第一話
その日は金曜日で、平日最後の曜日ということもあり、私はほっとした気持ちで下校していました。
自宅に向かって歩いていると、
「突然ごめんなさい。この辺りで蛍が見られる場所ってあるかしら?」
低い声にも関わらずよく通る声でそう尋ねられました。
二十代半ばと思われる、すらりと絵の高い、切れ長の涼し気な目が印象的な女の人です。
梅雨の時季だというのに、黒い七分丈のブラウスに黒いパンツ姿で、私は暑くないのだろうか、と不思議に追っていたことを覚えています。
「蛍を見られる場所ですか?」
私は少し考えた後、顔を上げて、
「ここから少し離れてしまうんですけど、ここから三十分くらいの所にキャンプ場があって、そこで毎年蛍まつりをやっているんです。そこなら、見られますよ」
「あら、そうなの?」
「はい」
私は頷いた後、蛍まつりの開かれるキャンプ場の名前と時間と詳しい行き方を女の人に伝えました。
「分かったわ。ありがとう。わざわざごめんなさいね」
女の人は無表情のままそう口にすると、背を向けて歩いていってしまったのでした。
私は突然の出来事に少しの間、その場を動くことが出来ませんでした。
いきなり声を掛けられたこともありますが、それよりも今まで会ったことのないタイプの人で、きりっとしているように見えるのに、何故だか儚いような不思議な雰囲気を感じたのでした。
それから一週間程経ったある日の夜、私は地元から少し離れた場所にあるキャンプ場に来ていました。
さきほども少し触れましたが、毎年この時期は蛍を鑑賞できるイベントが催されます。開催期間は三週間ほどで、キャンプ場にあるコテージはこの期間のみはカフェとして利用することが出来、アイスコーヒーやアイスティーなどの飲み物も販売されます。イベントの参加者は飲み物を飲みながら、自由に蛍の鑑賞を楽しむことが出来るのです。
決してお祭りのような賑やかさはありませんが、お祭りの時とは違う、ゆったりと流れる時間の中で見る蛍の飛び交う姿や、落ち着いた雰囲気が好きで、私は毎年参加しているのでした。
この辺りは蛍の出没するスポットとして知られていて、地元の人だけでなく、市外や県外からもヒトが集まる場所となっています。
今回姉を誘ってみたのですが、友達と約束があるからと断られてしまい、私は一人でキャンプ場へ来ることになったのです。
辺りを見回してみると、私と同じ歳ぐらいの男女混合のグループや若いカップル、家族連れの姿が多く、私は虚しさに襲われました。
あかねちゃんやクラスメイトに会いたくない、という不安が一層強くなります。知っている人にどうか会いませんように、と心の中で祈りながら再び辺りを見回しました。
すると、背の高い女の人がイベントのパンフレットに視線を落としているのが見えました。
何となく見覚えがあると思っていると、何日か前にその女の人に声を掛けられたのを思い出し、私は傍まで駆け寄りました。
「あの、こんばんは」
女の人は、突然声を掛けられたかとに少し驚いていましたが、
「ああ、あの時はありがとう。ここ有名なの? 思っていたよりも人が多いわね」
「いえ、ここの祭りは有名っていう訳じゃないんですけど、市外や県外からも来ている人もいるんです。もしかしたら、誰かがツイッターに載せているのかも」
女の人はふうん、とだけ答えると辺りを見回しました。格好はあの時と同じ、黒いブラウスに黒いパンツを合わせ、肩には淡い黄色のカバンを掛けているのでした。
「観光ですか?」
少し遠慮がちにそう尋ねると、
「いいえ、観光じゃないわ」
はっきりとした口調で否定されたので、私は慌てて、
「そうですか。でも県外から来られたんですよね?」
私が再びそう尋ねると、女の人は首を縦に振り、
「まあ、そうなるわね。私はね、ずっと遠くから来たのよ」
目の前の茂みに視線を向けながら、抑揚のない落ち着いた声で答えました。まるで、ここではないどこかへ思いを馳せているような。
「ずっとですか?」
蛍を観察できるイベントは何も珍しい催し物ではありません。どの地域でも似たイベントはあるのに。
