初夏の憂い
千歳
初夏の憂い
1
駅のホームの時計は、ちょうど十時を指していた。今頃同級生たちは先生の放つ睡眠の呪文に耐えながら、教科書の活字や板書と睨めっこしているだろう。
では何故、俺は駅のホームにいるのか。答えは単純で、悪びれもなく、堂々と、学校を欠席したのだ。
学校をサボることに、受験への焦燥感や、危機感といったものを、一般の学生であるならば、感じずにはいられないだろう。だが、俺は違って何もかもを諦めていた。
学力が劣っているとか、受験へのプレッシャーに耐えかねて逃げ出したわけではない。ただそれだけは違うと断言できるだけで、その「諦め」の理由を詳細に語るにはまだ、この感覚は不明確だった。
かくして俺は平日の十時にも関わらず、自身が学生であるということも忘れたかのように、勝手しているのである。
制服ではなく私服を着ているところ、もう学生を放棄してしまっていることを体現している。教師がみたら、きっとこんな生徒見限ってしまうに違いない。
初夏、もう半年を迎えそうな頃合いである。つい最近がお正月であったかのような感覚に囚われている自分には、その現実を受け止め難かった。
しかしカレンダーが嘘をつくことはない。時の流れは残酷にも現実を突き付けてくる。薄着であるにもにもかかわらず、背中や額からは汗が噴き出していて、夏が目前であるということを嫌でも思い知らされた。
少しでも涼しさを取り入れようと、イアホンからは涼しげなピアノソロが流れ続けているが、期待するほど効果はない。依然として汗は噴き出すばかりだった。
さっき購入したジュースも、初夏の暑さに温くなって、ボトルの表面に水滴を浮かべ人間と同じように汗を垂らしている。
――一番線に各駅停車……。
その音声の通り、遠く向こうの方からのろのろと車両を引き連れて各駅停車がやってきた。それも、学校と正反対の方面へ進む電車。
ベンチから腰を上げる。触れていたところに汗が染み込み、ズボンが冷たくなってる感覚が不快だった。
「――あの」
電車がゆっくりと減速して、停車する。それに合わせて俺は歩き始める。
ピアノソロは一番の盛り上がりに差し掛かった。繊細でノスタルジックな旋律が心を奮わせる。
「あの!」
点字ブロックを一歩踏み越えたとき、誰かに声を掛けられていることに気が付き振り返った。すると、自分と同じ学校の制服を身に纏った女子高校生がいた。
反対方向の電車に乗ろうとすることを咎めに来たのかと思うも、制服を着ていない俺を同じ学校だと判断できるはずがない事に気づいた。ただ唯一の可能性を除けばだが。
俺はイアホンを外して、返答する。
「なんですか」
電車は待ってはくれない。早急に伝えて欲しい。
「あれに乗るんですか」
「そうだけど」
「じゃあ、乗ってから話しましょう」
彼女の表情はなんというわけもなく、平然としていた。自分の質問の奇妙さや、不審さなど全く気が付いていない様子だ。その振る舞いに恐怖すら覚えた俺は、恐る恐る彼女の背中を追って乗車した。
午前の十時に各駅に乗る人などおらず、車内にはおばあさん二人とおじさんと俺たちの四人だけった。人目が少ないことをいいことに、俺はマナーを気にせずクーラーの真下に立って冷気を全身に浴びた。
「今日は暑いですね」
彼女もまた、クーラーの真下に立ち、俺と同じように冷気を浴びていた。
「困りもんだね。朝は肌寒いのに日中は暑くなって、日が落ちればまた寒くなる。質が悪いよ」
まるで知り合いと話すのと同様の調子で返してしまったが、ふと、彼女が異様な人物なのを思い出し、緩みかけた気を引き締めた。
額の汗を手ぬぐいで拭う彼女に訝し気な視線を送っていたことを気付かれてしまい、咄嗟に目を逸らす。
「あの、人違いなら申し訳ないんですけど、
