戦うこと、あるいは勝てないもの

 道化屋敷でのメイドの仕事は基本的に館内の掃除である。元々娼館として使われていた屋敷は掃除が満足に行われていなかったため、カビが蔓延している箇所が多かった。またあちこちにガタが来ており、単なる空き室でも小綺麗にしたり、修復したりするのは時間がかかった。

 ただそれでも勤務時間はかなり短く、実働時間は六時間ほどになる。エウロサが徹のもとに顔を出せたのも、ひとえに休憩時間が多いためである。そして、力仕事となるとレハールやエウロサでは務まらないので、ミストラルが駆り出される。彼がクォーツやレセイルと共にデスクワークをしていないのはそういった事情がある。

 また力仕事の際、エルレーンは手伝わない。彼は普段部屋に閉じこもっていたり、ルシカと共に料理をするかぐらいだ。それがミストラルには不満なところだが、一応主人なので口には出さなかった。

 一方で、メイド二人にとっては慣れてしまうと余裕が出てきてしまうのだ。エウロサが徹に話に行くように、レハールは今までできなかったことに興味を持ち始めるようになる。元々彼女は昔から性を売る仕事で渡り歩く類であり、居心地が悪くなったら他に行く渡り鳥だった。その彼女がメイドの仕事を長く続けていられるのは、エルレーンやクォーツがハンサムだったからだ。自分には見たことのない本当に美麗な人物に出会い、一層、自分磨きに熱が入った。

『女の化粧は魔法。そして、着飾ることは儀式。見えない場所の努力こそ、女性の戦闘力のすべて、ではないか?』

 厨房に立つ屋敷の主人が言う。レハールにも理解できる理屈だが、貴方が言うのか、と思ってしまった。

『自慢じゃないが私は魔法使いだよ。ルシカをあぁも可愛い奥さんにできるということで信じて欲しいものだね。』

 と言うものの、満足に教育を受けていない彼女からしても主人の言うことは、ある種の詐欺師めいた経験からの直感がした。信じて欲しいと言う者をまず一番に信用してはならない。

 まず信用しなければ始まらない、というのはお人好しの考えだ。

 信用できない、と即答できるのは社会的な人間だ。

 レハールは決まってこうだ。

『上手い話ですね。もっとお話ししましょう?』

 と、答えを先送りにする。娼婦根性の悪い癖とでも言うべきだろう。話すだけで時間が来て金がもらえる。話すだけで気を良くする男たちがいる。彼女たちにしてみれば、そういう楽な仕事で生きながらえさせてもらえるのだから、感謝したいぐらいであった。もっともそれは払う金次第でもある。

『そうだなぁ。人はいくらでも変われる。ただそれは機会さえあれば、だ。君みたいな年齢になると、努力を怠った途端に十年足らずで転げ落ちる。脅しでなくてね。』

 主人はおどけた表情をやめ、目を細めて、レハールをまっすぐに見た。彼の言う通り、女の若さは努力と表裏一体だ。磨かなければ陰る。慢心すれば身体がまず初めにぶよぶよになっていく。もはや解放されたから言えることだが、娼婦ともなれば栄養が不安定になりがちである。若さを武器にできる年代を過ぎると、稼ぎも悪くなる。結果的に身請けされたようなものになったから幸いだが、今の若さがいつまで保てるかどうかは分からない。

「あの男は信用できるかどうかで言えば最低値だな」

「導師の悪口を私の前で言わないで欲しいが、否定はできん」

 この話は信用できるか、という話を庭でしてみたところの反応である。屋敷の庭は徹の領域であり、レハールは近寄りがたかったが、一日でベンチができ、もう一日でテーブルができると三日目には屋外休憩所になっていた。それ故レハールも訪れるようになったのである。

 それにここだと普段すれ違うしかなく、エルレーンやルシカが間に立ってでしか話さない面々が顔を突き合わせることができた。そうでなくても徹などは基本的に外にしかいないので、レハールにはよく知らない人間の一人である。初めは、エルレーンの男娼かと思ったものだ。