女の人はというと、私の疑問には興味もないとでもいうように、再びパンフレットに視線を落としています。
「だいぶ昔のことだからほとんど覚えていないの、故郷のことなんて。私がここに来たのだって単なる偶然に過ぎないわ。ねえ、それよりまだイベントは始まらないの? さっきここから奥の方へ行こうとしたら、奥には行くなって止められたんだけど」
奥とはキャンプ場から離れた林の中を指しています。キャンプ場自体林の中にあるのですが、夜で視界が悪い事も加えて迷ってしまう恐れがあるので、あらかじめ観察ができる場所が決められているのです。
私は腕時計で時間を確認しました。この蛍まつりの始まる時間は午後七時からです。けれど、腕時計の長針は、十分ほど過ぎていました。
「もう少しで始まりますよ。まつりが始まる前に実行委員会の会長さんからあいさつが……」
言い終わらないうちに、持っていたパンフレットをカバンにしまうと、女の人は私に背を向けて、
「お偉いさんたちのあいさつなんて興味ないわ。白けるだけじゃない」
と、言い残してどんどん茂みの中へと入って行きます。
私は慌てて女の人の後を追いました。
十五分は歩いたでしょうか。まつりの場所からだいぶ離れても女の人はなお奥へと進んで行きます。
「あの、どこまで行くんですか?」
懐中電灯で足元を照らしながら、女の人の後に付いて行きます。まっすぐ進んだかと思うと右へ曲がり、またまっすぐ進む。それを何度か繰り返しながら、歩みを進めて行きます。
息を切らしながら私が尋ねたのと、女の人が立ち止まるのは同時でした。
「懐中電灯の明かりを落としてちょうだい」
私は女の人の指示通り、懐中電灯の電源をオフにしました。
「見てごらんなさい。さっきいたところよりもずっと多いわよ」
そう言われて女の人の後ろから覗き込んでみると、小川の近くにたくさんの蛍が飛び交っているのが見えました。
無数の蛍は幻想な空間を作り出しています。
さきほどいた場所でも蛍の姿は確認できました。ですが、それと比べてもこちらの方がはるかに蛍の数は多く、私は感動して、
「すごい! こんなにたくさん蛍がみられるなんて。どうしてこんな場所を知っているんですか?」
私が興奮気味に尋ねると、
「分かるのよ。私を呼んでいたから」
淡々とした落ち着いた口調は虫の音と合わさり、不思議な感覚を覚えるのと同時に、私は彼女の言っていることが理解出来ず、聞き返しました。
「え? どういうことですか?」
「私は昔、蛍だったのよ。改めて思ったけれど、やっぱり人間って生きづらいわね。とても寿命は短いけれど、蛍の方がずっといいわ」
私の質問に答えることなく、まるで独り言のように呟く女の人を、ただ茫然と見つめていました。
とても不思議な、捉えどころのない人というのが、その時私が彼女に抱いた印象です。
女の人の周りにはいつの間にかたくさんの蛍が集まり、彼女を取り囲むように飛び回っています。
私はしばし彼女を見つめていました。無数の蛍に囲まれている様が儚げで美しく、幻想的に感じたのです。そして、不安にも似た感覚が私を襲いました。
まるで目の前で蛍と戯れているこの女の人が無数の蛍たちとともに、私の目の前から消えてしまうのではないか。そんな感覚に捉われたのです。
さきほどまで感じていた感動など、とうに消えてしまっていました。
しばらくその場から動けずにいると、私の様子に気付いた女の人はこちらを振り返り、
「どうしたの? 固まっちゃって。幽霊でも見たの?」
彼女の声で我に返り、そちらに視線を向けると、女の人からはもうさきほど感じた不安は感じませんでした。
「あっ、いえ、違うんです。こんなにたくさんの蛍、初めて見たので、つい見惚れてしまって……」
私は適当な言い訳をして誤魔化しました。だって、自分の目の前から消えてしまいそうで怖くなったなど、言えるはずもありません。
「なんだ、幽霊じゃなかったの。残念だわ」
「そうですか……」
「そろそろ戻りましょうか。そいいえば、さっき飲み物が入ったプラスチックのコップを持っている人たちを見たんだけど、どこか飲み物を販売しているところがあるの?」
