道化の導(しるべ)
赤王五条
お金、あるいは道化の始まり
金。それは欲しいもの。
金。みんなが欲しいもの。
金。それがあれば皆ハッピー。
あぁ、そのはずだったのに。金はあるのに、別のものが流れゆく。
失われる。なくなっていく。どんどん零れ落ちる。自分に流れる血が全部零れ落ちる。血。血。血。赤い血が流れて、黒くなる。
金。それは欲しいもの。
金。それがあれば生きられる。
「安物買いの銭失い、というのがある」
失われていく命。気の遠くなる意識の中、見覚えのある金髪の男がさえずる。
痛い。いたい。イタイ。
「一方で、タダより高いものはない、とも言う」
痛い。どこが痛い。分からない。痛い。助けて。いたい。そうだ、金ならある。
金は出す。だから助けてくれ。痛いんだ。助けてくれ。
「その金は君への対価だ。その対価を私は頂こうとは思わないな。お金は君が欲しかったものだろう? だから持っていきたまえ。死の直前まで、それは君のものだ。」
いやだ。
「それがあれば幸福なのだろう。だから気にせず持っていきたまえ。」
いやだ。死ぬ。このままでは死ぬ。たすけて。血が流れてる。痛いんだ。助けて。
「モノは売れるから価値がある。つまり、売れないものに価値はない。」
金ならいくらでも出す。だから。
「価値のないものに金を出したことが君にあるかね?」
俺には金がある。だからこれで助けてくれ。
「そこは、自分にできることならなんでもできます、だろ。自分を売る術も知らない。だから、君は死ぬんだろう。金だけを手にして、命を失う。自分を代価にすることもできないから、君は死ぬ。」
言われて、光が真っ暗になる。死。真っ暗な死。喜びも後悔もない、闇に落ちていく。俺がおれでなくなる。
そうか、あのおとこは、おれのうりものをぜんぶ、かっていったおとこ。
ああ、死んだ死んだ。人間というのは本当にしぶとい。後頭部を殴られて即死もあるというのに、すこし刺されただけでは死まで長いこと生きる。今回は圧倒的に後者だった。
人間に痛覚がある以上、そう長いこと生きられない。生きていても、痛みで壊れる。時には絶望でショック死する。痛んで痛んで死ぬのはとても辛い。人間の尊厳を守らせて死なせるというのは、人が人に対しての傲慢であるが、哀れみでもある。
だが残念ながら、私はヒトではない。親しい冥府の神は、私を悪魔と呼ぶ。あまり親しくもない、どちらかといえば嫌いな知り合いの賢者も、私を悪魔と呼ぶ。親しくはないが、何かと縁のある神様も、私を悪魔と呼ぶ。血縁上の私の娘を愛人にする義理の息子は、私を道化と呼ぶ。
だからというわけではないが、私は道化だ。自称している。ヒトの欲望の願いを叶えてやり、幸福を手に入れさせる、ごくごく普通の道化を生業にしている。
「それは悪魔の所業ですよ、導師」
と、私の一番頼りにする信奉者が言っているが、私は道化である。
あぁ、ヒトの死は悲しい。それを悲しくさせるのはヒトの人生がそうさせる。人生の過程は涙あり、笑いあり、感動あり、でなくてはいけない。結果が華々しければ羨み、妬み、なんのかんの目指すべき場所になる。逆に寒々しければ、ああはなりたくないと憐れまれる。普通であれば、路傍の石。
ヒトは知らない死んだモノに必要以上思い入れをすることはない。もしあるとしたらそれは思い入れではなく、偏愛だ。そうしなければ生きられない、思いを馳せなければ痛みを隠せない、哀れな憐れなイキモノだ。
そういう意味では、私は哀れで醜く、憎らしいイキモノだなぁ、と思う。
私に死は無い。死ぬほど痛いという痛覚は昔あったが、死ななくなって忘れて。理不尽な死に、認められない死に、成功できない死に、慣れてしまった。
「人の痛みなど知らなくても、導師には痛みを愉しむ心があるでしょう」
流石、信奉者である。とんでもない人でなし発言に私は涙出てきそう。