 またクォーツも、しばらく離れて暮らしていて主人がこちらに引っ越したからやってきた、というので主人の恋人かと邪推したこともあった。話してみると全然違うが、未だに怪しんでいる。

「あいつは信用するしないじゃなくて、自分が利用できるかできないか、だ。あいつを信用することは、あいつに利用されるってことだ。自分の意志を少なくとも通すならあいつを利用する。嫌な時は全力で拒否する。あいつは、弱みにつけこんでこちらの全てを操るヤツだ。」

「擁護しようがないですねぇ」

「まったくだ」

 徹の言葉に、クォーツもレセイルもぐうの音が出ない。クォーツはともかく、レセイルはレハールから見て、お嬢さんである。おそらく真っ当な人生を歩んできたのであろう。服は毎日違うし、そもそも着飾らなくても化粧の薄さから肌の張りの違いを見せつけられる。女性としての資金力の違いを見せつけられているかのようだ。エウロサは髪の色つやや顔つきは流麗だが、肝心の体は傷だらけだ。ああはなりたくない、というのを見せつけられてしまう。

「男だって強くなりたい。その気持ちは、似たようなもんだろうよ。」

「忠告を無視して天剣組にケンカを売ったお前が悪い」

 クォーツが冷徹に言う。天剣組は西京市一帯を守る傭兵組織だ。女を買いに旧市街にまでは来ないが、噂ぐらいはレハールの耳に届く。生ける英雄を擁する狂った戦闘集団だとかなんとか。

「お前の毒手は強い。それは効く相手には最強だ。だがこと格を一段上げると通用しなくなる。だからお前はちぐはぐだと言ったんだ。」

「るせぇ。今対策を考えてるとこだ。」

 男同士の会話は分からない。聞くからに野蛮な話だが、それぞれの地がよく分かる会話でもある。クォーツは大人だ。徹は大人びた子供だ。それらはレハールにはよく分からなかった一面である。

「エウロサさんは、もちろん、身体の傷を治してあげようとか言われましたよね」

「はい」

 一方で、レセイルがエウロサに話している。レハールが知るエウロサは、絶えずおどおどしており、言葉も聞こえにくくて面倒臭いとしか思っていなかった。お嬢さんに見えたレセイルがエウロサの体の傷を知っているとなれば、大浴場とかで見たのだろう。

 元娼館だったので、個室に一つずつ浴室はあるが、浴槽はない。エルレーンがやってきてから、一階の広間の一つを改装して大浴場にしてしまった。ただそれ故、男女共用である。現状入る人間が女性陣に限られるというのが幸いしている。

 そんな中でエウロサは数日前に元娼館の客に絡まれた騒動の後、声に明るさを持ち始めた。

「実は、お願いしました。テツさんも、協力してくれましたし。」

 エウロサにたどたどしい口調はほとんどなくなっていた。自信のなさは未だに変わりないが、対人恐怖症という欠点はほとんど克服できていると言っていいだろう。

「協力っていうか、エルレーンがてっちゃんの蹴りで首が折れちゃいけない方向に曲がっちゃった気がするけど」

「おかげさまで、目に見える痛々しいものは治りつつありまし」

「あ、断りきれそうにない状況になったら、ルシカさんに言いつける、って言いなよ。あいつ本気で困るんだよね。ほっとくとエロオヤジみたいに太ももや尻撫でてくるけど、そういう風聞が他の女からルシカさんの耳に入るのが嫌みたいよ。」

 レハールにとってルシカは年下の主人の奥さんという女性だが、それ以上はよくわからないのが正直な所だ。レハールやエウロサに比べればかなりの小柄で、まだ少年と言っていい徹の少し小さいくらいである。長身である方のエルレーンと比べると、大人と子供の背丈の違いと言っていい。