自分の周りを飛び交う蛍を目で追う彼女に、
「毎年近くに夜だけ営業しているカフェがあるんです。そこでコーヒーが販売されているんですよ。ゆっくりコーヒーを飲みながら鑑賞して欲しいとかで。コーヒー以外にもアイスティーやカフェラテもありますよ。もちろん、サンドイッチとかの食べ物も」
「じゃあ、ちょうどいいわ。私喉乾いていたから」
私達は元の場所に戻るために、再び歩き出しました。
先程のキャンプ場からカフェに移動すると、中からは灯りが漏れていて、入り口には飲み物や食べ物を求める人の列が出来ていました。
私達もその列に並び順番を待ちます。自分たちの順番が来ると、女の人はアイスコーヒーを、私はコーヒーが苦手なのでアイスティーをそれぞれ注文して受け取りました。
その時、聞き慣れた声が聞こえてきたのでそちらに視線を向けると、少し離れた場所からはあかねちゃんとクラスの女子数人が楽しそうに話しているのが見えました。どうやら私には気付いていないようです。
私が話しかけようかどうか迷っていると、プラスチックのコップに口を付けていた女の人が、
「ねえ、あっちの方で飲まない? ここ人が多いわ」
「え? ああ、そうしましょう!」
私は女の人を振り返って頷くと、一瞬だけあかねちゃんに視線を向けました。
「どうかしたの? あっちに誰かいるの?」
「えっと、と、友達がいたので……」
「友達? じゃあ、そっちに行ったら? 私のことは別に気にしなくていいから」
そう言いながら、私が見ていた方に視線を向けます。
その時、私に気付いたクラスの子があかねちゃんの耳元で囁きながら、私を見ているのが見ていることに気付きました。
あかねちゃんがこちらに視線を向けました。
私は彼女に向かって笑いかけましたが、彼女は私を避けるように目線を逸らした後、先程のクラスメイトに何か囁くと、そのまま私に背を向けて歩き出したのです。
二人の会話は距離があったので、何を話していたのかは聞き取ることは出来ません。
「いいの? 友達行っちゃったわよ?」
女の人はあかねちゃん達の方を指さしたまま、私に尋ねます。
私は苦笑したまま、
「最初に私に気付いた子はクラスメイトですが、友達ではないんです。私から目を逸らした子が友達です」
「なんか、あんたのこと避けてなかった?」
私は一瞬迷いました。あかねちゃんとの今の状態をどのように話したら正解になるのか分からなかったからです。少し考えてから、
「今は仲良くないので」
「今はって、ケンカでもしたの?」
私は首を横に振りました。
「いえ、違います。どうしてか分からないんですけど、ここ最近距離を置かれていて……」
「へえ、オトコガラミかしらね?」
「えっ?」
私はその言葉に驚いて女の人を見上げました。オトコガラミなどとという響きがあまりにも生々しく、それでいてまるで現実味が感じられず、私はそのまま声も出せずにいました。
女の人は別段大したことではない、といった様子でコーヒーを飲んでいます。
「オ、オトコガラミですか?」
私がやっとそれだけ口にすると、
「思春期だし色々あるわよね、そりゃあ」
そんな、まさか、と思いましたが、納得している自分がいることに驚きました。 私は、あかねちゃんが私を避ける理由が分かりませんでした。
思い当たることをひたすら考えましたが、考えれば考えるほど分からなくなります。
けれど、今やっとその理由が分かったように感じます。自分を納得させることが出来てほっとしました。
ふと、私はあることに気が付きました。
「えっと、お名前を聞いてもいいですか? 私、
「私は
彼女の名前を聞いた瞬間、蛍に囲まれていた光景と、目の前にいる螢子さんがぴったりと重なりました。
「螢子」という名前が、とてもぴったりな
どこか幽玄で、儚げで、そして蛍のように掴みどころのない
「あの、螢子さんの苗字は?」
私が再び尋ねると、
「苗字なんて最初からないわよ」
と、ぶっきらぼうに言い捨てて、さっさと歩き出してしまうのでした。
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