目的、あるいは目覚める意志

 庭師などというが、本職ではない。かといって本職はなにかと言えば、特にそんなものはない。ただ専門ではないだけだ。ガーデニングは暇つぶしに始めたことであり、何かこだわりがあるわけではない。

 彼、神代かみしろとおるにとって本当にしたいことなんてない。何も目標もなく生きる彼に、養父は恩師への奉公を命じた。それ自体は別にいいのだが、その恩師というのが正体不明の魔術師なのが気に食わなかった。

『私はもう老い先長くない。すまんが私の代わりに先生を助けて欲しい。』

 老い先長くないなどと。それで百年以上生き続けた魔術師の一人だろう、という文句の一つも言いたかったが、数少ない恩のある人物なので飲み込んだ。

 自分は特殊体質なので、荒事に長けていても、使いにくいことが分かるとすぐに野に放り出された。養父はその特殊体質をまったく物ともせず、彼を拾った。学校に行けない彼は養父から最低限の学習を受け、文字の読み書きぐらいはできるようになった。

『納得の行く人生は送れたか』

 恩師という金髪の魔術師が、養父との別れ際に言った。

『不満は一つ残っています。だがもう詮無き事。来世か、また巡り合う時に、願いを託すとしましょう。』

『この子もその願いか?』

『まさか。この子はこの子の人生。私の不満は忘れられない一人の女性のこと。徹は反抗的ですが、先生の元でなら輝かしい舞台に進めるかと。』

 養父は子供がいない。神代の家で神代の名字を授かる子供は全員元孤児である。何らかの理由で施設にいた者や、元々親がいない者、出身は様々ある。

 徹は覚えていない。物心つく頃には神代家で生活していて、近所の忍者衆の見よう見まねで修行した。自分の特殊体質で、ヤクザを渡り歩いていたとは、その修行中に聞かされたことである。

『まぁ私はもう従者がいるから別にいいのだが、君の体は面白い。一緒に行こう。』

 養父と最後の別れをして、金髪の魔術師はそう言った。彼は、その言葉の直後に魔術師の腹部に向かって貫手を繰り出した。こいつを殺して、自由に一人で生きようと思ったのである。

 人殺しを忌避する倫理観は持ち合わせていない。別段生きる目的はないが、本能的にこの魔術師が嫌いだった。だから不意打ちしようと思った。たとえ咄嗟に防御しようと、彼の特殊体質からは逃げられない。

 彼の体には、現状の医療能力では対抗不可能な毒が流れている。体液、あるいは爪の欠片でも彼以外のヒトに接触すれば感染し、神経麻痺あるいは呼吸困難に陥り良くてショック死するという大変危険な有毒体質である。このせいで彼は他人にほとんど触れたことはない。触れることができたのはこれまでただ二人、先ほど別れた養父母だけである。

 だから殺せると思った。

『なんだ君、子供らしいじゃないかね。殺す瞬間は最高に楽しい、という顔をする。』

 彼は殺人の楽しみを自覚したことはない。だがどうやらこの時、彼は笑っていたらしく、魔術師の指摘でようやく自分の感情に気付く。彼自身、自らの能力に傲慢になっていた。この能力があれば、誰だろうと初見殺しが可能だと思っていたのだ。

 だが金髪の魔術師は、彼が常識的に考えるような人物ではなかった。本能的な嫌悪感の正しさが再確認できるような、化け物だった。

 魔術師は徹の貫手に微動だにせず、また、傷口から血が流れることはなかった。まるで暖簾に腕押ししたような、手ごたえの無さがあった。

 驚愕と混乱と、言葉の意味について考えて、一瞬で彼の頭の中が恐怖を支配し、危機感を煽った。今まで感じることのなかった、本当の死の恐怖に、なりふり構わず逃げだした。

 忍者の体術の修行はしている。普通の人間は追いつくことはできない。そう思って、住宅街を抜け、ビル街を跳び、人気の無い路地裏に逃げ込んだ。

『つまり、君の頭の中ではここまで逃げれば私から逃げ切れるということだな』

 だが、声が聞こえて、現実に引き戻された。震えと冷や汗に変わりなく、そして本当は逃げ切れたわけでなく、腰を抜かして動けなくなっていたことに気付く。この魔術師に逃げ切れたという幻覚を一瞬で見せられていたのである。

