2018 年 7 月 31 日

 土地にはそれぞれ名前がある。名前がそれぞれ何かを表象している。例えばあの駅の名前に含まれた明るいオレンジ色のような音の響きや、緑茂るイメージを掻き立てる朗らかな街の名前、あるいは雅やかな十二単をざっと広げたような印象を私に刻み込ませてやまない懐かしい都市を。土地の名前はそれだけでいろんな景色を持っているし、電車の停車駅の一覧を眺めているだけでも私たちはある種の旅に出ることができるだろう。当然、土地の名がその土地の本質を示しているということはほとんどないのだけれども。

 名前しか知らない土地、名前さえ知らない土地に、時として私たちは出かけたくなる。見知らぬ街を訪れるのが楽しいのは、おそらく、この生というものが一個の病院であって、そこに入院する私たち病人がベッドを変えたいという欲望を持ち、そうすることで病気が平癒すると思っているから、ということだけではないと思う。ふだん決して利用しない駅で降りて、何もない住宅街を歩く、ということさえおそらくささやかな、しかしながら一つの旅であって、それゆえおそらく、知らない道を歩くことは旅の楽しみに属していることであろう。

 何も知らない地を踏みしめるとき、うすぼんやりとした、不安にも似た気持ちに襲われることがある。そんなとき私は記憶にある詩の断片を呟いてみたりしたくなるし、好きな音楽に全身を投じてみたくもなる。前にも君に書き送ったと思うが、この物憂さはおそらく私たちに甘美な詩情を与えてくれる、もしかしたら唯一のものであるかもしれない。ただ、その憂鬱というのは、揮発性の物質のように、そのままおいておくとあっという間に消失してしまうものなのである。また、それは簡単に物質の中へと溶け込んでしまう。憂鬱をそのままのかたちに保つことは非常に困難で、それと意識しなければ種々の娯楽やアルコールの中へとすっかり溶けて消えてしまう。しかしその甘く苦い、稀有な心的感覚を保つのでなければ誰ひとりとして音楽家ではなかったであろうし、画家ではなかっただろうし、詩人ではなかったであろう。この物憂さを晴らさずに生きる、あるいは晴らさずに生きていくことができる、というのは芸術家の特権であり、また特性なのだろう。

 この物憂さ、憂鬱というのはどこから来るものなのだろうか。本当にぼんやりとした、ゆえなきものなのだろうか。そうではないと思う。芸術を志向するこうした憂鬱の根源は、音楽の、絵画の、詩の本質的な点から生じているに違いない。それは何か。永遠。私たちの精神のリズムが永遠を忘却していることを忘却していることと、永遠を忘却していることを思い出すことの反復の内に存するとすれば、憂鬱はまさに永遠の忘却を思い出すことから生じるのではないだろうか。……

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