あの風の向こうまで
いある
第1話 その日、新緑の瞳。
彼女と出会ったのは…雨の日のことだった。しとしととアスファルトに落ちる雨はゲリラ豪雨みたいな激しさこそ伴っていないものの、傘もささず一人夜の街を闊歩する俺の体をじっとりと濡らしてゆくには十分だ。雫の滴る髪の毛は、まとまって一つの針の様になり、時折俺の目へと突き刺さる。端から見れば一々そんなの気にするくらいなら髪を切れよだとか横に流せよだとかそんな感情を抱くであろう状況も、今の俺にとってはただ煩わしいという感情だけで解決しようとする気力も思考するだけの力もなかった。
――
ドラマや小説なんかで目にしたことがあるだろう。突然の事故によって両親や兄弟、姉妹を失くして、身内に引き取れるような家庭が無い、もしくは身内がそもそもいないといったパターン。創作の中ではもう見ただのテンプレだの散々言われる状況でも、まさかわが身に振りかかろうとは誰も思いもしない。
俺もまた、その一人だった。まさか自分がそんな状況の当事者となってしまうとは。
「…金だけあってもどうしたらいいか分かんねえよ」
周囲に人影はほとんどない。いたとしても時折通り過ぎる車の中にいる人間か、向かいの歩道を歩く忙しなさそうなサラリーマンくらいのものだ。
詰襟の学ランが水を吸って重くなったのは数十分前。
降りやまない雨は疲弊した精神もろとも追い打ちをかけるように水浸しにしていく。
元々莫大な資産を手にしている父親は幼少期からのエリート教育によって業界を上り詰め、遂に世界に名を轟かせる有名人となった。
だが本人は社員たちが頑張って仕事をしているのに自分だけ家で贅沢するわけにもいくまいと誰よりも早く会社に赴き、誰よりも遅く退社する。
泊まり込みで働いていることなんてザラだ。貯金は数十億と普通に生きていれば到底使い切れない金額を有しているのにも関わらず、自宅は通常のマンション。
正に人間の鏡といってもいい模範的な人間で誰もが手本にしていくべき存在であると言われている。彫りの深い顔立ちとがっしりとした体格をしており、如何にも強そうといった印象。黒服に黒メガネでもしようものなら超人SPと言われても信じるかもしれない。
そのくせ表情豊かで意外と涙もろかったりするのがギャップがあって一部の層には受けがいいんだとか。
母親も母親でヴァイオリンとピアノで天才的な才能を誇る演奏者で、各国の著名人の前で演奏したことは一度や二度ではないらしい。
らしいというのは本人による武勇伝的な印象が強くいまいち現実味がないという点から不確かというか曖昧というか、そんなイメージで俺の中で固まっている。
ともあれ、本物かどうかも分からないにしろ大統領のサインなども我が家には飾られていたりして、中々信憑性があったのは否定できないが。
だけど両親は俺にエリート教育なんてしようとしなかった。勿論、何か習いたいといえば習わせてくれたが、決して強要だけはしなかった。
一度疑問に思って尋ねたけれどなんででしょうねぇ?と答えをはぐらかされた。解せない。
とまれ、そんな絵にかいたような理想の家庭だった。誰もが羨むほどの家族愛に満ち、裕福な暮らしを送れる完璧といってもいい家庭。
それが崩壊したのがたった三日前。
学校で授業を受けていた時の事だった。普段通り友人たちと下ネタやゲーム、好きな女の子の話など、そんな男子中学生らしい話に華を咲かせていた俺のもとに、わざわざ放送が入り、なんだと思って急いで職員室に向かったら家が武装集団によって強盗に入られたとの知らせだった。
警察の話によると、家で過ごしていた親父と母を狙うような形で強盗が入り、即死させたとのことだった。
何のドッキリかと思ってカメラを探してみても見つからない。当然だ。事実なのだから。盗まれたものは母が大事にしていたヴァイオリンくらいのものだったが、突如奪われたもので一番重かったのは両親の命だ。
会社の社員全員の給料を返上して葬式を上げるという話を聞いた俺の中に浮かんだ感情は嘆きでもなく絶望でもなく、困惑だった。