『この世界では君の考える以上に化け物がいる。何者も害すことのできない神、滅びたはずの竜族、世界を監視する冥府の神、世界征服を企む覇王、ヒトを導く六大精霊、そしてこの私だ。』

 魔術師は笑う。それは魔術師にとって何でもない自慢だったが、彼にはおぞましいものに見えた。養父がこのとんでもない化け物の手下だったことには驚かず、ただ目の前の怖れの象徴に身体を震わせていた。

 泣きそうだった。死の想像に漏らしそうだった。寒くもないのに歯がガチガチだ。でもなりふり構わず命乞いをする想像に至らなかった。

 ひとえにそれは、彼自身が生きることに執着していなかったからだった。

『ふむ、恐怖で体は動かないが、命乞いはしない、か。なかなかいい。俄然、自分の元で育てたくなった。』

 魔術師は感心し、満足そうに言って、先を歩き始めた。ある程度距離が離れてから、彼はようやく立ち上がり、その後ろに付いて行った。この時、逃げようとは思っていなかった。

 今はあの化け物に到底かないっこない。たとえ逃げたとしても背後の恐怖に怯えることになってしまう。敵にしなければ、自分の見える距離に居れば、少なくとも怯えることはない。そう思って、魔術師に付いて行き、本土から大陸へ渡り、魔術師の屋敷の庭師になっていた。

 彼の毒は動植物には効かないが、普通の人間には猛毒だ。魔術師はそのために手から腕に包帯のような布切れを巻いた。たったそれだけなのに、触れることのできなかった他人に触れることができるようになった。

 化け物の魔術師の奥さん、ルシカの優しい抱きしめでも、彼女を殺すことはなかった。

 他人に触れられるようになったところで、徹の生活に変化はなかった。見慣れぬ土地での生活ではあったが、不満はなかった。

 特に変わったことといえば、彼の自室ができたが、彼自身野原で眠ることを好んだために、魔術師の屋敷の従者に世話を焼かれるようになったことだろうか。この屋敷は元娼館で、魔術師が大金を出して買い上げた。徹が庭を整美する前はかなり寂れていたが、今では小綺麗なものである。

 その日も庭で眠り、思い出したように、樹木を綺麗に生え揃わせるように綺麗にしてやるという日だった。何度目かの寝転がりに、黒髪の美女は声を掛けてくる。

「テツさん、風邪ひかないんですか」

 彼女はおどおどと消え入るような小声で言って、覗き込んでくる。徹から十歳ぐらい年上の彼女は、今まで見たこともない美女で、同時にとても儚げに見えた。

 横になっていた徹はロングスカートとエプロンの屋敷の従者を薄目で確認して、再び目を閉じた。

「ね、寝ないで下さい」

 彼女はエウロサ。魔術師に売られた娼館に元々いた娼婦の一人だ。魔術師やルシカにはとおると名乗っているが、彼女やもう一人の元娼婦のレハールにはテツと名乗っている。その方がかっこいいからだ。

「何度も言ってるだろ。俺は外にいるのが好きなんだ。」

 徹としては人間におおっぴらに触れられるので、他人の手を振り払える。ただ彼女は口では言ってくるものの、手を出して来たりはしなかった。手を出そうとすると、すぐに引っ込めてしまうのである。

 その反応に、徹は薄目で見て、違和感を感じていた。単純に対人関係に恐怖を感じているなら近づいて来ない。徹のような見た目の黒髪の少年に怖がることはあまりない。レハールは屋内ですれ違うと、掃除の二度手間になるからあちこち歩くな怒ってくる。ルシカは、飲み物やおやつはどうかと優しくしてくる。なお、魔術師には会わない。会いそうになったら近づかない。