さて、私は痛みなど当に忘れてしまったが、ヒトが痛んでいく様はとても楽しいと思う。そして人間たちも他人の痛みを心の奥底で楽しんでいる。
どうしようもなく絶望しても、これは自分じゃないから楽しめる。世の中は、そういう風に、自分はそうじゃない、と甘い考えでできている。
それでは、私、エルレーン・シューベルハウトが紹介しよう。
ただ単に彼から屋敷を一つ買い上げただけの縁から始まった、登り切って転げ落ちる涙あり、笑いありの、感動話を語るとしよう。
場所は大陸、スラム街じみた旧市街という街で始まる。
突然。唐突。急にボールが来たので。
風雲急を告げるとも言うか。それはともかく、西京市旧市街のはずれにある娼館に見慣れない西方風の金髪の男が現れた。
「この屋敷を気に入りました。譲ってはもらえませんか?」
その金髪の男は身なりが良く、妬むほどに爽やかで、見目麗しい青年だった。どこかの貴族かと思ったが、ここは大陸の僻地であることを屋敷の主人は思い直した。近年は周辺開発が進んでいるとはいえ、それ以前から居付いている主人たちにとっては新参が周りで勝手にやっていることだ。開拓に乗り出しにきた皇族も、才賀家の生き残りも、主人たちにとやかく言うことはなかった。お互い中立どうしで商売していこうという暗黙の了解の元、主人はそれなりの娼館を経営していた。
旧市街は弱肉強食。とはいえ、特に強いものがおらず、また特に弱いものもいない。弱いものがいれば弱いもの同士で徒党を組み、さらに弱いものをいびり倒すだけのこと。主人の娼館もその一つだけだったということ。
だから、目に見える大金は喉から手が出るほど欲しい。それを元手にすれば、もっとお金が手に入れられると思っていた。無論、娼館にいる女どもを売ればそれなりの金になる。だが、それを買い上げる資本が周囲にいない。もちろん、一人ずつ売る方法もあるが、その小金を奪いに来る危険も高まる。
なるべく現金で、分かりやすく、一括で払われる金が欲しかった。そのために屋敷を売る事も抵抗はない。だが主人は欲を掻いた。屋敷だけ売るなんてもったいない。この娼館にいる女も売りつけてしまえ。相手は男なんだ。少なくとも男色家ではなさそうだ。と、高値で売りつける方法へと頭を回転させた。
「屋敷だけでは困ります。ここ、娼館なので。」
「ふむ、ならば身請けもしましょう。美しく器量のいい者を二人ほど。こちら前金です。暇を出す子とかに必要でしょう?」
やんわりとした主人の断りに、青年貴族は金塊を詰め込んだケースを見せ、渡す。主人はその中身に目がくらみ、青年を二度見した。今まで商売してきた中で初めて見た大金だった。
青年貴族が去った後、主人は娼婦たちを集め、言った。
この屋敷が売れることになった。
お前たちは用済みだ。
心配することはない退職金は出す。
ただし、何人かはそのまま買い手に身柄を渡す。
そう言って、青年貴族に引き渡す美人二人を除いた娼婦たちに、旧市街で数日暮らせる小金を退職金と言って渡した。大陸で、流れ流れてきた女たちは身体を売ることでしか生活できない。それは力や体力のある男よりかはずいぶんマシなことだったが、最低なことには変わりなかった、娼婦に堕ちた女は娼婦でしか生きられない。そしてそれは選ばれた二人にとっても同じだ。
容貌は美しいものの、金払いのいい人間しか相手にしない稼ぎの悪い一人。
容貌は美しいものの、身体はキズものだらけの醜い一人。
それぞれ人気のある女たちであったが、これらを付けて、さらに青年貴族から金をせびろう、と主人は考えていた。
次の日、やってきた青年貴族はあの金塊のケースをさらに二つ持ってきていた。主人ですら両手でずっしりとした重さだったケースを、彼は台車に二つ、乗せて運んできた。
「こちら後金になります。足りるでしょうか。」
青年の爽やかな笑みに、主人は首を横に振った。見たこともない金の量に驚き、さらに金をせびるつもりであった頭は真っ白になり、その額で大陸で生きてきたすべてを売り払った。