 それぐらいの身長差で、主人がルシカを溺愛しているというのは、そういう異常性癖なのかというのも疑ってしまう。

「あいつが魔法使いっていうのは正解。なぜなら、あたしが子供の時からあいつはあの若さのまま。それを言うならクォーツさんもだけど、あいつは中身そのものが違うんだ。あたしのママをたらしこんで、いつのまにかあたしたちと家族になってた。ま、おかげさまであたしは教育には不自由しなかったから感謝してる。」

 レセイルがため息まじりに言う。背格好は普通の成人女性。髪は長めでポニーテールにしている。見た目こそ健康的だ。デスクワークが長すぎて、疲労がたまっているようだ。

「あいつが、若さの維持に協力するっていうのは、できないわけがないってことよ。どんな代価を要求してくるか分からないから、そっち先に聞いた方がいいわよ。ちなみにエウロサさんは何言われた?」

「テツさんを定期的に浴場に入れろ、と」

「うぉい!」

 レハールよりも少し年若いレセイルが大げさな反応をすると、レハールからは子供に見える。エウロサは事も無げに、恥ずかしげもなく言った。未成年男子と共に裸の付き合いをするという抵抗がまるでないというのも考え物である。

「まさか、あんた不能とかじゃ!?」

「たつものをたたなくしておくのも訓練だバカヤロウ!」

 クォーツと話し合いをしている間に話題をなんとなく聞いていたらしく、レセイルの言葉に徹は罵声を上げる。とんでもなく下品な話だが、すごい話でもある。ここらへんで、レハールは笑いが堪えられなくなった。

「なんだか深刻に抱えてバカみたいだわ」

 彼女は本音を吐露する。娼婦生活であれば会話は互いの牽制だったが、ここではそんなものはいらない。主人こそ奇妙な魔法使いだが、その下にいるものたちはそれぞれ事情を抱えている、そしてそれぞれ必要とする時に、魔法使いと繋がることを拒否しない者たちなのだ。つまりそれは気のおけない仲間ということでもある。

「本音を言えば、だ」

 そしてこの中で魔法使いに一番近い位置にいる者、クォーツが徹との議論の途中で口を挟んでくる。

「導師の欲しがっているのは、西京市内で動ける人材の確保だ。最悪、女性の体で情報を確保できる、な。」

 それはおそらく秘密にしておく話だっただろう。エウロサはともかく、レセイルも口をつぐむ。それがどんなことかを知っている。そして黙らないのが徹だ。

「そういうのは俺がやるだろうが!」

「お前はこの街で勝てないものが多すぎる。レハールの能力ならそれが叶う、と見ている。」

 クォーツはテーブルから体を乗り出してきた徹の首根っこを掴み、引き戻す。その様子は兄弟のようでもある。とはいえ、話題はレハールにもう一度娼婦になれということだ。別に廃業したつもりはないが、生きるために仕事をするよりもタイトな話だ。

「つまり代価はあたしの心、になるのかな」

「厳しい話、耐えきれなければ捨てるだけの話だ。冷たいかもしれないが。」

 レハールの推測に、クォーツは冷徹に言う。

「あの道化はだめになったら、君はもうだめだね、としか言わないよね」

「残酷だ。逆に言えば、自分自身が言われて一番嫌な言葉だからな。」

 レセイルは唐辛子を噛み潰したような嫌そうな顔で言っている。クォーツは無表情に言っている。昔にそれくらいのことを言われたのだろうか。

「まぁ、あたしの性に合ってるかもね」

 レハールは軽く言った。重い空気を吹き飛ばすぐらい明るく。

「あたしはこれから十年先も娼婦だと思ってたし」

「レハール」

 その時初めてエウロサに名前を呼ばれた。口調からして、身を案じているような。娼婦でなくなってよかったと思われていたなど、レハールとしては勘違いもいいところであった。

「結局、最悪体を使うかもしれない、という話だからな。現実的にはもっと色々ある。いい機会だから今夜は皆の交流会も兼ねて、私の秘蔵映像を見せようか。」

 クォーツは意味深なことを言い、ミストラルを除いた従者会議という名の休憩が終了する。そして彼の言う通り、夜が更けた後に広間へ集まった。クォーツが用意した映像機器により、スパイ映画が映し出される。男性主人公だったが、その小気味の良いストーリーにレハールと徹が思いのほかハマった。