愛されていたんだなぁと他人事の様につぶやく自分が居て、それが現実を認識することを無意識化でブロックしていることの証明だった。
自分は関係ない。そうやって無理に自分の思考を押しとどめて生きていこうと俺は変わろうとしているのだ。
そして、そんな自分が何より嫌いだった。
「…わっ、きゃっ!」
「…!?」
突如胸部に衝撃。その衝撃によって思考の海から意識が引き上げられる。その衝撃自体に威力はなかった。むしろこちらから威力を与えてしまったという認識の方が正しい。
「…す、すみませっ、見逃してぇ…」
足元から、アスファルトに落下する雨音に混じって
少女の声に覇気があっても困るのだが、なんというか元気がない。
濡れた学ランの重みに引っ張られるかのように下へ体ごと目線を向けると、薄汚れた白いワンピースだけを身に纏った少女がしりもちをついていた。一見しただけで分かる、明らかに栄養が足りていない少女の
しっかり髪の毛に手入れをさせれば
…しかし考え事をするあまり、いつまでも少女を水たまりの中に倒れたままにしておくわけにもいかない。
「ごめん。俺、考え事してて。…大丈夫、立てるか?」
俺はそう言って手を差し伸べる。少女の体には力が入りそうな筋肉があまり見られない。全力で走ったりしたらすぐにでも転びそうだ。体を支えるので一苦労といったところだろう。だから少女としてはここで俺の手を素直にとるのが正しい判断なのだが…。
あろうことか、少女は俺が差し出した手を取ろうとして…結局引っ込めてしまった。
「ありがと、ございます…。でも、私は見ての通り…その、マンホールチルドレンでして…」
申し訳なさそうに少女は細い腕に無理やり力を込めて支えにして立ち上がる。
生まれたての小鹿の様にガタガタと震えている少女は明らかにこの季節には似つかわしくない服装をしていた。どんなに元気がある人間でもこの雨の中ぼろきれのようなワンピースだけで外を歩けば当然風邪をひく。見るからに栄養が足りていないこの少女ならばなおの事だ。
「マンホールチルドレン、って…冗談なら笑えないぞ」
マンホールチルドレンとは文字通りマンホールの中で生活する子供の事だ。不景気や戦争などの影響によって親が育てきれなくなって子どもを捨てたり、親御さんが亡くなってしまったりした際にこのマンホールチルドレンは生まれてしまう。ホームレスのような認識で問題ない。
マンホールに住みつく理由としては、マンホールの中には温水のパイプが通っているから。今日の様に寒い日だと本当に外で寝れば死ぬ可能性だってある。
だからこそ温かい地下を選ぶのだ。無論、衛生環境など最悪で、生きるのに必要な最低限のものすらカバーできていない。
戦争地帯や経済的に不安定な国などで見られるのだが…。
「あはは…冗談、なら幸せなんですけどね。ここ二日間くらい食事にありつけていないんです。いつもはゴミ箱なんか漁って食べ物を探すんですけど」
二の句が継げなかった。自分が裕福な生活を送っている間にこんなに貧困にあえぐ少女がこの街で生活していたとは。
俺の目に映る世界はいつも平和で、貧困とは縁が無かったが故に、世界の裏側を突き付けられたかのような気分になる。少女にとっちゃこれが当たり前の人生だったんだろうが…放ってはおけない。
マンホールチルドレンやホームレスといった人間はやむを得ず万引きに走ることも少なくない。到底許される行為ではないが、そうした人々の中にも生きたい、という行動理念が付いて回る。
けれどもそんな行為には走ろうとしないところは彼女の人間としての基盤が信頼のおけるものだという証だろう。
そんな子がこんなところで苦しんでいるのは断じて見逃すわけにはいかない。
「…困ってるなら、俺と一緒に来るか」
「そ、そんなっ。そんな申し訳ない事できるはずもないですっ!こんな薄汚れた人間など…。平和な生活に傷をつけてしまいます!」
少女はわたわたと慌てて水を含んだワンピースすらもぶんぶん振り回す。
自分の状況を鑑みて、迷惑だと認識し、それが救いの手であろうとも迷惑になるのならば、と拒絶する。
――だからこそ、救いの手をもっと差し伸べなくちゃならない。