*****
「初めまして。私はエルレーン・シューベルハウト。君たちとこの屋敷を買った新しい主人だ。さぁ、私の言うことは何でも聞いてもらおうか。」
私は屋敷に入って、広間にいたくすんだドレス姿の二人に偉そうに言う。裏寂れた娼館に似合わない綺麗な顔の二人だった。一人は茶髪で、一人は黒髪だ。前者は新たな主人に目を輝かせている。もう一人は、視線を合わせずおどおどしている。
命令しちゃうか。安易で下衆で下品で馬鹿みたいな滅茶苦茶な命令をしてぐちゃぐちゃにしてやりたい、というささやかな加虐心を思い出す。しばらくなかった懐かしさもあり、同時に吐き気もする。
『君はそうじゃない』
親友であり、強敵である男の声を思い出し、心と体が冷えてゆく。頭で、これは楽しくないな、と理解する。少し前は恐怖と絶望を与える権化だったのになぁ、と懐かしむ。
「まぁ、それは冗談で。君ら、もう娼婦卒業ね。ちょっと、ウチの嫁さん連れてくるから待ってて。」
私の不敵ないやらしい笑みを一変させると、彼女たちも呆ける。そんな反応をよく観察せず、私は屋敷を出て、新市街の宿で待つ嫁を迎えに行く。
名前はルシカ。赤毛の美少女だ。これがよくできた嫁であり、人間でありながら、人の形をした化け物か悪魔か神様か分からない私を愛してくれる。純粋に、愛情をもって、信頼をもって。
私はかつて妻がいたが、その人を忘れて、新たな人生を歩むくらいに、彼女の尽くす愛に甘えている。だから、彼女とのマイホームのために、あの屋敷を買った。
金は作った。あの主人、アホなのか金塊を手にしたことないのか、金塊の焼き印まで確認しなかった。いやぁ、適度に金に狂う人間は御しやすくて逆に困る。思い通り過ぎて、信じたのかどうか疑ってしまうくらいだ。さらに金を積んでよかった。あれ売り払うつもりなんだろうか。どうやって売り払うんだろう、もう関係ないけど。
まぁ、関係はないが、面白そうだから末路ぐらいは見ておくか。やったことの責任は取れって昔言われたしなぁ。色んな人に言われて、一概にこれという人は思いつかないけど、あえて思い出すなら、やっぱりあの子かなぁ。
そう、その子は天才だ。天才が私が言うから、天才に間違いない。ウチの試験官ベイビーの姉妹を惚れさせた、自慢の義理の息子だ。
あの子とやり合う日はまた来るだろうか。
*****
騙された。いや、無知を嘆くべきだったのだろうが、屋敷を売った主人は金を一箱売り払い、大金を手にして、本土に行った。主人は生粋の大陸人。古くは難民として本土に渡り、再び大陸に戻って商売をしていた。商売は倫理的に非道なものばかり。人間、薬、武器。金になるなら色んなものを自分の倫理観で売ってきた。
金塊もそれと同じだと思って、札束と変えた。だが大陸の常識でそれは良くても、本土の常識で、それは通じなかった。本土の銀行で手形の担保に金塊を出して、審査の結果、通報された。金塊にあるべき焼き印がなく、通し番号が全て同じであったことから偽金塊を疑われたのだ。
税関と警察、二つに疑われ、逃げる間もなく拘束され、収監された。
主人は無実と冤罪を叫び続け、金が限りなく本物であるという鑑定を手に入れ、釈放された。脱税や金の違法密輸等罰金を払わされ、金塊が一箱丸々なくなった。とんだ時間と金の無駄である。この騒動のおかげで、手形を融通する銀行はいなくなり、仕方なく主人は古巣へと戻ってしまった。
大陸難民街。本土の首都よりかなり南方の大陸人が身を寄せ合う雑多な街である。表向きは観光向けに綺麗だが、裏側は寂れて治安の悪い街である。ただ主人が訪れた時は、雑多な町並みは整頓されてしまい、中流住宅街に変わっていた。そこに住む外国人たちは、小汚い格好はしておらず、小綺麗な格好で会社務めをする街に変わっていた。変わってしまった街並みだったが、本質的には変わっておらず、下世話な娯楽は変わっていなかった。地下街は違法物品の楽園だし、それを目当てにやってくる本土民も少なくなかった。