 おかげで、エルレーンやクォーツがレハールに求めるスパイという役割が十二分に伝わり、彼女は対外連絡員として修業を受けていくことになる。


    ******


「ぎゃああああああ!!」

 西京市の夜に男の悲鳴が木霊する。市内東部のオフィス街の中で珍しい高利貸しの主人が、脇腹を薙がれて声を上げたのだ。

「ふざけんじゃねぇよ畜生」

 完全に隠密した状態での殺人であったが、徹は口を塞ぐという発想がなかったし、後ろからの強襲では手が届かない。起こるべくして起こったことだ。そして悪い運は重なる。

 徹は通り魔の如く、いわば悪徳高利貸しと呼ばれる輩を殺害してまわっていた。彼らなら用心棒を雇い、毒手を使わない腕試しにもなるので、特に正義感もなく襲っていた。しかし、その共通点を見出した者が近くを張っていた。

 騒がれたことに毒づいた徹がその場を去りながら、反省点を整理しはじめようという時に、白い槍の閃きが見えた。

 体を捻ってかわしながら、左横へと移動するため地面を蹴る。

「ンだよ」

 徹が眉間に皺を寄せて、目の前の槍の主を見る。夜目は効いている。

 槍の持ち主はクォーツぐらいの身長、つまり長身の男。金髪だが、エルレーンやクォーツに比べると顔つきに殺気がある。

 それに少年特有の直感か、あるいは野生的な勘か、相手には槍だけでない武器の存在を感じ取った。

(クソやべぇ)

 夜に活動し、殺しに来る相手。徹でもそれを知っている。

 天剣組てんけんぐみ。西京市街を守るという傭兵部隊である。主任務こそ開拓地の外敵防衛だが、市内の治安維持も行っている。

 クォーツからも聞いた。相手は治安維持を一人でやっているという凄腕の槍戦士だ。名はアーク。アーク・バルケル。

(やばい。ヤバイヤバイヤバイヤバイ!!)

 初撃ははずせた。だからどうしたという話だ。

 第一に地の利がない。新市街は慣れていない。逃げるにしろ余裕が欲しい。

 第二に距離的不利。徹は修行により腕が平均的男子より異常に長いとはいえ、槍の長さにはかなわない。また彼は毒手以外完全な徒手空拳である。彼よりアークが強い場合、このリーチの差は完全な詰みである。動かないことで千日手となれるが、本質的な体力勝負となり、これでも徹が負けてしまう。

 逃げなければならない。為せば成るとかそういう問題ではない。今の徹では勝てない。そういう思考に至れたのも、ここ最近の夜の修行によるものだ。暗闇は徹の腕の長さを誤認してくれる。夜は徹にとって大きな武器だ。そして毒手は必殺の武器だ。ただ最近は、薄々だが致死毒でない気がしていた。毒を使えば、身体の赤い紋様が消える。それはつまり、毒を注入できる状態であるから赤くなるのではなく、使わないから赤くなるのではないか、と思うのだ。

 お互いが動けない緊張状態で、徹は毒を放つ意志を目に伝達する。今まで考えたことのなかったことだ。触って毒を放つ、貫手で放つ、そればかりを考えていた。放射するとか視線によって伝達するなど、格闘戦しかしてこなかったから思いつきもしなかった。

 一縷の望みを賭けて、相手との視線を集中して保つ。すると微動だにしなかった槍の穂先が揺れる。徹は一瞬迷うが、一か八か地面を蹴って後ろへ下がる。

 無論、そこは狙われる。さらに距離を取るにも、槍の突きは思った以上に伸びる。槍は、突き、払い、の二種が基本だ。剣であればそこに選択肢がさらに増える。だが槍はその圧倒的なリーチが持ち味だ。安全圏から殺意を持てることが有効であることは、銃が分かりやすい。こと近接戦闘において、槍術の優位は揺るがな

いのだ。

 バックステップを狙った突きは、徹の右肩口を掠める。それだけでも切り傷になり、彼に痛覚として訴えてくる。

(だが距離は取れた!)

