群青色の記憶①

 夏の夜は明るいからと、油断しているうちに、陽が落ちきってしまった。

 見上げる空は群青色。薄暗い小道を駆ければ、セーラー服の袖から出た腕に、夜風がひんやりと当たった。

 部活に打ち込むのもほどほどにしなければと、えんじの包みを握り直しながら反省する。


「……ここ」


 近道をしたから? それにしたって、どうして足を止めたんだろう。

 ご無沙汰だったとはいえ、通学路の脇に現れたのは、幼いころから慣れ親しんだごく普通の公園なのに……


「そこの君、何をしているんだ?」


 振り向いた先にいたのは、巡回中の警察なんかじゃない、ごく普通の若い男性。

 頼りない街灯の中で目を凝らし、そう気づく。


「こんな夜遅くにひとり? 危ないなぁ。俺が家まで送って行ってあげようか?」


 いかにも親切を装っているけれど、向けられた表情は気味の悪い笑みで、嫌悪を抱くには充分なもの。

 竹刀入れを握り締め、1歩、後ずさった。


「どうしたんだい? こっちにおいで」


 差し出される手。2歩、後ずさった。

 脳内で警鐘がかき鳴らされる。今すぐ逃げろと。

 それなのに、足は地面に貼りついたまま。


「何が怖いんだ? こっちにって言っているだろう、 ほら!」


 声音がにわかに苛立ちを覚える。

 暗がりの中伸びてくる、男の腕。


「いや……っ!」


 腕をつかまれ、目をきつくつむった瞬間、


 ――パシンッ!


 乾いた衝突音と、男のうめき声。


「いってぇ……」


 恐る恐るまぶたを開く。

 顔をしかめ、手の甲を押さた男は、目前の人物を睨みつけている。

 目を見張った。

 向けられた背中と、握られた竹刀。

 突如として現れた少年が、私と男の間に立ちはだかっていたのだ。

 少年の周囲はまるで次元が違っていて、ともすればピリピリと痛みを感じるほど、空気が張り詰めている。


「誰がどんな趣味思考を持っていようが、俺には一切関係ないが」


 少年が淡々と声を発する。

 後ろへ押しやる仕草が、私を庇ってくれているようだった。


「調子に乗るなよ。妄想はテメェの脳内満足だけにしとけ。――失せろ」


 少年は絶対零度の声音で男を貫き、喉元に竹刀を突きつける。


「……な、何なんだ、それは……!」


 完全に動きを封じられた男の視線が、少年に釘付けだった。そのおびえようが、尋常じゃない。


「あり得ない……そんなこと……ば、化け物!」


 少年は背を向けているから、私には何のことだかわからない。


「化け物っ!!」


 ただそう言い放ったのを最後に、男が一目散に逃げ出したことはわかった。

 暗がりでは、その姿が見えなくなるのも時間の問題。

 やがて傍で漏れたため息が、私を我に返らせる。

 少年が脇をすり抜けた、と思ったら、すれ違いざまに手首をつかまれた。

 仰天する私をよそに、彼は歩み出す。


「あっ……あの!」


 初対面の、しかも男性に手を引かれていると思うだけで、脳内はパニックを起こしそうになる。

 変質者から助けてくれたし、悪い人ではないと思うんだけど、それを差し引いても不安が胸に居座った。

 何も言わないから、何を考えているのかわからない。それが、怖い。


(……私はこれからどうなるんだろう。もしかしたら……)


 不安と恐怖が、交互に降り積もる。

 頭の中がパンクする寸前、少年が急に立ち止まる。

 慌てて急ブレーキをかけると、つかんでいた手が離れた。


「あまり夜遅くに出歩くな」

「え? ……あ」


 道はちょうど、住宅街に差しかかったところ。

 民家から漏れる明かりが、私をひどく安心させる。


「あの……ここまで来たら家近いですから、もう平気です」


 ようやく警戒をといて恩人の顔を仰ごうとした。

 が、その前に背を向けられてしまったものだから、慌てて声を張り上げる。


「助けていただいてありがとうございました! お名前だけでも、教えていただけませんか!」


 足が止まる。でも少年は振り返らない。

 沈黙の中、胸の高鳴る音だけが聞こえている。

 やがて、少年はおもむろに振り返る。


「ミブロ」


 小さく、だがはっきりとそう言った。

 ――顔を見たはずなのに、覚えているのは漆黒の夜空と、そこに浮かぶ琥珀の満月だけ。

 黄金の光がとても近くにあるような気がしたのは、私が、幸せな夢を見ていたかったからなのかもしれない。

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