しい笑い方をする『それ』は一歩ずつ確実に、慎重に僕に近づいていた。

 ひぐらしの美声に混じる奇妙な音に気づき、そちらを向いた時には『それ』との距離は10mも無かった。

 目の前にたたずむ1匹、否、1体の真っ黒い巨躯を持った化物。


 ──『それ』の存在は村のみんなにとって脅威でしかなく、恐れられていた。


 ──『それ』は冬場でも平気で現れる、本当はありえない猛獣。


 ──『それ』は肉を好む。


 

 ────『それ』は、昔、尊い命を、1人の少女の命を、吹っ飛ばしている。

 

 それを認識した途端、僕は雷に撃たれたような衝撃に襲われた。背中の温もりは既にない。

「ああ⋯⋯ああああああああ⋯⋯」

 消え入りそうで、けど、どこまでもとどろきそうな僕の声は、すべて今、雷とともに鋭く入り込んできた『記憶』に起因する。

 ──そう、この光景を、僕は1度見ている。

 

 ○○○


 あの日も、ひぐらし鳴く夏の夕方だった。

 りなと沼の周りで鬼ごっこをした日だ。2人で鬼ごっこというのも悲しいものだが、その日はみんな用事があって遊べなかった。それで2人だけで遊ぶことになり、そして鬼ごっこをすることになったのだ。

 それなりに楽しかったと記憶している⋯⋯そうだったと思い出した。

 その帰り道。りなが疲れたと休んでる間に僕はカブトムシがいないか探し回っていた。

 ──そして、『それ』と出くわした。

 呆然と立ちすくむ僕にとって『それ』の出現は予想外のことだった。何せ『それ』の出没時期は秋だからだ。

 グルルと嫌な笑い声を上げて今目の前にいる獲物を喰らわんとしている。

 大きな、黒々とした、鋭い爪を持った、両足で立てば2メートルはある、農村に住んでいる人々に恐れられている存在。

 ──この時が僕にとって、初めての熊との遭遇だった。


 となると、この後は⋯⋯。


 ○○○


 猛獣を目の前にしてもなお、動じないのは誇るべきことなのだろうか。僕はただ哀れだ思う。目前まで命の危険が迫っているにも関わらず、それでも危険を冒し続けるのは愚かで、哀れで、率直に言うと馬鹿だと思う。


 その馬鹿に今、僕はなっている。


 お互いがお互いの存在を確認してから今まで膠着こうちゃく状態でいたが、それもどうやら終わりのようだ。それすなわち、僕の命の終わりを意味する。あれだけの巨躯に襲われたら命はないだろう。

 四つん這いになって駆けてくる巨獣は、4歩もしないうちに僕の目の前まで辿り着いた。

 ──ああ、僕は、死ぬんだ。激しい痛みを伴って、懐かしげのある少女を取り残して⋯⋯


 無念だけ残して──


 その時だった。背中に衝撃が加わった。その衝撃には記憶に新しい温かみがあった。

 前方に押し飛ばされ、危機を脱する。その空中に浮いてるほんの僅かな時間。身体ごと180度回転させると、そこには真っ白いワンピースを着た、1人の少女がいた。

 両腕を伸ばして助けを求めているのか⋯⋯そうではないと、あの微笑みが語っている。

 直後。襲来。黒い物体が目の前を一瞬で駆け抜けた。

 『それ』に、少女は連れ去られた。

 やや間があって、遠くでどすりと葉に重たい何かが落ちる音がした。全身を寒気が襲った。

 堪らず僕はその音のした方に駆けた。そこには、1人の少女が、力なく倒れていた。黒い悪魔はどこかへ消えていた。

「おい!⋯⋯りな!」

 血は出ていない。目も開いている。なのに、返事がない。

「りな!」

 強く名前を呼ぶと首だけこちらに傾いた。そして彼女は──


 ──幸せそうに、微笑んだ。

「わたし、もうそろそろいいかな」

「⋯⋯どういうことだよ!?」

 こんな状態になって、そろそろいいかななど嫌なことしか連想できない。

「りな!死ぬな!死なないでくれ!僕を1人にしないでくれ!」

 そう、これは──

「またあの時みたいに僕を1人にしないでくれ!」

「!」

 りなの表情に驚きの色が浮かんだ。

 僕は思い出した。これは、りなの、最期のシーンの再演だ、と。

「おまえがこのまま目を瞑ったら、もう二度と会えないだろ!?」

「⋯⋯どうして、そこまでひっしになるの?わたしはだいじょうぶだよ?」

 か細い声は今にも消え入りそうだった。

 それでも僕は訴え続けた。

「だって⋯⋯だって⋯⋯!」

 だって、彼女は──

「おまえは⋯⋯⋯!」

 僕の──

「僕の初恋の相手だからだよ!」

 まだ頭痛が酷い。次第に頬も熱くなってきた。馬鹿なやつだ、とつくづく思う。こんな状況にも関わらず、告白をするなんて。ありえないことだ。

「⋯⋯わたしも、ずっとすきだったよ?ゆうくんとはじめてあったひから、ずぅーっと。しょうらいはゆうくんのおよめさんになるってきめてたんだからね?」

 こみ上げてくるものをぐっと堪えた。それで精一杯だった。

「いーっつも、まいにちわたしのいえにきてあそぼうあそぼうって」

 ボロくて建て付けの悪い扉を叩くシーンが思い浮かんだ。

「わたし、ゆうくんにあえてすっごくしあわせだった。ほら、はじめてあったときたすけてくれたじゃん?あのときのおんがえしだとおもって⋯⋯」

「そんなものいらないよ!僕だってりなと結婚したいって思ってた時期があったよ!」

 ⋯⋯そう、それは悲しくも過去形。

「りなを助けたのだって、1人の女の子が溺れそうだから助けないとっていう使命感が自然と湧いてきたからだけなんだよ!別に恩を着せるために助けたんじゃないよ!」

 そんな人は、地獄に落ちるべきだ。

「ぼくは⋯⋯」

 この気持ちは。

「りなのことが⋯⋯」

 1人の少女のことが。

「大好きだ!初めて会ったとき、女神にでも会ったような気分だった!そんなりなを助けれたことを僕はずっと誇りに思ってた!その気持ちは今も潰えず僕の心のなかにある!なのに⋯⋯」

 僕は。

「──きみのことを忘れていた」

 嗚咽が交じり始めた。目の前にいるりなの顔も朧げだ。

 ──さっきよりその姿が消えつつあるのを、僕は気づけなかった。

「ごめんね、ゆうくん。もっとたくさんはなしたいけど⋯⋯もうじかんみたい」

「な⋯⋯なんのだよ!」

 逆上しても意味がないことはわかっていたが、何の時間なのかを察してしまえば自然と怒鳴り散らしてしまう。それほどにその言葉には重みがあり、同時に悲しみがあった。

「ごめんね⋯⋯さような、ら⋯⋯ゆう⋯⋯くん」

 あまりにも唐突で、早い別れに僕はただその温もりを感じ続けたいと願うばかりだった。


 ──その願いも、りなとの別れのようにすぐに儚く散った。


 ○○○


 「おーやっと散ったか。随分あっけない最期だったなー」

 1人男はついさっき花弁を散らした1輪の花を見て言う。やはりその言葉は非情で辛辣だ。

 でも。

「⋯⋯来年は、もう1輪多く、咲いてくれよな」

 微かな声でそう願うのであった。

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