「知ってたんだ。……けどそれを確認するなら今じゃなくて、乗る前の方がよかったんじゃないの」
空気が噴出する音とともに、ドアがガタガタと音を立てて閉まる。
「あ、いえ。あなたか飯梨くんであると確信していたので」
「まさか知り合い?」
問いに対して彼女は眉根を寄せた。
ナイフの先端を突きつけられたような彼女の鋭い目つきに、俺は堪らず視線を落とす。
「クラスメートを間違うとでも」
なるほど、と思いかけ、何か違和感を覚えた。俺の記憶に彼女の姿はない。だが実際制服が物語る通り同じ高校で違いない。
「そうだよな。ああ、そうだ……」
「まるで私を知らないような様子ですね」
その通り、と言っていいものだろうか。しかしここで嘘をつけば今後ボロが出る。なぜなら名前すら記憶にないのだから。
「ごめん」
「いいですよ。最近は学校をお休みしていたのですから、一人や二人忘れることだってあります。」
彼女のその、人を優しく包むような優しさに、俺の良心は細切れになってしまった。
俺の名誉のためにも述べておくけれど、こんな俺でも人の顔や名前を忘れたりなんかしない。元から覚えないだけだ。
「は、はぁ」
しかしここは正直な事は言わずに、相手の言葉に乗っていた方が吉だろう。
「後ろの席の
朝酌、という名前を聞いて思い当たるところがあった。それは、朝酌という人間を彼女ではない別の人間で記憶していたということだ。朝酌はこの人だったのか、という印象が大きく前に出た。
自分はつくづく同級生に興味がないことのだと分かり、呆れの混じった笑いが漏れた。
「ああ、忘れない。絶対に」
電車が動き始め、車両がぐらりと揺れた。俺らは十分涼んだので席に座ることにする。
そういえばなぜ朝酌さんがこの時間にこんなところにいるのか、という疑問を持った。当然のことながら今の時間は、正しい学生であるならば学校に行き、授業を真面目に受けているはずだ。けれど、彼女は今ここにいる。
「飯梨くん、どこに向かっているんですか?」
「気の向くままに」
それを聞いた朝酌さんは、少し頬を緩めた。
「なら、あの、お願いがあるんですけど、聞いていただけますか」
朝酌さんは次の言葉を慎重に丁寧に作り上げているのだろうか、長い沈黙が生まれた。彼女を横目で盗み見ると同時に日陰になり、少し暗くなった。
「どう申し上げればいいか悩むのですが、こう表現せざるを得ないと思うので、どうか気を悪くしないで聞いて下さい」
沈黙を破って出た言葉は、深い、深い念押しだった。そこまで言わなくても気を悪くすることはないと思うが、彼女にとっては気を付けるべき点なのだろう。
「一日だけでいいから、飯梨さんみたいに、不良、してみたいんです」
どんな言葉が彼女から出てくるかと思えば、可笑しなお願いが出てきて、気張っていた俺はふと肩の力が抜けた。
「朝酌さんの想像する不良像がどんなものかはわからないけど、俺は期待に添えないと思う」
なぜなら俺は不良を忌み嫌っているから。
「どういう事でしょうか」
「もちろん君たちから見れば、俺は頻繁に学校サボってる不良かもしれないけど、不良のように非行をしてるわけじゃないんだ」
「そうなんですか」
「そうだ。カバンに単語帳入れてる不良がいてたまるものか」
朝酌さんは何度か頷いた後、言葉をつづけた。
「では、飯梨くんは、佐藤さんや内山君が噂しているような、非行少年ではないのだと、いうことですね」
なんとなく覚えているクラスメートの名が挙がり、それらが俺の事をあることないこと噂している事実を目の当たりにして、どう反応してよいか迷った。
「例えばだけど、俺はどんなことをするような不良として噂されてるの」
朝酌さんは迷わずその根も葉もない噂を、無邪気な子供のように列挙し始めた。その数々は、ありそうなものから度が過ぎたものまで様々だが、看過できない噂が大半を占めている。