 たまに外から、この娼館の常連客と名乗る男がやってきてこちらに罵声を浴びせてくる。正直邪魔だが、彼らは文句を言えば帰るので気にしないことにしていた。

 エウロサの反応はそのどれもともそぐわない。声を掛けてくるのに、それ以上踏み込んでいくのを躊躇っているように見えた。何かしら感情は見せるのに、怒りや苛立ち、優しさなどではなかった。それが何か掴めず、彼女の去っていく後ろ姿を眺めて、徹は眠りに落ちた。

「金なら出すって言ってんだろ!」

 どのぐらい時間がたったか分からないが、大声で徹は目を覚ます。ため息をついて気だるげに身を起こすと、エウロサが柵越しに小汚い中年に腕を掴まれ、喚かれていた。それに対し彼女は何か言ってるようだがまったく聞こえず、逃げるに逃げられないといった様子であった。

 徹にはその状態に覚えがあった。恐怖に対して体が固まってしまう。彼が魔術師に対して思うことと同じ状態に、似通っていた。

 おそらくは、彼女は、娼婦だったから男性に対してそういう思いを抱いていたのではないだろうかと推測した。徹は童貞だが、男女のやることぐらい知っている。人並みに性欲だってある。エウロサほどの美女を独り占めしようと思う人間の気持ちぐらい理解できる。

 ただ、彼女の恐怖感を理解しただけに、このまま放っておくことはできなかった。ぶん殴るという選択がすぐに頭に浮かぶが、エウロサを見て思い直す。彼女を怖がらせず、養父のように紳士的に対応しようと、立ち上がる。

「やめろよ」

 中年はエウロサの腕を執拗に引いていたが、徹の声に動きを止めた。

「ここは娼館じゃない。彼女ももう娼婦じゃない。彼女は客を取らない。そんなことも理解できねぇのかハゲ。」

 中年は禿げてないが、つい余計な一言が加わる。少年らしい、とって付けたような悪口だ。

 ただ中年にとってこの語彙のない罵声でも効果十分だったようで、エウロサを掴んだ手を離し、その手を握りしめ、徹を殴った。側頭部を殴られた徹は野原に倒れた。

「また来るからな!」

 中年の男は乱暴に言って、足早に去っていった。それを倒れた状態で薄目に見ていると、エウロサが徹を覗き込んできた。唇を震わせ、どうすればいいか分からず、視線が定まっていない。とはいえ、なんとかせねばと手が伸びているのが分かった。

 徹は震えながら伸びる右手に布で巻いたある左手を出して、握手するように軽く握った。

「あまり、俺を触らないほうがいい。触るのなら手の方がいい。」

 別に恰好つけたつもりは毛頭ないが、結果的にそうなった。徹の頭では触れるのは大丈夫、それ以外はどうなるか分からないという状態だ。謎の布が巻かれているから触れるのが大丈夫なだけで、他人が直接的に手以外を触れてどうなるかは試したことはない。昔であれば、服の上からでも軽い毒が回っていた。となれば触れさせるわけにはいかない。

「う――あ――」

 エウロサは手を握られて、口をパクパクさせて何事か言おうとしていた。顔を赤らめるとか、恥ずかしいとか、そういう色っぽい反応ではない。呼吸が上手くできていない緊張性の反応だ。おそらくはびっくりする反応が上手くできないのだろう。それが対人恐怖症と重なって、自分の反応が身体で制御できないと。

 そう推測したら流石に握り続けるのは不味かろうと、手を離して、彼自らの力で立ち上がる。

 無防備に殴られたのは、事を大きくしないためである。小さい、ほんの少しの気遣いだが、彼女の前ではただの野生児であろうと恰好つけた気持ちがあったのだ。

「なんともないよ」

 何も問題ないことを見せてやるが、エウロサは過呼吸になっている。そうすると対応に困る。

「うーん」

 徹は所詮十六の少年だ。観察力はあるが、対処療法は知らない。無論、対人恐怖症の相手に対する精神鑑定など、専門家でなければ知り得ることもない。

 故に、彼の処理能力を超えている。助けを呼ぶほかなかった。

 うずくまる彼女を庭に残し、徹はその足で、屋敷の外壁を踏み台に窓枠に手をひっかけ、まるで猿のように器用に登り切り、屋根に到達する。庭とは真逆の側の二階の一室は窓が開け放たれいるので、そこに入ってしまう。