主人としては生きやすいことこの上ない。金塊を元手に物品を買い入れ、値を釣り上げて売り払う。そうして大陸よりも大きな商会を短期間に作り上げる。そうすれば元々いた周囲と問題にならないはずがない。新興に舐められるな、縄張り、勢力、客の取り合い。金で兵隊を集めて戦争かということにもなる。主人は金があったし、それをばら撒いて増やす運があった。戦争くらい、いつもと同じで金で解決しようなどと思っていたところで、待ったが入った。
「血なまぐさいことしないってことになってるでしょ」
大陸街と裏でつながる本土人の極道たちからの仲介人がやってきた。若い男だったが風格があった。なにより力も強かった。大陸の天剣組のような異次元の強さを持つ若い男の仲介の元、恨みっ子なしの賭け麻雀勝負で勢力争いを決めることになった。
主人は自慢の金をばら撒き麻雀の代打ちを雇い、真剣勝負をさせ、ドラマが繰り広げられ、そして負けた。
「はーい、それじゃあ負け分は迷惑料として支払い。そしてそれぞれの勢力圏ってことで手打ちね。」
事は仲介人によって丸く収まった。主人としては大損極まりなかった。元手の金塊をすべて失ってしまった。雇った代打ちを解体して、全て売り出しても埋まらない損失が、主人の墓穴となった。
*****
最後札束を手にして主人が逃げ、それと一緒に命まで奪おうと元部下が追う。所詮、金だけのつながり。金がなければ付き合う理由はない。主人は撃たれた傷が元でついに力尽きて、血を流して、無様に這いまわっていた。
その一連の顛末を、私は見に来た。彼が手にした金は、一般人には大金だが、ヒト一人がこの先生活していくには心もとない札束でしかなかった。それも血に塗れている。主人は気付いていないが、その汚らわしい金で、必死に私に助けを求めてきている。
人間、一度調子に乗ると急に止まれない。いわば現実味がなくなるのだ。
まだイケる、と根拠の無い自信で突っ走る。普通の人間なら帰り道のことも考えるのに、図に乗った奴というのはそこまで考えられない。来た道を変えればいいのだと考える。
それは大きな間違い。ただ前だけを見て進んできた者が、踵を返して戻る時に、必ずと言っていいほど気付くのだ。前にも後ろにももう道がない、と。
「安物買いの銭失い、というのがある」
主人にはいい言葉だろう。こいつは悲しいかな、金という表面しか見えてなかった。金を転がす器量はあったが、見る目が圧倒的になかった。
「一方で、タダより高いものはない、とも言う」
タダ働きは本当に怖い。何しろ完全無償でヒトの末路を見るだけで、主人の失われる命を見に来ているのだから。そんな私が、金如きの対価で動くことはない。
「その金は君への対価だ。その対価を私は頂こうとは思わないな。お金は君が欲しかったものだろう? だから持っていきたまえ。死の直前まで、それは君のものだ。」
主人から、小さくいやだ、という声が聞こえる。あぁこれは長くないなと思う。
「それがあれば幸福なのだろう。だから気にせず持っていきたまえ。」
私は優しく言ってやる。札束とか何も価値はないしね。価値といえば、こいつモノの価値とか本当に理解しているんだろうか。コイツの売ってくれた元娼婦の二人、割とよく働くからいい買い物をしたと思っているのだが。
「モノは売れるから価値がある。つまり、売れないものに価値はない。」
私としては当然の話を語る。資産家の真似事や、学者みたいなこともやった。ヒトの運命を弄ぶことにその者の価値は本当に重要なことだ。たとえ平凡な人間でも、力を与えれば変わる。そこから立ち止まれるヒトは数少ない。本当に、本当に。
「価値のないものに金を出したことが君にあるかね?」