 痛みは生命の危機が薄めた。このチャンスを生かして一目散に逃げなければ死ぬと思った。幸い相手はエルレーンのような魔術師ではなく、槍戦士だ。逃げた先で、幻覚だ、などとはならないだろう。

 徹は脇目を振らずに逃げた。小柄な体しか入れないだろう小道を通り、屋根へ登って、屋根伝いを跳んで、道化屋敷に逃げ帰る。

 肩に息をし、呼吸を整えながら、いつもの庭で大の字になる。落ち着く内に肩の痛みが走ってきて、逃げられたことを自覚するのだった。


    ******


「いやぁ、若いっていいな」

「それを言うなら我々も老人ですよ」

 先日の従者会議で徹から聞いたことをクォーツはエルレーンに報告した。天剣組と接触したこと自体は悪手だが、収穫のほうが大きい。徹が自覚してくれるなら、エルレーンたちの思惑としてこれ以上にない戦力だからだ。

 エルレーンは自室のソファーで横になって、これ以上にないくらいくつろいでいる。その横で、クォーツは立っている。いつものことだ。

 今日は執務室で二人、徹を待っている。呼びはしたが、来るかどうかは徹の自由意志だ。クォーツが座学だと言ったので来ない方に心の中で賭けていた。

 だがクォーツの予想は外れる。割と大真面目な表情でやってきた。こういう時は人を見る目がないことを彼は実感する。

「座学だって?」

「ああ。座んなさい。飲み物何にするかね。」

「この前飲んだ黒い泡の出る奴」

「流石、お目が高い。クォーツ、よろしく。」

 今回は割と素直に言うことを聞く徹。エルレーンの対面に座り、飲み物を注文する。飲みなれない炭酸系の飲料水だったが、甘さと炭酸で引き込まれたシロモノだった。質実剛健を国体とするヤマトではマイナーな飲み物だったし、夏より冬季が長いウィーガルでは冷たいものは流行らない。この世界では、本当に流行っていない炭酸飲料水である。

 いわばそれが今回の肝だ。この世界で、ステイツは誕生しなかった。欧州から出発する大量の移民が、他大陸に移らなかった。それどころか、いわゆる北米大陸と言われる場所は、この世界での人間よりも強く製造されている原住の魔人族によって支配され、それらが他大陸に逆侵攻をかける形となった。

 それが遠因となり、比較的現代で唯一神が生まれた。エルレーンが倒したいと思っているのはこの唯一神である。だがこの唯一神は、今いる人類の平和と安寧を願い世界を安定させている。これを倒すことは、本来であれば悪である。だからこそ、悪意であるエルレーンが為せることなのだ。それにこの世界の人類は、ある不安定要素を持つ。

「欠損術式?」

 聞いたことのない単語に徹は聞き返す。欠損術式とは、政府機密階層で管理されている秘匿情報の一つだ。

「それがあるから竜化する。あるいは麻薬で魔人化する。その根本的原因だ。この世界で生まれる人類に、ただ一つの例外なく埋め込まれるものだ。欠損しているから機能はしていないが、ある種の興奮状態に陥ったり、薬物の魔力でその術式が誤作動を起こす。それが竜化や魔人化と呼ばれるものだ。この世界の人類を生んだ、竜族の汚い安全装置だ。本来は竜族を超える力を持つ前に暴走させて自壊させるために作られた技術だが、その前に竜族が同士討ちで滅びてちゃ世話ないがな。」

 人類が繁栄するより前、世界の支配者は竜族だった。いわゆるドラゴンが闊歩し、絶対的な階級社会でもって支配されていた。しかし彼らは長命であるが故に種として存続不能な少子化問題に直面してしまった。また当時竜族は労働力の確保として過小サイズの魔法生物に着目していた。これが始祖人類である。