「なぁ、ちょっと助けてくれよ」

 その部屋にいたのはパソコン機器と睨めっこをする一組の男女だ。女の方は固まり、男のほうは徹を見てため息をつく。

「そこは出入り口ではない」

「入れるところなら別にどこだっていいだろ」

 男は少年の失礼極まりないタメ口に何の反応も示さない。諦めているのか、気にしていないのか。男の方、クォーツはため息をつきながら立ち上がる。

「で、何だ、助けとは」

「エウロサが庭で外の男に乱暴されかけて助けたが、かなり怯えてる。何かの発作だろ、あれ。ちょっと俺じゃどうしようもない。」

「ちょっと、大変じゃないの!」

 徹の登場に固まっていた女、レセイルが声を上げて立ち上がった。

「そうか。よく知らせてくれた。庭の方だな。」

「あぁ」

 男女は徹の知らせを聞き、すぐに部屋の外へ出て行った。残された徹は、再び窓から出て、屋根に上り、クォーツらに介抱されるエウロサを屋根から眺めた。



 夜が更け、多少のトラブルはあったものの、エウロサは落ち着いて、部屋で休んでいる。徹は窓から寝込んでいる彼女を見てから、定位置の庭へと戻ってくる。

 気になることは問題ないと思い、また寝ようと、野原に横になるが、足音がして、億劫に足音へと顔を向ける。そこにいたのはクォーツだ。短い金髪の真面目そうな男。あの魔術師の従者だが、嫌な気配はないという印象だった。

「育ち盛りだろうに。夕食はいいのか?」

「腹が減ったら食うよ」

 半分嘘だ。体質のせいか、料理された食事をあまり受け付けない。どちらかというと生のものが好きだ。血が滴った新鮮なものが特に好きだった。もともとの食生活が悪かったわけではない。体が大きくなり始めてから、特に加工物に対して食欲が湧かなくなっていた。

「エウロサが心配なのか?」

「いんや。あいつ、いつも声かけてくるから、倒れられると気分が悪い。」

「同じことだろう」

 クォーツは含み笑いをする。それで気を良くしたか、見下ろしているのが疲れたのか、彼は野に腰を下ろしてしまう。あぐらを掻いてきたので、徹は起き上がって、彼もあぐらを掻く。

 周囲は暗いが、屋敷から明かりがこぼれているので、クォーツの表情くらいは読み取れる。真面目そうな男は、笑みがこぼれていた。

「あんたはアイツよりも気持ち悪くないが、変な奴だな」

「聞いてはいたが、導師に嫌悪感を感じているのか」

 誰から聞いたのかは知らないが、いずれ分かることだ。特別な嫌悪感を抱いているのは徹ただ一人だからだ。見た目人間に見えるミストラルという青年は反応に困るが。

「あんたは、何だ?」

 徹にとって特別な嫌悪感は感じないが、それでも目の前の男も何かおかしいように感じた。こればかりはこうしてまじまじと見ないと分からなかった。

「導師と私はこの世界の者ではないからね。君の感覚は凄いと思う。」

「分かったところで、どうしようもない」

 魔術師に襲撃を掛けて、あいつに勝てないと悟った。まず殺すことが不可能なものをどうしようかなど考えたこともない。

「戦うものといえば、名誉のため、金のため、家族のため、愛するもののため、強いものと戦うため、様々な理由で強さを求める。君は戦士ではないな。」

「俺は生きてりゃいい。目的なんてない。」

 クォーツの断言に、徹は言葉で肯定する。徹に闘争心は無い。なにしろ、毒を流し込めば大抵の人間は死ぬのだ。技を競う楽しさとか、相手の死に様が楽しいとか、そういう気持ちは一つも成長しなかった。何をしても触れば怖くない。