「これは酷い。つまり、こういう事をしているであろう人間だから、君は接近してきたと」
「そうです」
彼女の期待を裏切るのは申し訳ないが、俺の評判を著しく下げるような(実際彼女の耳に入っているのだから、もう手遅れだが)噂を、嘘でも肯定するなどできない。
「君だけでも誤解を解いておこうと思う。俺はサボって他校の女と遊びまわったり、昼夜パチンコ行ったり、ましてや荒れている高校に殴り込みに行くような人間じゃない。学校サボって何しているかと言えば、考え事ながら散歩してるだけだよ」
「散歩?」
全く予想外だったか、その言葉に反応した。当然と言えば当然だろう。今まで不良だと思っていた人間が、ただ学校サボって散歩しているだなんて、俺がその立場なら素っ頓狂な顔になるに決まっている。
「そうだ」
「……そうですか」
彼女の求めるところとは大きく外れてしまっているのだろうか。それは窺い知れないが、先程より声に抑揚がなくなってしまった。
不本意にも申し訳なさを感じた。俺が噂通りの非行少年であったならば彼女が気を落とすこともなかったのだろうと、そう考えてしまった。人の噂に踊らされた彼女を憐れむほど、俺の心は冷酷ではない。
それと同時に、この調子だと彼女は別の不良のところに突撃しに行く可能性があるということも懸念される。
俺だったからよいものの、別の人であったならば彼女がどうなっていたかはわからない。危険な目にあってもおかしくはないだろう。
そこで俺は妥協案を彼女に提示することにした。俺の為にも、彼女の為にも、相互に利益のある提案を聞いてもらおうと思う。
「――じゃあさ」
朝酌さんは失望の目をこちらに向ける。
「俺が噂されてることのいくつかを、本当にやろう。一緒に」
そうすれば、互いにいい日になるだろう。
彼女は目を丸くして、笑顔のような表情を見せた。
「――はい!」
2
到着したのは三つ隣の駅で、ここはよく好んで散歩する町である。
「ここは来たことあるか?」
改札口を通り抜け、北口から出てある目的地に向かう道中、俺はそう質問した。
「ありません。あまり電車で出かけることがなくて」
一般的に想像される女子高校生の元気さは、彼女にはない。大人しめで、人を一歩引いて見るような性格と見て取れる。だからだろうか、彼女の言葉を違和感なく納得した。
「だろうな」
「何があるんですか」
そう問われれば、この町の住民は皆口を揃えていう場所がある。太平洋に面した県だからこそ、そして、その県でも面しているから持ち得ることが出来る場所。海である。
都会のように高いビルが乱立しているわけでもなく、学生が遊べるような遊技場があるわけでもないこの町の、唯一集客力を持つ場所は、言うまでもなく海なのだ。
「正直、何もない。海が近いだけの町だ」
朝酌さんは興味なさそうに、相槌を打った。
「ところで朝酌さんは、どんなことから始めようと考えているんだ」
「お酒、飲んでみたいです」
「それはどうして」
俺に微妙に目線を逸らしつつ、彼女は「大人たちはお酒で嫌な事を忘れると言います。私も、忘れたいなって」と、含みを持った言葉を口にした。
非行に走りたくなるような、忘れたくなるような嫌な事、そんなことを忘れるために、いま彼女はここにいるのだろう。
しかし、その実態を知るすべも、関係性も、俺にはなかった。会って数分の関係など犬の餌にもならない。
「忘れられるといいな」
「ええ」
そう言う彼女は少し、悲しげな顔をした。
コンビニで水と初のチューハイ購入を果たし、俺たちは人目につかないところを求めて歩みを進めた。先述の通り、俺はこの町をよく散歩する。だから適した場所については心当たりがあった。