「この世界での教科書では進化論が定説となっているが、嘘っ八もいいとこでな。とはいえ、そういう真相があっても、竜信仰過激派の再燃になりかねないから、真実を知っている国は伏せている、といったところだろう。今は北方で、新機軸の竜信仰が興っている。むしろ私はそれに協調したいと思ってるのだよ。」

「よく分からん」

「そうだろうと思った。だからひとまずは置いておくぞ。重要なのは、欠損術式だ。こいつが曲者でな。誤作動した後に自我を取り戻すなどして低確率な条件を満たすと術式が修復されるようになっているんだ。」

 エルレーンの説明は徹にとって飛躍する話の数々である。それを理解しきれるわけがない。徹が持つのは中学生レベルの教養だ。実のところほとんど分からないと言っていい。

「術式が修復することにより、その人間はほぼ竜族になる」

「はぁ!?」

「成功例は少ない故に標本として確保されている例も少ない。そりゃあそうだ。竜族に変化した時点で、ほぼ当時の若さのままでいられる。竜族の生殖能力低下も患うが一代であれば二百年規模で生きられるだろう。」

 徹とて竜族については知っている方だ。養父と同年代の学生が竜文明学者になり、その学者が世界的発見をしたことで文明の謎がかなり解き明かされたとか。竜は不死身に近い強靭な肉体と長寿を持っていた。だが、身体を維持できるほどの脳みそを持っていなかったために、長寿を維持しきれなかったとか。人間における認知症のようなものが、竜族にも発生し、野生化、竜族同士の同士討ちに発展したという。

「一見強力な修復術式だが、ごく最近になって脅かすものが現れた。竜も神も予測できなかった、人間が何気なく生み出した魔物。吸血鬼だ。」

 本来であればオカルティックな代物がこの世界ではあまりポピュラーではない。特にヤマトでは、自然と精霊信仰に基づいた話がほとんどだ。その中に登場する魔物は決まって竜や鬼である。妖怪の類が絵にも描かれていないという状況だ。

 エルレーンやクォーツが知る吸血鬼と、この世界の吸血鬼は似ても似つかない。それは人類が形作った魔導情報ネットワークから生まれた情報ウィルス型の魔物である。このウィルスに感染した場合、大抵衰弱死するが、発症にズレがある。問題はその衰弱死に即効性があるため、ネットワーク接続中に衰弱死した場合、死んでいるのに欠損術式が生きているという矛盾を引き起こすのだ。

 これが吸血鬼の誕生。生命活動上死亡しているのに、本人の魔力は生きている。術式がしっかり機能しない以上、放置すれば自滅するが、術式が記憶している生存本能に従うため、その一環として他人の魔力を奪う。魔力を奪われたものは干からびて衰弱死する。そうした状態になることから、この命を奪う魔物を吸血鬼と呼んだのである。

「吸血鬼の特性は、死んでいるのに生きている状態だな。魔力さえ維持できれば肉体は腐り果てることはない。そしてもう一つが邪視。吸血鬼化することで、眼球が黒く変色するが、この視線は魔力を帯びる、高密度の魔力視線によって、耐えきれる人間の脳はいない。一瞬で他者の情報を自分の脳にねじ込まれる形だから、耐えられるわけがない。これにより脳停止に追い込まれ、魔力を奪われるわけだ。」

「そんなのがいたら、無理だろ」

「まぁな。だが、吸血鬼の発生は今のところ抑えられている。情報供給量の改善や情報ゴミの削減といった形でな。それに最悪の大量発生は、ある二人の活躍によって防がれている。」

「ふーん」

 この二人のことは黙っておくべきだとエルレーンは思った。彼らは徹では手に負えないと実感している。

「で、長くなったがこれが本題なのだ。徹、お前の毒は吸血鬼が発生するウィルスに効果がよく似ている。」

「お前そりゃあ――」

 徹がエルレーンの突飛な話に言いよどむ。実感がないわけじゃあない。精密に検査したわけではないが、徹の毒とは高密度魔力で人体に毒、という推測を養父から聞いた覚えはある。