 ただ逆に言えば触ってもどうにもならないものは怖い。それが例えば魔術師だっただけのことだ。

「だが、定期的に気に掛けてくる彼女を見逃すことはできなかった」

「む」

 そう言われればスジが通らない。興味がないつもりだったが、男として女に反応させたい何かに目覚めたのかもしれない。少年は相手が美人だったからと思うことにして深く考えなかった。

「美人だな。でもあのザマだ。何かあんの?」

「少女のころに誘拐されて、何人も富豪の間を売られ歩き、身体は傷物になって、こんな場所に流れ着いた。男の暴力に晒され続けた、哀れな女だ。」

 吐き気のする秘密だと思った。触れただけで死ぬ力を持つ徹にとって、暴力を振るうことに何の実感もないからなおのことだ。エウロサは文句のつけようのない儚げな美人だ。だからそれ以外を攻撃され続けたのだろうか。

 昼間の中年男もそういう欲望を持ち、金を払ってでも暴力を振るいたかったのだろうか。考えて、魔術師と会った時とは違う気持ち悪さを感じた。

「だから、男に触れられると、ダメ、か?」

「それ自体は軽症だ。暴力を振るわれる兆候が特にダメだ。」

「あぁ、なるほど。避ければ良かった。」

 徹は勘違いしていたことに気付いた。エウロサが動けなくなったのは、暴力を振るわれたのが自分ではなく、他人であったことがよくなかったようだ。自分と他者を誤認し、混乱してしまったのだ。徹としては気遣いのつもりで殴られたのに、彼女のためにならなかったのは反省しなければならないし、謝罪しなければならない。

「君はどうも、ちぐはぐだな」

「俺のいる世界は、自分の見るものか、聞くものしかない。こんな体だからな。」

 恰好つけたわけではないが、結果的にそうなった。気にしてはいない。毒の体のせいでまともな学校に通えないし、他人と接触もできない。大陸に来てから、他人との会話や触れ合いは増えたほうなのだ。だがそれは急激に変わることでもない。

 真実、徹の倫理観は一つも変わってはいないのだ。

「だがその筋の通らなさは、導師に似ているな」

「うぜぇな」

 クォーツの苦笑の言葉に、徹は正直に即答した。魔術師と一緒にされるなど言語同断だ。そして心外である。

「導師は今壮大なる目的に対して準備を始められた。それはなりふり構わない手段ではなく、あくまでこの世界の自然な形で策動させるものだ。導師ならば、取れる手段などもっと多くあるのに、もっとも時間が取られる方法を選んだ。その理由といえば、面白くないからだ、そうだ。導師は快楽主義者だからな。あまりにも筋が通らんだろう?」

 クォーツは笑っている。自嘲している。徹は気に入らないが、とてつもない悪党ぶりに言葉が出ない。

「その理由は、ルシカさんと幸せな生活を壊したくないからだそうだ。困ったものだが、それで導師が楽しく生きられるなら、私としては反対する理由が無い。」

 徹としても魔術師の奥さんという彼女とのイチャイチャぶりには辟易する。あれで徹とは二つ三つしか年齢が違わないというのに、彼女からは立派な母性を感じたのである。

「ただ君は導師と違って、今を生きる理由や目的に重要さを感じていないようだな」

 まるで化け物よりも劣るように煽られ、徹は苛立ちがふっと沸き立った。だがこの場は挑発だと思い、表向き何も反応しないことを選んだ。

「まぁいい。昔、導師のもとにいた護衛役と比べるまでもなく弱いが、お前は期待できそうな感じがするな。」

 そう言って、埃を払いながらクォーツは立ち上がる。話は終わりのようだ。

「そいつは――いや、なんでもない」

 徹は聞こうと思ったが、やめた。連続で比べられたのが気に入らなかったが、聞いたところで分かる話でもなさそうだった。化け物の仲間と、人間の徹だ。その経験の差はほぼ埋まることはないはずだ。強くなるか、魔術師を殺すなら化け物になるしかない。だがそれだけ強くなるための理由が、徹にはなかった。