海に向かう道の途中に、廃墟の団地がある。取り壊し予定日を二年も超えてしまっている廃墟団地の荒れ様は、自然の脅威を感じずにはいられないものである。そのせいで人が寄り付かないため、絶好のスポットだと言えよう。
本当の不良さんたちも好んで来るのか、立ち入り禁止のフェンスは引き裂かれて、人ひとり通れる裂け目ができていた。
俺らはなんとかその団地にたどり着き、裂け目を通って雑草生い茂る無法地帯へと足を踏み入れた。
道なき道をひたすらに歩き、建物の入り口を発見した。
「少し不気味ですね」
「何か出そうだよな」
酒の入ったビニール袋を揺らしながら、立ち入り禁止のロープが張られた建物へと入っていく。石の壁は雨で汚れて奇妙な模様を作り、階段の鉄の手すりは錆びていて、触れれば自分の手まで錆びてしまうようだった。
屋内は薄暗く、かび臭いにおいが周囲に立ち込めていて空気が悪い。極力息を吸いたくないほどに不衛生で、人間の管理が如何に重要か再認識する。
薄暗い建物をひたすらに上へ上へと上がって行き、「屋上」とプレートの貼られた扉の前まで来た。解放厳禁という文字が錆びて滲み、他の言語だと錯覚させられてしまう状態だった。
扉を押してみると、ギィィと鉄と鉄の不快な摩擦音が屋内に響き渡る。扉と壁をつなぎとめている金具が、いまにも扉の重さに耐えかねて割れそうだ。
扉が開かれると、熱のこもったそよ風が屋内に入り込み、俺らの髪を優しく撫でていく。
朝酌さんは屋上を一周した後、この五階の高さをものともせず、縁に腰掛けた。脚を放り出してぶらぶらさせている。
「おい、危ないぞ」
落下防止のフェンスなどない。
「大丈夫ですよ、ほら」
朝酌さんは隣に座ることを催促するように、ぽんぽんと隣をたたいた。それに応じて、しぶしぶ俺も隣に腰掛ける。
「じゃあ早速、飲んでみましょう」
「あ、ああ」
俺は袋から缶を取り出して朝酌さんに手渡す。移動中に少し温くなってしまっているだろうけれど、別に気にすることではない。
開けると、プシュッといい音を立てる。
「乾杯しましょう」
缶をこちらに向けてそう言ったので、俺はその間に自分のを当てて「乾杯」と返す。
二十歳でもないのに酒を飲むことに、変な高揚感や、罪の意識というものは生まれなかった。それは、自分が今持つ何かに起因しているのではないだろうか。学校の縛りから逃れる事、法の拘束から逃げ出す事、そんなことで俺の心の中にあるそれを揺るがすなどできまい。
しかし、朝酌さんはどうだろうか。これを目的として俺と行動を共にしている。お気に召すのならうれしい限りだが、優等生の女の子に酒を飲ませることに罪悪感は少なからず感じざるを得ない。
チューハイを喉に流し込むと、アルコールの匂いとグレープフルーツの果汁の苦みが鼻と口に充満する。
朝酌さんはというと、一口飲んで「ジュースみたいですね」という単純な感想を残した、朝酌さんが飲んでいるのはモモの果汁が含まれるチューハイ。アルコールの入ったジュースと言ってよいだろう。
そして度数はたったの3%だから、よほど酒に弱くなければ一本飲み干しても酔う様なことはないはずだ。
「ビールや日本酒なら違うと思うんだけど、チューハイはそう感じても不思議じゃない」
朝酌さんは俺の持つ酒をみて、味見を要求してきた。俺は快諾して、彼女の酒と交換し、一口飲んでみた。すると、喉を焼くような甘さが流れ込んできて、何とも言えない感覚が口内に残留する。
「よく飲めるな」
彼女は俺のを一口飲んで、苦そうな顔をして「こちらの台詞です」と言い、缶を突き返した。
そうして、ただ黙々と飲み続ける時間が続き、互いに飲み終わったら、再び会話が生まれた。
「飲んだら体が熱くなりました」
「俺もだよ」
朝酌さんは缶を持つ腕を引き、力を込めて振り上げた。缶は宙を舞い、重力に従って放物線を描いて落下していく。くるくると回り、中に残る少しの液体を散らしながら、俺らからどんどん離れていき、草むらに消えて行った。
