第5話
あれからちょうど一週間後。今日は
「おい
「……なんだよ」
おれのテンションが低いのは、昨日、母さんに怒られて部屋の掃除してたらなつかしいゲームを見つけて、あとは分かるな? 人が気持ちよく寝てたところを突然起こされたら誰だって不機嫌になる。
「あの陸上部の女子、胸すごくね? さっき走ってた時すごかったぞ」
「あっそう……」
そんなことでいちいち起こすなよ。調辺高に着くまで、もう一回寝るか――と思ったけど、陸上部が練習してるってことは、もう着いたってことか。まさかまだ
着いたら起こせよとは言ったけど、そんなことで起こされなければもうちょっと寝てられたのに。
あくびをしながら伸びをすると、首からぼきっとすごい音が聞こえた。どーれ調辺高はどんな学校なんだいと開ききってない目を窓の外にやると、同じく半開きの目をこちらに向けてる
「宍戸、お前、最近おかしいぞ?」
「おかしい? ……何が?」
「女子の話題に食いつかないなんてお前らしくない。巨乳見てもノーコメントとか、道端に生えてる変なきのこでも食ったのか?」
「……お前じゃあるまいし、その辺に生えてるきのこなんて食うかよ」
「だよなー。……って、さすがのオレでも食わねーよ!」
北上がいつもみたいにノリツッコミしてくれて、その直前のおれは普通のテンションで返せたらしくてほっとする。
北上におかしいって言われてやっと気付いたけど、確かに最近のおれはおかしい。
三日くらい前に、下校中に偶然パンチラに遭遇した時も、視界には入ってたんだけど、北上に言われるまでそれがパンチラだと気付かなかった。いつもなら北上と無言でハイタッチして喜びをかみしめるのに、おれは他のことで頭がいっぱいだった。
視界の端どころか、真後ろでも半径三十メートル以内に巨乳の気配を察知したらレーダーが反応するというのに、そのレーダーも最近はまったくといっていいほど作動していなかった。さっき北上が教えてくれた、あんなばいんばいん揺れる巨乳がいたら、いつもならもっと早くから察知してたはずだし、北上に言われなくともガン見してたはずだ。
最近のおれは何があったんだろうと考える暇もなくバスから降ろされて、チューバを音楽室まで運ぶ。これがしんどい。
音楽室ってなんでどこも三階にあるんだろうな。入学式とか、壮行式とか、体育館で演奏する機会って結構あるじゃん? そのたびいちいち三階から一階の、しかも端から端まで運ぶのめんどくさくね? 一階で練習すりゃ運ぶのも楽なのに。今日だって三階から下ろしてきて、また三階まで上げて、練習が終わったらまた下げて上げなきゃいけない。
「大変そうだね、宍戸くん」
にやにや笑いながらトランペットケース片手に階段を駆け上がる北上に殺意がわいたのはいうまでもない。
花形楽器っていいよなぁ。曲でも目立つのに持ち運びも楽だし、いいこと尽くしじゃん。フルートとかクラなんて鞄に入っちゃうし。うらやましい。チューバも木管みたいに折りたためないかなぁ。もしくは小さくするライトでも欲しいところだ。
ひーひー言いながらなんとか音楽室に到着する頃には、低音以外はもうきっちり整列していた。おれが来たことに気付いた北上が気持ち悪い笑顔を浮かべながらピースしてきたから、殺意を込めて睨み返す。
チューバを運んだ疲れで、先生やら部長やらの話なんて耳に入ってこない。たかがチューバを運んだくらいで、しかも男なのに、とでも思うかもしれないだろうけど、帰りもまた下ろさないといけないんだよなぁって考えたらそれだけで疲れた。
ぼーっと向かい合うように並んだあっちの吹部の人たちを左から右にゆっくり眺めてたら、ある人が視界に入った途端目がとまった。特別背が高いわけでもないのに目がとまったのは、やっぱり整った顔立ちをしているからだろうか。背はたぶん、おれのほうが少し高いと思う。
「よろしくお願いします」
今日も低音はパーカスと一緒に音楽室かと思ってたら、違うらしい。そう思い込んでたからパートごとの練習場所が書いてある黒板はまったく見てなくて、あわてて見たんだけど「室」しか読めなかった。
トイレはここ出てすぐそこ、自動販売機はもう少し行った先にあります。分からないこととかあったら気軽に聞いてくださいね」
今日も先週みたいに合歓木先輩が近くに来てくれないかな、なんてちょっとわくわくしてたけど、現実はそう上手くはいかなかった。あのユーフォのテンションの高い人と美人のコンバスの間っていう、いいのか悪いのかよく分からない場所になった。
当たり前だけど今日は自己紹介なんてものはなくて、調辺高の人にパートごと割り振られた教室に案内してもらった後、普段の練習と同じように各自練習を始める。
おれは今日も今日とて音出しと基礎練習をやった後はマーチをみっちり練習する予定。先週の合同練習以来、合歓木先輩みたいに吹きたくて、マーチに重点を置いてひたすら練習をしていた。でも、キャリアの差からか、やっぱりそう上手くはいかない。だから、練習あるのみ。今日も口の周りが真っ赤になるまでがんばる。
休憩時間は何時から何時までって決められてるわけじゃなくて、各自でとる感じなんだけど、一人休み始めるともう一人、また一人とだんだん吹くのをやめてって静かになるのってあるよな。低音にもそれがやってきて、そんなの気にせずに練習してたかったけど、おれ一人だけ吹いてるのはやっぱりなんか恥ずかしくて、おれも吹くのをやめる。腕時計を見たら吹き始めてから一時間以上経ってたし、ほぼ休みなくずっと吹いてたから疲れてたし、おれも少し休むか。
楽器を下ろして、みんな何してるんだろうと振り返ったら教室にはおれと調辺高のユーフォのテンション高い人しかいなかった。おれが楽器を下ろすほんの数秒の間にみんなどこに行った。トイレか。連れションか。女子か。まあ比率的には女子が多いけど。
なんか気まずいけど、無理に話す必要はないしなと肩の力を抜く。そこまで行きたいわけじゃないけど、誰かが戻ってくるまで二人きりでいるのもちょっと耐えられる気がしないから、意味もなくトイレに行こうかな。それとも、水筒は持ってきたけど適当に飲み物でも買うか。女子のトイレって長いから、いつ戻ってくるか分かんないし。
そう思っておもむろに振り返ったら、あのユーフォの人がおれをガン見していた。思わず身じろいだら、目が合ったのに気付いて悪い悪いとでも言いたげに片手を上げてこちらへ歩み寄ってきた。
「あのさ、さっきからずっと気になってたことがあるんだけど、言っていい?」
「ど、どうぞ?」
な、なんだろう、社会の窓があいてるとかだろうか。それともすでに後頭部がハゲてきてるとか? こんな状況で、しかもこんな近距離で、しかも小声で言ってくるくらいだから、ちょっと言いにくいことなのかなって思うじゃん?