 クォーツが立ち去っていく。そこに、おやすみ、とか、またね、はない。彼らは化け物だ。徹とは決定的に違う存在だと思っていた。徹自身、化け物と何ら変わりがないというのに、自分自身でそう思っていた。



 次の日。昼過ぎにエウロサがやってきた。血色はよくなっており、本調子には見えた。徹は野原に横になって、だらだらしていたところだった。

「あの、昨日は」

「昨日は俺もすまなかったな」

 エウロサが言い終わる前に徹は謝罪しながら起き上がった。

「怖かったろう」

 起き上がるだけなく立ち上がり、少し背が高い美人に声をかける。その言葉に少しびっくりしたようだが、すぐに彼女はにっこり笑った。

「俺は大丈夫と見せるつもりで殴られたんだがな。結果的にそれが不味かったらしいな?」

 彼女とまともに会話したのはこれが初めてだ。奇妙な会話だが、徹としてもまともに女性と会話するのは初めてだった。どぎまぎはしないが、かなり不器用な感じになっている。

「そんなことは、ありません」

 消え入るような小声で彼女は言う。こうして会話することも彼女にとっては難題なのだろう。かわいそうなことだ。

「声が辛そうだ」

 徹は正直な感想を述べたが、彼女からの返答はなかった。俯いて、どう返すものかと口をもごもごさせている。

「お前の意志を無視して、お前の事情は聞かせてもらった。無理そうなら屋敷に戻りな。またお前目当ての男が来たら事だぞ。」

「でも」

 小声ながらも彼女は食い下がった。その表情は、なぜか泣きそうだった。

「辿り着いたぞ!」

 徹がエウロサの言葉を待っていると、怒号が響く。昨日の中年男だ。さらに二人も連れている。

「金なんかどうでもいい!連れてこうぜ!」

 男たちはなぜかギラギラとした目つきをしており、柵を蹴り壊し、ずかずかと庭に踏み入ってきた。もはや手段を選ばず、エウロサを連れ去るつもりらしい。

 だが、中年男がエウロサに手を伸ばすよりも早く、徹が顔面に両足でミサイルキックを放った。

 徹としては彼女を守るためではなく、庭に踏み込まれた怒りからであった。

「こんのガキ!」

「自然は大切にしろハゲども!」

 男たちは禿げてないが、悪口の語彙力の無さは健在だった。怒って殴りかかってくる他の二人をいとも簡単に返り討ちにしてしまう。

「ちくしょう!」

「何だよこれ!」

「逃げろ!逃げろ!」

 二回りも小さい少年にボコボコにされた中年たちが逃げていく。その逃げていく背中に向かって徹は叫ぶ。

「今度、庭を踏み荒らしたら命はねぇぞアホども!!」

 一方的だったが、いわゆるケンカをしたのも初めてだ。ただこちらはあまり実感はない。害虫や害鳥を追っ払う気分でしかない。柵を壊され、踏み荒らされた場所を見て、どうやって整美しようと思案する徹の右手に触れる者がいた。

「大丈夫、ですか?」

「問題ない。拳打でケガするほど鈍っちゃいない。お前のほうこそ怖くはなかったか。」

 彼女は普通に徹に触れているが、一応聞く。彼女は頷いた。そして微笑んだ。多分それが彼女の精一杯なのだろう。それ以上真意を推し量ることはできないが、そうするのは酷だろうとも思った。