「次は何をしたい?」
俺は淡々と彼女が望む非行その一である酒を終えていまったため、もう少し刺激が欲しくなった。
もっとアグレッシブなこととかやってみたいのだが。
「タバコ、やりましょう」
地味なのが選ばれたことが、少し不服ではあるが、彼女がしたいというのだから仕方がない。俺はカバンから煙草を取り出して彼女に手渡した。
「え、普段吸ってるんですか?」
「いや、それは友達がくれたんだ。やってみろって。でも俺は不健康な事したくないから、吸ってない」
「そうなんですか。驚きましたよ、カバンからすぐ出てきたんですから」
一本とライターを箱から取り出して、その一本の煙草に火をつけた。葉は赤々と光を放ち燃える。先からは細い煙が立ち上がり、彼女は慣れない手つきで口にくわえた。
「これです、これこれ。かっこいいと前々から思っていたので、やれてうれしいです」
映画でダンディーな男がよくやるポーズを朝酌さんはとって見せた。ほほえましい光景と言えばそうだが、やはり女子高校生に煙草は不釣り合いだ。
「吸い方わかるか?」
彼女は試しに大きく吸ってみたものの、肺まで届いていない様子だった。いわゆる、ふかしというやつだ。
「ああ、駄目だな」
「え? 駄目とかあるんですか」
「ある、まあやめておけ。健康に悪い」
俺は彼女から煙草を取って、缶の中に入れて処理した。ここで先ほどのように投げ捨てれば大火事になるのは火を見るより明らかだ。
「……煙草って難しいんですね」
何度か咳払いをした後、朝酌さんは名残惜しそうにそう呟いた。
「吸い方を知っている人から、味わえる方法をゆっくり学ぶべきだ。ノウハウが俺にはないから、なんだかこのまま君に吸わせ続けるのは怖い」
もし、間違った吸い方で死に至ることがあれば、取り返しがつかない。そんな話は聞いたことないけれど。
「優しいんですね」
「いや、保身だ」
俺は煙草の入った缶を、朝酌さんと同様に、彼方まで飛んで行けと思いながら、力の限りに投げ飛ばした。
結果は先ほどと同じ。生い茂る草むらの中にその身を投じて消えていった。
「さて、二つほど実行してみた感想ですけど、なんだかドキドキもワクワクも感じませんね。不良さんたちはいつもこんなことして何が楽しいのでしょうか」
ただ冷淡に、そう口にした。それは彼女の理想とするものとは大幅に異なっていたためであろう。もっと、自分を導くような物なのだと、期待を抱いていたのだろうがそれが打ち砕かれて、失望した、そう推し量れる。
「大人への反抗、社会への怒り、それを充たしているんじゃないかな」
果たして彼女の目的が、非行をすることによって成し遂げられるのだろうか。そんな疑問が浮かび上がって仕方がない。
「酔いが回れば、彼らがそんなことをする理由が、分かることもあるはずだ」
3
自転車を盗み二人乗りで坂を暴走する、というのが次の非行なのだが、今回ばかりは実行の可不可の判断において、難題だった。
信号すら無視した走りは事故にあう可能性が高い。いくら平日の午前とはいえ、交通量が少ないわけではなく、危険な事に相違ない。
しばし考えた結果、なるべく危険な目にあわないように操縦するしかないと結論づけた。速度、バランス、周囲の警戒、この三つを最大限に注意することで、少しでも危険を減らす。
「とんでもなく危険だと思うのですが、私、さっきの甘いやつより、これの方が嫌なこと忘れられそうな気がします」
「は、はぁ」
「まずは自転車を盗みましょう」
平然と不法行為を口にするようになった彼女に呆れつつも、その言葉に首肯する。
自転車なら廃団地の入口の周辺に不法投棄されていた自転車がいくつかあるはずだ。中にはまだ綺麗なモノだってある。そういうのは大体盗難車だろう。