「お前がどこから生まれて、どこでそんなものを手に入れたか分からん。ただお前は、現在ではほとんど抑制されている病を保菌して生きていることができるということになる。無論抑制されているのはネットワーク上の話だ。これを普通の人間に感染させることができれば、対人に関しては必殺兵器になる。」

 とは言うものの、それではあまり今までと変わらない。理屈は解明されても、徹の実にはなりにくい。

「まぁ聞け。お前が天剣組の槍使いに咄嗟に放ったことは、吸血鬼の邪視とほぼおなじことだ。その毒は目に見えないモノ。お前にしては最善手だったんだ。」

 エルレーンだって褒める時は褒める。おどけているせいであまり真面目に受け取られないのが悲しいところだ。自覚はしている。

「ただ、この毒が吸血鬼とほぼ同質である場合、困ったことだが、まるで効かない存在が数種いる。一つは魔人族。彼らは竜族に戦闘改造された者たちだ。埋め込まれた術式はもちろん改造術式になる。魔人種のつがいで生まれた者は欠損術式だが、簡易改造によって劣化しつつも種を存続してきた。アーク・バルケルもその一人だ。気を付けておけ。」

「無茶言うなし」

 アークは旧市街にこそほとんど来ないとはいえ、新市街に出ればカチ合うこと必至である。気を付けるのは当然で、油断すれば死ぬというハードなものである。

「もう一つは精霊だ。効かないわけではないが、現存する精霊は吸血鬼と交戦経験がある。切り札を見切られると厳しいぞ。」

「ちなみに精霊って?」

 精霊。欠損術式により微弱な魔力しか自家発電できない人類と違い、自己で魔力を発生させ、自然現象を起こすことのできる種族である。これも竜族が生み出した技術である。本来は竜族が睡眠延命する際、人類を導く手段としての代替存在だった。しかし、その竜族は目覚めた後で力を奪われ、精霊だけが独り立ちしてしまった。

「精霊は六人いて、そのうち三人が天剣組にいる」

「バッカじゃねぇの!?」

 流石の徹も声を上げる。クォーツも馬鹿らしいと思う。世界をどうにかできる戦力が西京市に集結している。考えられないことだし、存在を知る者からすれば気が気でない状況であろう。

「ここまで質問は?」

「奴らに対抗できる秘策を寄越せ!ンな俺より化け物な奴らに勝てるか!」

 エルレーンの質疑応答をするまでもなく、徹は彼に飛び掛かり襟首を掴んだ。かなり必死だ。戦える力があるのに、そのほとんどには敵わない。それはとても悔しいことだろう。エルレーンやクォーツはそれらを時間と戦略の構築で跳ね返せる。だが、神代徹は少年とはいえ、人間だ。欠損術式を誤作動させるのはリスクが高すぎる。仮にできたとしても、彼ら精霊並の力を手に入れられるかも分からない。

「何のために勝つ?」

「負けっぱなしでいられるか!意地がある!!」

「そりゃお前だけのものだ。私は知らん。エウロサにも分からん。」

 徹の言葉に、エルレーンは冷静に答え、徹が襟首から手を離す。多分、エウロサの部分が聞いただろう。言葉こそ乱暴だが、少年が大人の無防備な色香に勝てるわけもない。

「研鑽しろ。それしかあるまい。」

 今までのエルレーンならば、安易で強くなる方法を提示した。だが今は違う。

「負け続けても、生きて糧にしろ。その経験がお前を強くする。問題になる時間の方はこちらで対策する。お前は、いや貴様は基本に立ち返れ。目標を抹殺するのに芸術は必要ない。容赦ない必殺の一撃を磨け。」

 エルレーンは本人のレベルアップを命じた。それだけ、これからの目標に掛けている。それはもちろん、クォーツも。

 二人の化け物にとって、今回の作戦は非常に気が長く、それ故二人が見守らなければならない遠大なものだ。

 この世界に、術式の埋め込まれない本当の人類を生み、増やし、それによって、神を殺す。今まで人類が成し得た神殺しの再現をしてやるというものである。


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