2018 年 6 月 30 日

 好きな作品であれ、読んでから時間が経つと、この前書いたように、ある作品から得られた印象はその作品の題から遊離していく。記憶とはそのように曖昧であやふやなものなのである。時とともに過去の多くは失われていく。しかし、忘却が必ずしも避けるべきことであるわけではないだろう。


 私たちは知っていることよりも知らないことに惹かれ、そしておそらく知らないことよりも忘れてしまったことに魅了されるだろう。どうしても思い出せないことがあるとき、私たちはしばしば、それを思い出すことのために多くの時間を費やす。そして何かを忘れている気がするにもかかわらず、一体何を忘れているのかさえ思い出せないとき、私たちは心のどこかに不安や喪失感を抱くだろう。忘れてしまっており、しかも何を忘れているのか分からないようなものがあるとき、それは私たちの記憶のなかであらゆるカテゴリーを喪失し、いわばそれの to ti en einai が剥奪されたありかたをしている。その意味で、負の方向ではあるが、超越的である。それは、私たちの記憶が何らかのきっかけによって復活し、記憶の内に再び受肉するまで、私たちが有する知識すべての否定としか語られ得ない。というのも、忘れてしまっているものは、一切の忘れてはいないものではないからである。しかしながらこうした、極めて超越的な対象を、私たちは顕示的なしかたで持っていたのであり、そして忘れてしまってはいるものの、今でも私たちには捉えられないしかたで持っているのである。かほどまでに超越的なものを私たちが持っているとはいかに至福的なことであろうか、忘却を持っているということはなんと楽しいことだろうか。私たちはそれを思い出すまではこうした忘却を楽しむことができるのだ。それが、思い出してしまえば、おそらく今日の夕飯の献立であり、明日の友人との約束であり、明後日の本の発売日であり、というようなものでしかないのだろうけれども。

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