俺らはさっき来た道を戻り、入口周辺の自転車を物色する。どれも使えないものばかりだったが、唯一最近盗まれたのであろう綺麗な自転車があった。防犯登録もばっちり。
「これを使おう」
俺は自転車をフェンスの裂け目に通して、団地の敷地内から外に出す。
タイヤやペダルは問題なく回り、チェーンもしっかりしているため普通に使うには申し分ない。
「荷台、痛いだろ」
鞄からタオルを取り出して、荷台に敷く。昔友達と二人乗りをしたとき尻骨が痛かったのを覚えている。だから、その配慮に。
「ありがとうございます」
朝酌さんは荷台にまたがるのではなく、横向きに座ったのだが、それで安全性は確保できるのだろうか。
俺は自転車のサドルに腰掛け、後ろの朝酌を見る。
「しっかりと捕まっていてほしい。場合によっては、死んでしまうかもしれない」
「はい」
朝酌さんは俺の腰に手を回して安定した。しかし、俺の心は不安定となる。女子にこんなことをされた経験がないため、何ともむず痒い。不思議な感覚が視界をぐらつかせる。
「出発するぞ」
「はい」
ペダルを漕いで徐々に速度を上げていく。二人の体重のバランスを次第に速度が補い始め、いつしか安定して走行することが可能となった。
海を臨む急な勾配の坂まであと十分ほどの距離がある。この時間をかみしめるように、ゆっくりと進んだ。
4
眼前に広がるは壮大な青い海とその上を浮遊する巨大な綿あめのような雲。そして向かい風は潮の香りを運んできて、いかにも海だと感じさせられる。
沖縄の海と比べれば濁ってはいるが、海に変わりはない。
海水浴をしている人はおらず、ただ海を眺めたり、犬の散歩をしている人しか見受けられない。まだ海水浴に来るには季節的には早すぎるわけだが、初夏の気温も本番と変わりない暑さであるため問題ないだろう。
「ここがさっき言ってた坂ですか」
「ああ。なかなかに綺麗な景色だろう」
今からあの海に向かって走り出し、三つの信号を越えなければならない。距離は大したことはないのだが、坂の角度と速度は馬鹿にできない。今まで何人もの人々を事故に追いやったと言われているのだ。
「無事、海までいきたいですね」
「そうだな。天に行かないことを願うばかりだ」
不吉なことを言って俺はペダルを漕ぐ力を強めた。速度が上がれば体重など気にならなくなる。坂を下る前に、事前に速度を出しておく必要がある。
そして、向きを固定するため目いっぱいにハンドルを握る。体重や速度はタイヤが少しでも変な方向を向けば、すぐに足を取られて横転してしまう。当然俺らは投げ出されて大怪我だ。
何もかも危険が付きまとうこんなこと、誰もしたくないはずなのに、なぜ俺は断らずに挑戦したのだろうか。彼女が忘却を求めるなら、俺は「諦め」の理由を求めているんだろう。
前輪が後輪より低くなり、自転車はとうとう坂へと乗り出したようだ。自分が漕いで出せる速度を優に超し、もはや制御できない域に達する。手元が狂えば死ぬ、その恐怖が脳内でぐるぐると回り始める。
立ち並ぶ建物が素早く流れていく。人、自動販売機、店、視界にとらえたものが次々に後方へと送られてしまう。
さっきより風を強く感じる。髪が揺られ、衣服がはためき、風邪を切る音が耳に大きく聞こえる。
ハンドルが左右に向けられないことに底知れぬ恐怖を感じ始めた。
「――――」
朝酌さんが何かを叫んでいるような気がするが、俺は死の恐怖との戦いで集中していて、聞いている暇はない。
ちょっとした段差ですら車体が大きく振動し、ハンドルが持っていかれそうになって、必死で前に向けることに努めた。握っている手が熱を持つ。
「――――」
「しっかり――」
一つ目の信号が迫る。向こう側まで大した距離ではない。歩行者もいないため、あとは信号が何色になるかが勝負。
――青。