それは運命の分かれ道である質問だ。生命の瀬戸際でも己を主張する最後の気概を持っていれば良し。目に光を失う主人の声にならない口が動いた。
こ、れ、で、た、す、け、て、く、れ。ダメだこりゃ。自己アピールする方法も知らないんだなぁ。そういうわけで、そんな哀れなヒトに私は優しい言葉を掛けます。
「そこは、自分にできることならなんでもできます、だろ。自分を売る術も知らない。だから、君は死ぬんだろう。金だけを手にして、命を失う。自分を代価にすることもできないから、君は死ぬ。」
言い終わらぬうちに、主人は動かなくなった。完全に事切れた。
私は握られた札束を奪い取り、丁寧にちぎって、空に舞いさせる。見事な紙屑だ。それがまさにこの人間の命そのものだったのだから、本望であろう。
「おい、なんちゅうものの捨て方してるんだお前は」
時間は早朝。場所は公園。水飲み場の側で主人は事切れ、私はベンチでくつろいでいた。明らかに異様な光景に物怖じしない青年が声をかけてきた。
主人がこうなる羽目になった、勢力争いの仲介人であり、裏社会に通ずる男にして、私の義理の息子だ。通常時間にして二年ぶりの再会といったところか。
息子は黄土色のコートを着ている。未だ寒い時期だし、当たり前だ。背格好は私と同じくらいだが、その姿は私にとって見慣れぬものだった。
彼の仕事は探偵だ。だが、裏社会にも顔が利き、小競り合いに対して仲介をすることもしばしばらしい。私並の天才なのにつまんないことをしているものだ。
「私にはいらないものだからね。本来ならゴミはゴミ箱にだけど、ヒトが汗水垂らして手に入れた金を、ゴミ箱には捨てられないでしょ。」
私はあっけらかんと言う。私としては真っ当な論理だと思う。ただこの意見に、息子はため息を漏らす。
「命と金は大切なもんだ。人間の痛みをとうに忘れ去ったあんたには分からないだろうけどな。」
完全に諦められた、悲しいことを言う息子。実際そうだなんだけど。
「それで、ソレはあんたの被害者なのか」
「いやまったく。ただカモにはしたから、事の顛末は見届けようと。思いのほか普通だったから運命を変えようとは思わんね。」
「そうかい」
彼はまたため息をついた。その思いを伺い知ることはできない。単純に分からん。思いつくことはできるが、どれが正しいか判別できない。
「君の方は何をしに来たのかね」
「そこの死んだ男の勢力が空中分解したら、それはそれで事なんだよ。火種にもなる。だから確認しに来たんだよ。」
「ほーん。大変だねぇ。」
私は感心する。他人事だが、彼はヒーローの一人で、私に対抗できる唯一の存在だと思う。だから私と違い、少なくとも正義のために動く彼には感心せざるえない。見返りもほとんどないだろうに。
「じゃあ、私は家に帰るから。またね。」
「またねじゃない。さようならだ。」
息子の方は二度と会いたくないらしい。私は強敵とは何度でも戦いたい方だから、また会いたいのだが、そう思うのは仕方ない。
私がとんでもなくクズで悪人であることは理解している。ヒトの人生を面白がることでしか生きていけないことも理解している。それがこの世界では、時として大犯罪と呼ばれるものだということも理解している。
ただ今は、そういうネタは準備中だ。準備さえできれば、息子ともまた遊べるだろう。その時が楽しみで仕方ないから、こちらも準備がんばろう。
私は息子の前から掻き消え、西京市旧市街の屋敷に戻ってきた。この前本土から雇い入れた庭師ががんばって庭を整美しているのが見える。彼の働きぶりは正当に評価してやらねば。
屋敷は買い取った時よりもかなり綺麗になった。娼館でなくなった後、少なくない常連客が五月蠅かったが、庭師に頼んで、大雑把に追い立てた。小さい揉め事だから問題にはなるまい。
住まいはだいたい整った。それでは、新生活を始めて行こう。娼館でなくなったし、何か通り名が必要ではないだろうか。
簡潔に道化屋敷と呼ぶのはどうかな?
