第2話  少女とそれから。

水音がする。

といっても今窓を軽くたたいている雨の音とは違う。もっと規則的…いや継続的に流れる音。締め切った脱衣所のドアのさらに向こうにはユートピアが広がっているだろう。相手が少女だというこの場合、少し特殊な層の管轄かもしれないが。

そう、二枚の扉を隔てた先は風呂だ。

この冬の季節にびしょ濡れだってのは平気で風邪をひけるシチュエーションで、まったく笑えない。本当なら我先にと風呂に飛び込みたいのだが、少女に対しても同じことを言えるのではないだろうか。むしろ少女のほうが風邪をひきやすいに決まっている。

まともな栄養も取れてないのだ。免疫力も限界まで落ちているだろう。寒さに震える体に鞭打って、お先にどうぞ、なんて言ってしまった。

正しい行いをしたはずなのに。なんだこの後悔したような気持ちは。

「あ、あのっ!」

声が聞こえた。間違いなく少女の声だ。というか少女の声でないならなんなんだよって話になるが。怖いわ。

「はいはい…?何か問題でも?」

とりあえず脱衣所越しに声をかけるが、出しっぱなしにされているシャワーの水音で声が聞こえにくいし、こちらの声も聞こえにくくなっているだろう。

少しためらわれるが、仕方がない。脱衣所のドアをノックし、脱衣所には居ないことを確認して中に入る。洗面台には少し汚れが目立つ白いワンピースと下着類が置かれており、慌てて目を逸らす。気にしてはダメだ。

雨のせいか微妙に水で濡れている足元に気を付けながら、風呂場へと続く扉の前に立って、中に声をかける。

すると聞こえてきたのは戸惑いに満ちた少女の声だった。

「すみません…先ほどからお水しか出ないのですがこういうものなのでしょうか…?」

「…水?」

そんなわけはあるまい。真冬に水しか流れてこないという仕打ちをされたら割と本気で暖房とかの温度差による身体への異常が起こりえる。キレるぞ。

死者も出かねないので馬鹿にできないのだ。覚えておこう。

「えっとね…もしかしてふろ給湯器が作動してないんじゃないかな。給湯器のリモコンがあるでしょ?」

「ごめんなさぃぃ…全然わかんないです…」

おかしいなぁ…ともおもったが考えてみれば当然だ。まともな家すら持っていなかった少女が風呂の給湯器の使い方などわかるはずもない。

よしんば初めて見てこう使うのかな?と見当がついたとしても他人の家で同じことをする勇気はない。俺だってそう。少女の性格は控えめな印象だし、自分からこうして問題があることを報告するだけでも勇気を振り絞った結果に違いない。

「…ってもなぁ。うちの家何でか知らんけど風呂の中にしかリモコンがないから入らないと確認っていうかそういうのができないのよな」

「そ、そうですか…困りましたね…」

「だよなぁ。雨に濡れた女の子に水をかぶらせるみたいなことするわけにはいかない」

ただでさえ冷えているのだ。これ以上冷えたら彼女の体力では体に異常が出てもおかしくない。今の俺でさえ僅かに震えが出ているのだから華奢な彼女にとっては更に大きなダメージになっているはずだ。

「だったら…あの、申し訳ないですが、その、一緒に入っていただけませんか…」

「…はっ?」

――自慢じゃないが俺は耳がとてもいい。聴力検査は最高値から生まれてこの方落ちたことはない。

だからこそ、耳ではなく脳を疑った。寒さからついに頭がおかしくなってしまったのかもと思った。

そして改めて思考。この少女今何と言った。一緒に入れと言わなかったか。

だとしたら大問題だ。いや俺は中学三年生。といっても早い段階である私立の入試で入学確実の成績を叩きだしたのでもはややることはない。

少女の年齢も見たところ中学の一年か二年といったところだろう。確かに付き合っていると言われれば納得できてしまう年齢ではあるが…。

他の人に知られたら一大事というかなんというか。

「そ、そうですよね、私と一緒なんか嫌ですよね。すみません…」

思考をめぐらせている俺の状況を嫌がっているようにとったのだろうか。急に謝罪しだした。冷静に考えれば沈黙すらも彼女の心からすればそのようにとってもおかしくない。俺みたいにまともな環境で生きてきた人間とは違うのだ。社会の汚い部分を俺のような普通の人間とは比べ物にならない程身をもって味わった子供。

そこを認識できないようでは彼女を助けるという誓いや思いは仮初めだと証明しているに等しい。

彼女に今必要なのはあえて言うなら『すべて』だが、その中でもとりわけ重要視せねばならないのは心のケアに違いない。

「あぁ、そうじゃなくて…その、君は大丈夫なのか。言っておくけど俺は男だぞ。劣情を催さないとも限らない。君だって嫌だろうしそんなことはとても…。

助けるって言ったんだ。君の嫌がることはしたくない。」

「…お優しいんですね」

「優しいって…別にこれは俺の自己満足だ。俺が君を保護すると決めた以上、君が今までの人生よりまともな生活を送れることは確かだろうけど…それでもやはり悲しいことに現状は変わらない。優しくなんてないさ」

「いえ、とっても優しいです。だって優しくない人はきっと『俺のおかげ~』なんて得意げに語るんです。少なくとも今まで私を保護してくれようとした大人たちはそうでした。…でも、あなたはきっと違う」

確信を持ったように少女は言う。人という生物の悪しき部分に浸された少女にとってみれば優しさなんてそんじょそこらで見かけられるはずなのだが…。

しかし、彼女が言うことを否定する必要ないし、それも彼女の価値観。ならば俺が介入する余地はない。

「やっぱり、一緒に入りませんか」

「結局そうなるんだね――ってオイ!?」


目の前には一糸纏わぬ少女の姿があった。透き通るような白さの肌と頭部を彩る銀糸の如き濡れた髪の毛。

女性にしても長いまつ毛に人形みたいに整った目や鼻。

そのまま視点を下にずらせば年頃の少女にしては小さめの、しかししっかりとしたふくらみとその頂点の桃色の部分が目に留まる。漫画やライトノベルみたいに都合のいい湯気なんてものはない。はっきりと何もかもが見えてしまい、慌てて目を背けるが、少女は水にぬれた体のまま俺に歩み寄る。

ひたひた、と裸足が床を踏みしめる音が数歩の距離をゼロにした。

「私の体では、不満ですか?」

「その言葉選びでは俺が君の体を求めているみたいじゃないかな」

「いらないと」

「そうは言ってない」

「じゃあ入ってくれますね」

「…何を言っているか君は分かっているのかな。もし君が言う『優しい人』ではなかったとしたら、どうなるかは想像にかたくないはず。

それでも、か」

「はい…生憎私には操作方法が分かりませんので…」




正直、風呂に入るだけでこんなにも緊張することになるとは正直思っていなかった。

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あの風の向こうまで いある @iaku0000

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