俺は内心ガッツポーズをしながら横断歩道を凄まじいスピードで渡り切る。足元をみると、ひかれた白線が道路の黒色と交互に目まぐるしく移り変わるのが視界に映り込み、現在の速度の異常さを実感した、してしまった。
脚がすくむ、手が震える、視界がぼやけて朧気になる。だが弱音をはいていられない。ここを超えればすぐに二つ目だ。
――赤。
嫌な汗が吹き出し始めた。死が手招きをしている。俺を、俺たちを誘っている。信号の赤い光が深い深い真紅に染まっていくように見える。
ブレーキを掛けようかと悩んだが、俺は速度を上げることを選択した。ペダルに足をかけ、思い思いに踏み込んでいく。速度はますます上昇し、もう自分は風になったと錯覚するまでに至った。
横断歩道を渡る寸前、我々に迫り来る車両を視界に捉えた。止まれない、漕ぐしかない。そう、本能が判断すると同時に、俺は必死に脚の力を振り絞った。脚の疲労が熱へと変わる。熱い。
クラクションが警告する。それは普段聞くよりも一段と騒がしく聞こえた。鼓膜が張り裂けそうな響きに全身が力む。
全ての光景がスローモーションに映り始めた。
俺は将来の事を憂いていた。
大学に入り、卒業したその後を憂いていたのだ。
人間の最終的な目標に向かって歩み始める。それはいったいなんだろうか。という事。それがいつまでたっても明確な形を持たず、半透明でふわふわしていた。それが、気持ち悪くて、嫌いだった。掴めず、見えず、何も俺に提示しない。ただ存在感だけは持っている。
嫌いだった。そんな人間の最終的な目標が。それに付随する大学もまた嫌いだった。
人間の目標とは、生物学上は子孫の繁栄だと聞いた。しかし、それは人間を『本能的』な視点から見た目標であって、『人間的』な目標とは大きく異なる。家庭を築かなくとも生涯を全うした人だっているわけなのだから、では、人間とは何のために生きるのか。
――死ぬため?
すんでのところで車との接触を回避することができた。後輪スレスレのすれ違いで済んだことは、本当に運が良いと思った。
朝酌さんは大丈夫だろうか。腰に伝わるしっかりとした力は、彼女の生命を明確に示していた。
死の恐怖で心臓の鼓動が手にまで伝わってくる。もしかしたら朝酌さんにも伝わっているのかもしれない。
残るは三つ目の信号機、あれさえ超せば海だ。
俺は残る力をすべて漕ぐことに利用して、ただただ速度を求めた。ふと、止まるときどうしようなんて考えが浮かんだが、知ったことではない。
公道を車と同等のスピードで駆け抜けるこの時間は、嫌いではなかった。さらに、さっきのスリルも、嫌いじゃなかった。
また、感じられればいい。
しかし最後は非常に簡単に迎えることとなる。
青信号、行く手を阻むものはいない。残るは海までの道だ。そこで妙に俺の意識は現実的となる。先程まで軽視していた停止の問題に直面した。このまま進むと防波堤から砂浜への飛行を遂げることとなるため、急いでブレーキをかけはじめる。
ブレーキがきかない。タイヤの回転を抑制するには弱すぎる。
俺はガードレールが迫り来る中、出来る限りの最大の力で握り続ける。
「止まれ!」
タイヤとブレーキが激しい摩擦を起こし、金切り声のような音を上げる。俺たちの浮かれた熱を冷ますように、そのタイヤに渾身の力を込めて停止を願った。
――止まらない。
俺はついにペダルから足を離し、その両足を地面に着けることで無理矢理にでも制止させようとした。靴底がどれだけ擦り減ろうと、背に腹は変えられない。
ゴリゴリと擦れる音が響き渡り、その音に相応しい、強い力を足首が受け止める。
その甲斐あって速度は徐々に失われて、最後には、ガードレール手前で完全に停止した。
暫し俺らは言葉を交わさずに自転車に乗ったまま硬直した。