*****
飛行機で半日といったところか。金髪の長身の男が、若い男女一組を伴い、到着ロビーを出る。季節は冬が春に変わるところだが、その時の大陸は寒かった。コートを着てきたものの、首から上の防寒対策はしておらず、突き刺す寒気に思わず眉間を寄せてしまう。
「クォーツ」
適当な送迎車を捕まえようとした彼に声を掛けるものがいた。彼より少し背は低いが、同じ金髪の男だ。数年、正確には四年顔を合わせていない、彼が敬意を仰ぎ、信奉する男だ。ラフなスラックスにセーターとコートという軽装な姿だ。
「導師、お久しぶりです」
クォーツ・オーウェンはもはや数えられないほどに永い付き合いになる人物に挨拶する。彼はエルレーン。クォーツは彼を導師と呼ぶ。信じる神のようだが、導師は神と呼ばれるのを好まない。かといって、クォーツにとって彼は師匠などではない。
故に間を取って、導師としている。
昔は四六時中一緒に悪い企みをしていたものだが、導師は数年で変わった。
ずいぶん昔は、ヒトの手による人類の滅亡を針に糸を通す策を巡らせたものだが、そのほとんどは悪を許さないという絶対的な運命によって防がれていた。導師は、その運命に立ち向かい続け、ついに折れてしまったのだが、答えを得て立ち直った。
その答えが如何なるものかはクォーツには知れないが、絶対的な信頼を寄せる上では関係のないことであった。
「大陸の風は冷える。車はある。紹介は車内でするとしよう。」
導師はクォーツの後ろの若い男女の内、銀髪の青年のほうを目配せして言う。導師にとって、茶髪の女性の方は顔見知りだ。とはいえ、女性も四年の間に少女から大人の女に成長しているのだが。
導師の案内で、ロビーから車へ。どこで確保したのか、黒いバンだ。導師は積極的に運転席に乗る、クォーツは助手席。若い二人は後部座席だ。荷物を運びこんで出発する。
整った空港を出るとすぐに、舗装した道路以外真っ新な荒野が現れる。
大陸、西京市。近年開拓が進む、ヤマト領の開拓都市だ。進んでいると言っても、南大陸と違い、五十年以上放置された荒野なので、比較的な話だ。
本来ならば僻地と言ってもいい場所だが、導師はこの地に居を構えた。
極東の雄ヤマトの本土でもなく、北の大帝国ウィーガルでもなく、復興する西方セレスティア連邦でもない。それら三ヶ国の間にある大きな空白地帯が大陸だ。その昔、
あとに残されたのは荒野だ。ヤマトが大陸難民対策のために拡大してこなければ、放置される運命であったろう。それぐらい曰く付きの大地だ。
「私はエルレーン・シューバルハウト。クォーツのように導師と呼んでくれても構わないし、他の呼び方も構わない。好きに呼びたまえ。」
導師は運転しながら、後部座席の青年に声をかける。青年は今年大学を卒業した青年だ。就職や進学を選ばず、クォーツに付いて行くことを選んだ。
彼は自ら紹介したが、ミストラル・グリムという。品行方正な、優秀な青年だ。クォーツともう一人の、レセイル・アノアーが住むアパートに一人暮らしをしていた学生だった。偶然、レセイルと同期で同じ専攻だったので、クォーツと話す機会も多くあった。
彼は一言で言えば性格破綻者であり、クォーツ側の人間だったために、夢だった起業を蹴って、大陸への旅に同行したのだ。
クォーツとしては半端に人間性を残している人間を導師と引き合わせたくなかったのだが、導師は構わないと言った。
昔の導師なら、自分を優秀だと思っている人間を玩具にして壊すようなことが得意だったが、今の導師はそのような態度は見られない。それは寂しくもあった。笑顔を貼り付けた邪悪さが、恐ろしく、そして魅力的だった。
あまりこういうことを言うことはない。長い付き合いで女房役が板についてしまった。導師は、もはやクォーツの思い寄らない新しい道を切り開くために、再婚する選択をしたのだから。
西京市を北から西に遠回りする形で、目的の屋敷にたどり着く。西方の本当の屋敷に比べると小さいほうだが、それでも小さくない屋敷があった。導師が好みそうな目立たない屋敷だが、スラム的な周囲に比べると、整えられた庭が目を見張る。