「お生憎さま。俺の生活は三日前から平和じゃないんだ。知ってるか?世界中で有名な企業の自宅が襲撃されて死者が二名出たってやつ」
「…?ええ。存じ上げてます。数時間前に商店街の電気屋さんでニュースが流れてましたので。なんでも莫大な資産を抱えるお方だったとか。
ですが、唐突にどうされたのですか…?」
「――それ、ウチなんだ」
「…へ?」
ずぶ濡れのまま俺は事の顛末を見ず知らずの少女に向かって打ち明けた。我ながらどうかしているとも思うが、誰でもいいから縋りたかったのかもしれない。
そして意外だったことに、バカにしないで真剣に、涙を流しながら話を聞いてくれた。嬉しかった。俺のこの負の感情を受け止めてくる相手が世界にいたんだなと安堵できた。やはり彼女はすごくいい子だ。
「今は親父の持ってた会社の近くにあるマンションの一室を借りて住んでる。ここからそう遠くない場所さ。ほら、あの建物さ。そうそう。その青と灰色のやつ」
「やっぱり、お金持ちなんですね…。幸せな方を見るとすこし寂しくなっちゃいます…あっ、いえ、貴方は幸せなんてそんな…申し訳ないです、今しがた聞かされたばかりなのに」
少女は自らの失言を詫びるかのように俯いた。表情はうかがえないが、非常に暗い表所になっているということは想像に難くない。
「お金はあってもマンションなんて無駄に広くて落ち着きやしないんだ。一人だと寂しいのはどこでもいっしょなんだよ。君と同じ」
「私と、おなじ?」
「うん。…だからさ、俺と一緒に来ないか?君を放っておけないよ」
「で、でもでもっ!私はこんなにみすぼらしいんです…。とてもあなたのお家に住まわせていただくには身なりが」
何と言うか、一々気を遣う子だ。良い意味でも悪い意味でも。そして俺も、こんな人間がいるのに放って家に帰るなんてできるはずがないんだ。
親父譲りといってはあれだが。
俺は少女の手を握る。そして握った手の冷たさに愕然とした。氷でも握っているかのように冷たく、僅かな震えを感じる。
骨が浮くほど痩せた指の間隔は繊細な彫刻を思わせる形をしていた。
「…ごめん、今の君を放っておけないってのは言い訳だ。俺、一人が怖いんだ。
何もない空間ってだけで落ち着かない。声をかけてくれる人もいなけりゃ叱ってくれる人もいない。そんな環境で生きていくのが怖いんだ…。
…いや、君みたいにギリギリで生きている人間がいるのに俺みたいなやつが何言ってんだよって感じだけどさ。
…でも、君の事も放っておけないのは事実だよ。俺にできるなら、君を助けてあげたい。俺の父さんも母さんも、きっと許してくれる」
それがトリガーだったか。
少女は急に堰を切ったかのように大粒の涙を溢しだした。止まらない感情の濁流の如く。噴火する火山の如く。華奢なその体に秘められた感情はとどまることを知らない。
「助けてっ!助けてほしいですっ!もう…こんな生活嫌なんです!お願いしますっ、何でもします…!だから、だからぁ…」
懇願するように叫ぶこの少女が世界からはじき出されたかのような人生を歩んできたことは想像に難くない。
俺の感情を受け止めてくれるほどの心の大きさを持ち合わせている少女が居なくなってしまうのは非常にもったいない。何もかも疑って生きていかねばならぬ状況で、真摯に話を聞いてくれるのだ。何故世界はここまで彼女に厳しいのだろうか。
ならば、ならばこそ俺が彼女を支えてやらねばならない。父親の口癖を思い出し、自分にもその口癖が行動理念になっていると気が付き、やはり親子だな、と実感させられた。
『富は貧しい者のために消費されるべきである』
これが俺の父親の口癖であり、恐らく座右の銘でもあったのだろう。
そうして俺の人格の形成にも影響した、ってとこだろうか。
そんなところで親子って考え方が似るんだなぁと思って少し可笑しくなる。
その日から、僕のモノクロの世界に一つ色が増えることとなる。
それは、銀髪の少女の新緑の瞳の色だった。
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