手の震えが止まらない。心臓の鼓動も早いままだ。額から落ちる冷汗は地面へと落ちていき、斑点模様を作り出す。
今、生きていて一番、生を近くに感じていた。
5
俺らは二人で砂浜に裸足になって寝転んだ。特に意味はない。俺が寝ころんだら朝酌さんも続いてこの形に収まったのだ。
朝酌さんが突拍子もなく大声で叫び始めた。
「すっっっごく楽しかった!」
足をバタバタとさせ、体でもそれを表現する。
「飯梨くん、さっき、どう感じました?」
嬉々とした表情で言う彼女を見て、俺は無意識に笑ってしまった。
「な、なんで笑うんですか。私の顔に何かついてますか?」
「い、いや。やっと、ちゃんとした笑顔になったなって」
「……?」
いままでずっと、朝酌さんは何か考え事をしている様子だった。それと同時に、俺との会話での反応もしなければならず、ぎこちない表情が続いていた。
だから、彼女の「素直な笑顔」が見れて安心した。
「なんというか、死を感じた。とても近くに感じたんだ」
その答えは彼女の満足のいくものだった。
「そうです、私も死を感じました。背後で、車と紙一重ですれ違ったときは特に」
彼女は深呼吸をする。
「こんな恐怖、今の私の悩みとは比べものにならないくらいに、重く、暗いものでした」
俺は上体を起こし海へと駆けていく。足を海水につけると先ほどの熱が冷えていくのを感じ、気持ちがよい。
俺は振り返る。
「朝酌さん、何に困ってんのさ」
少し俺に目線をずらした状態で、「親友と喧嘩して、酷いことを言ってしまったんです」と、告白した。さらに、
「実は、あなたと行動を共にしている時、私、こんなことしてていいのかと、我に返ってしまっていました。明日絶対に先生に怒られるし、両親にだって」
俺は彼女のそんな憂いを解消させたかった。
「さっき人間の生きる意味が分かったよ」
生きる意味を考えてしまうようになった原因は、人間の想像力にある。他の動物にそれは無い。人間のみ持つものだ。死んだあとはどうなるのか、なぜ生きるのか。そんなこと、人間以外は考えていない。
考えなくたっていいんだ。考えることが人間の愚かさだ。
「そんなものなんてない。あるわけがない。みんな適当にこじつけてるんだ、みんなあると思い込んでるだけだ」
ここ数ヶ月、俺を悩みに悩ませ続けたこの憂いをたった今無くすことができたからこそ、言えることがある。
「生きる意味はなくても、やっぱり死ぬのは怖い。だから、人生楽しく生きて行こうって決めた。意味はなくてもこの世に生を受けた限り、生き続けることは義務だと思うから」
一拍置いて、俺は新たなる決意をした。
「俺、これからサボらず学校に行くよ。それで、その初日の予定は、君と一緒に、先生に怒られることにしよう」
「え?」
朝酌さんは全く予想もしていなかったことを言われて、唖然としていた。
「君の親友とも仲直りする手伝いをしよう。なんだってする、君の助けになるなら」
――ああ、こんなこと言うのは、性に合わないのに。
「それなら、今の不安も消えるだろ?」
彼女は笑って、涙を流し始めた。
「なんだか安心したら、涙が出ちゃいました」
「よかった」
彼女も立ち上がって、海へと走る。俺に向かって全力で走ってくる。
バシャバシャと音を立てて近づいてきて俺に抱き着いてきた。ふいを突かれた俺は受け止めきれずに後ろへと倒れていく。
ふたり、海の中へと入っていった。
水の音が聞こえる。あとは、全身に伝わる冷たさ。
まだ入るには早すぎたみたいだ。
でもこの火照った身体を冷やすには丁度いいかもしれない。
えっと、なんでこんなことしてるんだろ。
――たぶん、俺たちは酔ってるのかもしれない。
終
初夏の憂い 千歳 @Ankoromoti1999
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