「なぁ、お前。娼婦じゃなくなったんだ。なんか他に生き方を考えることはないのか?」

 だから、直接的に聞いた。オブラートに包むとか、遠回しに聞くとか関係なく、徹なりの気遣いを掛けた。

「新しいご主人は、優しいですし、奥様は、年下だけど、無茶を、言いません。だから、ここに、います。」

 たどたどしく彼女は言う。彼女もまた外の世界を知らないのだろう。男の暴力の中で生きながらえてきたのだから当然だろうが。ただそれは、徹が考えるよりも壮絶なことだったろうと思う。徹は普通の人間に対して強いが、彼女は世界の人間の約半分に弱いのだ。絶望の日々だったろう。おそらくは、無理矢理生かされてる状態だったのではないかと思う。

「で、俺に声を掛けていたのは優しさだったのか?」

 慣らしてから本題に入る。這うように生きてきた彼女が、徹のことをどう思って声を掛けていたのか。それが分かれば、彼女と接するきっかけにもなる。あと綺麗だからという打算的な考えもある。

「いつも、外に、いるから、中に入れて、もらえないのか、って。わたし、と、おなじなのかな、って。」

 つまり彼女なりに仲間意識を感じていたようだ。彼女からすれば、徹はまともな子供に見えなかっただろう。聞いてみれば単純なことだった。おどおどした喋り方だが、彼女は人間らしくあろうとしている。そう考えて、徹は初めて単純に苛立った。こんな美女が死を選ぶことができずに、生かされる世の中に苛立った。力づくでも彼女を奪おうとする愚かな男たちに怒りを覚えた。

 正義感ではなく、単純に怒りや苛立ちだ。人を傷つけてまで満たそうとする欲望に、どす黒い感情を持ってくる。

「俺は好きで外にいる。この場所が好きでな。土足で踏みにじられるのは嫌いだ。思わずキレちまった。」

 湧き上がった黒い感情を抑え込みながら、彼女に説明する。ああ、本当にキレてしまった。彼女の心を助けるためにも、自分の心を鎮めるためにも、あの男たちをのうのうと生き長らえさせるのが許せなくなってしまった。こんな感情も初めてだ。

「柵だけでも直そう。物置から板切れか何かを持ってきてくれないか。」

 徹は彼女に言って、感情を抑え込むために応急修理をすることにした。彼女は笑顔で頷き、屋敷に戻って行った。それを確認してから、地面を殴りつけた。

 下衆な男たちを殺しても何も根本的解決になりはしない。これは勝手な徹の怒りに過ぎない。だがそれでも、我慢ならなかった。人間のための怒りに、徹はわけがわからず、なかなか心の整理がつかなかった。



 柵の応急修理を終えたその日の夜。徹は巻いていた布を久しぶりに解いた。これで自身の毒手は完全解禁だが、腕は見たこともないような刺青のような紅い紋様が現れていた。手を握って開いて、調子を確かめるが、なぜこのようになったのかが分からない。

「その布を解いて何するつもりかな?」

 昨日と同じように、クォーツがやってくる。その様子はまるで昼間のことを覗いていたかのようなニヤニヤな笑みであった。

 また彼の後ろから魔術師までもがやってくる。本来なれば嫌悪感が先立つ存在だが、屋敷の壁を背にした徹に逃げ場はない。もっとも、逃げるつもりはない。今ある戦意が、徹を逃げさせなかった。それどころか、前へ踏み込ませる勇気すら与えていた。

 魔術師の顔を確認すると、彼が話そうとする前に、徹が前に出て、左ストレートで魔術師を殴り飛ばした。

「よし」

「よしじゃないが」

 毒手は効かないが、単純な物理攻撃は視覚的に効いた。それでどうなるわけではないが、潜在的な恐怖はようやく薄れた。それだけでも大きな一歩だ。クォーツは主人を殴られたが、別に怒ってはいなかった。多分、いつものことなのだろう。

「やれやれ、どんな風の吹き回し?」

「お前、俺に生きる理由とかを感じないって言ったな」

「ああそうだ。だが今の君は、人間らしく生き生きとしている。」

 今の徹は昨日とは真逆だ。感情に溢れ、目につくものを殺せそうな感覚にある。むしろ、そうするつもりであった。今から、この大陸旧市街にいる屋敷に来た男たちを探し当て、苦しませて殺す。毒の加減などしたことはないが、そこは努力する、といったふわふわした考えはある。