庭師という、濁った眼をした黒髪の少年が手入れをしているのが見えた。
それを横目に屋敷内に入ると、メイド姿の女性が三人、待ち構えていた。
その中で一番小柄な赤毛の女性が、導師の奥さん、ルシカ・ライディウスだ。クォーツとレセイルが導師に離れている間にこさえた女性だ。年齢はおそらくレセイルよりも下だろう。以前、連絡をもらった時の写真よりも、ずっと美しくなっていた。肌に張りがあり、純粋そうな笑顔を浮かべ、帰ってきた導師の手を自然に取り、自然に夫婦であることを見せる。ただの田舎少女であったろうに、導師の手で完全に作り変えられてしまっていたことを感じる。そこにいるのは本当に、この世界に住むヒトなのだろうか、という疑念すらも湧く。
ともかく、ルシカもメイド姿でクォーツたちを出迎え、それぞれを部屋へと案内した。とりあえずは一人一部屋としたが、後日すぐ変わった。クォーツが大陸での下地作りにレセイルと協力して手広く仕事し始めたので、レセイルが自室に戻らなくなったせいでもある。
話は戻し、荷物を適当に整理して、導師の元へと向かう。二階の一番奥の執務室の戸を叩いて、部屋に入ると、導師はルシカとイチャついていた。
ソファーで、導師に跨るルシカが唇を吸い合うという仲睦まじい様子であった。
「どうも、失礼します」
「また後でね」
クォーツはノックをしたのだから失礼ではないという真顔で言う。導師は、ルシカに軽くキスして、別れを惜しむ。ルシカはさっと導師から降り、クォーツに愛想笑いをして、執務室を出て行った。
「ずいぶんと教え込んだようで」
「そんなことはない。私は普通に溺愛しているよ。今は、彼女がいるからこそ、このドン詰まりの世界でも生きていられる。」
クォーツの下世話な言葉に、導師は気を悪くすることなく、子供っぽく笑う。そういう感情のある笑いは久しぶりだった。距離を離す前はほとんど抜け殻のようなものだったのに、今の導師は、完全に生気を取り戻している。
「彼女は足枷にならないと」
「まさか。彼女はむしろ伴侶として努力している。私は、そんな彼女を愛している。だから、その愛を壊すような輩がいるなら、私はトコトンまで戦うつもりだよ。」
クォーツの確認に対して、導師はにこやかに笑みを浮かべた。その笑みは、決意だ。その言葉は誓いだ。クォーツが聞きたかった言葉だ。
彼は甘い愛に逃げたり溺れたわけではなく、彼自身が嫌う運命と向き合い、強さを手に入れていた。それは元々分かっていたことだが、それでも抗い続けていた。抗い続ければ、人間であった時の届かなかった幸福を手にできると思っていた。結果的にそれは打ち砕かれ続け、この世界に流れ着くに至る。
導師も私も異界のものだが、もはや自分の属する世界はない。我らは神か悪魔か、あるいは化け物。ヒトの欲望に付け入り、滅びを与える者。だが一方で、幸福を与える時もある。それは悪を為すための布石でもあるし、闇を広げるための楔でもある。正道ではない。我らは外道なり。
「では導師、目標設定を」
「そいつは強敵だ。おそらく長いことかかる。最終目的はこの世界の神を殺すことだ。だがそれはとてもとても難しい。何しろ私たちでは刃を突き立てることが不可能だからな。だから、この世界で今後生まれゆく人間に殺してもらおう。」
「承知いたしました。では、ゼロから始めると致しましょう。」
クォーツは仰々しい演技のように左腕を使って礼をする。
我々にとって時間が長かろうが関係ない。我々は不死。動けなくできる輩は多いが、それは死でないかぎり動き続けられる。
クォーツは導師に尽くして楽しむ。導師は外道の中で、快楽を満たす。お互い、楽しみのために信頼し合う奇妙な関係だった。
道化を取り巻く、遠大な謀は今まさに始まるのであった。
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