思わずのけぞってどきどきしながら、言葉を待つ。
「君さ、ずっとマーチ練習してたじゃん?」
「は、はい……」
「なんか、すごい力入ってるよな?」
「……そ、そう……ですか?」
……とりあえず、変なことを言われなくてほっとした。だったらわざわざ迫ってきて小声で言うことでもなくね? とも同時に思ったけど、まあいい。
「緊張してんのかもしんないけど、もうちょっと肩の力抜いて気楽になっ? 聞いててこっちが苦しくなるし!」
「はい……ありがとうございます」
あいかわらずテンションは高いけど、思ってるよりも変な人ではないらしい。むしろいい人?
「マーチなんだし、もっとこう、軽やかに楽しく吹かなきゃダメじゃん?」
「そうですよね。……合歓木先輩みたいに吹きたいなって思って、ずっと練習してたんですけど」
「あー、おとやんみたいにかー。おとやん、マーチやってる時、めちゃくちゃ楽しそうだもんなー」
やっぱり、合歓木先輩のマーチは他の人が聞いても楽しそうに聞こえてるらしい。
ていうかこの人、合歓木先輩を下の名前で、しかもあだ名で呼ぶってことはやっぱり仲いいんだな。同じ低音だから、仲がいいにこしたことはないしな。でもちょっとうらやましいというか、なんというか。
「でもあれはちょっと無理じゃねーかな」
「なんでですか?」
「あーいや、一応言っとくけど、悪いように言いたいわけじゃないから! そこは勘違いしないでほしい!」
控えめに言ってるのは分かるけど、なんかちょっとむっとしてしまって、それに気付いたのか慌てて弁解し始めた。
だってさ、おれにはがんばったってああはなれないみたいに聞こえなくもないじゃん。
「この間の練習の時にさ、バスドラ叩いてたちっちゃい奴いるだろ? うちの。……『風になりたい』でドラム叩いてた奴!」
「あぁ、はい」
マーチでバスドラ叩いてたって言われても全然ぴんとこなくて顔をしかめてたら、付け足してくれてやっと分かった。
マーチやってた時は久しぶりの大音量に圧倒されてたのと、隣の合歓木先輩の音ばっかり聞いてて、周りのことはさっぱり見ていなかったし意識して聞いてもいなかった。風になりたいはパーカスのソロがあるから、そこはパーカスを横目で見てた。ソロのとこのドラムすげえ上手かったし、あの人が例のドラム上手い人なんだろうか。
「おとやんとそいつ幼馴染でさー、めちゃくちゃ仲良くて息ぴったりなんだよ。あそこシンクロしってからなー」
「……そうなんですか」
それを聞いて、胸の奥が一瞬ずきっとしたのはなぜだろう。確かに、そういう理由ならおれには絶対無理だなって分かったからか、それとも別な理由からなのか。
そういえば、先週の昼休み、合歓木先輩の隣に――この先輩とは逆の隣に、「風になりたい」でドラムを叩いてたその人が座ってた気がする。背の小さい人でたぶん合ってる、はず。
「あっおとやんおかえり! 俺のお茶買ってきてくれた?」
「買ってきたけど、もしかしておじゃまだった?」
「そんなわけねーだろ! 何をどうしたらそう見えるんだよ!」
「んじゃ後輩いびりか」
「それはもっとない! おとやんは俺をなんだと思ってんだよ!」
「悪い悪い、冗談だって」
さっきまでのおれなら、ああやっぱり仲がいいんだな、この二人くらいにしか思わなかっただろうけど、今のおれは、目の前で仲良さげなやりとりを交わされるたび、もやもやとした何かが、おれの中で渦巻いていく。
「二人で何してたの?」
「へ? ……あぁ、いや、別に大したことは……。ちょっと話してただけで。アドバイスもらいました」
「そっか。あいつテンション高いしさわがしいけど、悪い奴じゃないから」
そう言って、合歓木先輩がユーフォのあの人に向けた顔は笑顔で。初めて見た合歓木先輩の笑顔に、心臓が跳ねるのを感じた。
チューバ男子の初恋 紫音うさだ @maple74syrup
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