「導師、倒れてないで説明を」

「起こして欲しかった」

 尊敬の念を欠片も感じないクォーツの言葉に悲壮感を出しながら魔術師は答える。助け起こされもせずに起き上がった魔術師は口を開く。

「その包帯で、君の毒を抑えていた。その紋様は抑えていたことによる、負荷みたいなものだな。それにより、より効率的に毒を操作できる、はずだ。」

 魔術師はあやふやなことを言う。だが、その話の通りなら、試す価値もあるものである。その点について感謝せねばならない。

「理解した。ありがとう、魔術師。いや、エルレーンだったか。」

 その時に徹はようやく彼の名を呼んだ。嫌悪感や気持ちの悪さはまだ感じるが、それとこれとは話が違う。感謝すべき時は感謝するのが養父母の教えである。

「帰りに迷子になるなよ」

「大丈夫だ。あと、これはエウロサに危険に合わせた分な。」

 クォーツの言葉は、この屋敷にたどり着く方法を間違うなということだ。この屋敷は、エルレーンが何らかの術の影響下にあるらしく、普通の人間がたどり着くようにできていない。彼がなんらかの手抜きで術を解いたり、指定した人間を招き寄せたりするなら、屋敷にたどり着くことができる。それ故、この屋敷は道化屋敷などと呼ばれていることを、徹は知っていた。だからそう言って、エルレーンをもう一回、今度は右ストレートで殴り倒した。

 つまり、二日連続で中年男がやってきたのは、エルレーンのせいなのである。徹のルールでは、あれはあれ、これはこれをはっきりさせることである。毒手の感謝、恐怖感の克服、そして無用なトラブルを招いたことは別々の話である。この道化師に乗せられた節もあるが、それもまたエウロサへの暴力とは別の話だ。そして、世界の理不尽に対する怒りと苛立ちは、紛れもなく徹だけの感情である。

 両手の拳を握って開いて再度感触を確かめて、徹は一応軽く体操をする。久しぶりの運動である。

「今夜中に済ませてしまえ。やつらは旧市街の浅い場所でいつも飲んでいるそうだ。」

「なんだよ。居場所分かってるのかよ。」

「女に暴力を振るって自分だけ気持ちよくなろうとする類は私も嫌いでね。直接手を下すほどではないが、君が行くなら協力しよう、そう思っただけのことだ。」

 クォーツは微笑みながら言ってくる。そう言うからには、昼間のことは全部見られていたのだろうと思う。恥ずかしい話だが、呆れたり怒ったりはしない。そんなことよりも、目的の男たちへの殺意が勝る。

「ありがとよ」

 徹はクォーツに感謝してから、屋敷を走り去った。加速を乗せてから、砂利道を跳ぶ。旧市街の背の低いバラック街を飛び移りながら夜闇を駆けて行った。

「男子三日会わざれば刮目して見よ」

「導師、やはり若さとはきっかけじゃありませんか」

「まったくだよ。そういう奇蹟にいつもしてやられてきた。ボーイミーツガールの力はこれだから侮れない。」

 エルレーンは倒れた状態でしみじみ思った。彼は、徹の意志の目覚めを待っていた。そのために少々メイドに悪いことをしたが、エルレーン自身が謝る事でもない。

 クォーツは、見事に男の顔つきになった少年に期待の眼差しで行く先を見送るのだった。


    *****


 明くる日、旧市街の入り口でもある銀座通りの近くで、拳銃で撃ち合った死体が三つ発見された。検視にあたった治安維持組織が、彼らが神経毒に苦しんだ挙句、お互いを撃ち合って、ようやく苦しみから解き放たれという分析結果を出した。この神経毒の出所が分からず、事件は忘れ去られることとなった。その一方で、旧市街では毒を操る小悪魔の噂がまことしやかに流れるようになったという。

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