紅蓮のハザード③

 何も見えない中に、私は座り込んでいる。

 誰も来ない。何もできない。

 いつまで経っても、抜け出せない。


 どのくらい時が過ぎたのだろうか。

 辺りは真っ暗。やはり、何も見えやしない。


 私は、どうしたらいいの?

 誰も、助けてはくれないの?


 ……嫌。


 嫌だよ。苦しい、悲しい、辛い。

 独りは、寂しい。


 ねぇ……誰か。

 助けて。お願いだから助けてよ……



 フッと、何かが射し込んだ。

 見上げると目がくらんでしまうほどのそれは、〝光〟だった。

 ああ、これはあのときと同じ。

 ねぇ、また来てくれたの? こんな私のために。

 ミブロ。私の、お月さま…………




  ☆ ★ ☆ ★




 まぶたを持ち上げると、幾つかの蛍光灯と白い天井が目に入った。

 ぼんやりする視界をこじ開け、視線をずらす。

 目にした世界はすべて横たわって見えた。

 私は、ベッドに寝かされていたのだ。


「……くればやしさん」


 誰かが私を呼んでいる。……誰だろう。


「紅林さん!」


 必死に呼びかけてくれる声で、やっと目の前の人物を認識する。


「……わかば、くん……?」


 ちいさく問いかけると、わかくんの顔がくしゃっと歪んだ。


「やっと目が覚めた。……よかった」

「ここは……」

「保健室だよ。先生は今ちょっと留守だけど……様子がおかしいと思って追いかけたら、気を失っていたんだ」


 事情を聞きながら上体を起こす。

 まだ残る腹部の痛みが、記憶を思い起こさせた。


「若葉くんが連れて来てくれたんだ。ごめんね……」

「それよりも、何があったのか教えて」

「え……」

「どう見ても普通じゃなかった」

「そ、それは」

「僕に言いにくいこと?」


 若葉くんは淡々としていて、私の知っている彼ではないようだった。

 まさか、とは思ったけど。


「……怒って、る?」


 何も言わない。それが答えだった。

 やがて、笑みなんて一切ない真剣な表情が姿を現す。


「……紅林さんの秘密を守るって、確かに言ったよ。でも僕は、後は関係ないからって知らんぷりするような、薄情な奴になった覚えはない。――気づくから」


 どうして言ってくれなかったのかと、言外に訊ねられた。

 ……心配を、させた。

 怒られても仕方ないはずなのに、若葉くんのほうが悲しい顔をしてる。


「みんなに避けられていることはすぐにわかった。その理由が紅林さんだってことも。それでも僕は、紅林さんと一緒にいたかったんだよ」


 若葉くんの言葉は嬉しい。泣きたくなっちゃうくらい。でも。


「ダメだよ。それじゃ若葉くんに友達ができないもん……」

「誰かを無視して仲良くなったのが友達なの? 僕はそうは思えない。そんなもののために君が傷つくなんて、お門違いだよ」


 その言葉は静かに、鋭く私を追い詰める。深く、心をえぐる。

 彼は、できもしないことを私に求める。


「……どうしろって言うの?」


 声はかすれて、今にも消え入りそう。


「……私は弱い人間だよ。現実から逃げて逃げて、それでも足りなくてウソまでついてる。みんなに話しかけるのも、ぶっきらぼうな振る舞いでしか話せない。みんなが思っている紅林でしか、みんなの前に立つことができない。だって私は……っ」


 一言「私は不良じゃない」と訴えれば、信じてくれた人もいたかもしれないね。

 ……でもね、違うの。


「私は、嫌われてたんだよ! 人間としての関わり合いなんて、最初から必要とされてなかった! 怖がられてるわけじゃないのに、本当の私を見せたらどうなるの? 弱い私を見せたらきっとみんなは安心する。『何だ、こいつはただの臆病者だ』って。そうなったら、私の居場所がなくなる! 私は、それが怖かったんだよ!」


 だから、嘘をついた。

 強さという幻覚の影に隠れて、生きてきた。

 たとえ恐れられていたとしても、『私』の存在がちゃんとあった。

 でも、所詮は幻覚だった。

 弱い私は、ちっとも変わらない。


「若葉くんに会って、正直言って救われたよ。言葉のひとつひとつが、優しくて、温かくて」


 虚ろな心に、じんわりと沁み込んできた。

 それは、長い間願ってやまなかったもの。


「仲良くしてくれて嬉しかった。たくさん話してくれて、嬉しかった。……一緒にいて、楽しかった」


 若葉くんといることが『楽』じゃなく『楽しかった』――それだけで、大きな意味を持つ。

 だから私は、持てる力のすべてを込めて笑う。


「感謝してもしきれないくらい。本当にありがとう」


 ……私のために誰かが傷つくのは嫌。

 それが、私の心配をしてくれる人なら、尚更。


「私、もう大丈夫だから……」


 悲しくなんかない。

 寂しくなんか、ない。

 私の心は、晴れ晴れとしていて……


「だったら、どうして俯いてるの?」


 静かな声が保健室に響いた。

 若葉くんがどんな表情をしているのか、私にはわからない。

 彼の言う通り、俯いているから。


「本当に大丈夫なら、僕の顔を見て。ちゃんと前を向いて」


 追い打ちをかけるように言葉が降ってくる。

 頭上に鉛を置かれたみたいで、顔を上げられなかった。


「そう」


 たった一言だけ、つぶやかれた言葉……


「ご、ごめ……」


 慌てて謝ろうとした、そのときだ。

 私の目の前に、すっと何かが伸びてきて、私の両頬を包み込んだ。

 あまりに突然のことで理解が追いつかない。

 ……若葉くんの手が、私の頬に、触れている?


「だったら、僕が受け止める。『本当』の紅林さんを。もう辛い思いをしないで、顔が上げられるように」


 至近距離に若葉くんの顔が近づく。

 頭が真っ白になった。

 でも、顔を固定されていて目が逸らせない。


「紅林さんが本当は芯の強い人だってこと、僕は知ってる。じゃなきゃ、辛いときに他人のことなんて考えられないよ。みんなは周りが見えなくなりすぎてるんだ。紅林さんの魅力に気づいてくれる人はきっといる。今は僕しかいないけど……僕にだって、できることはあるはず」


 ――だから、何でも話してね?

 若葉くんの、そんな声が聞こえたような気がした。


「今まで頑張ったね。でも、そろそろ休んでもいいんじゃない?」


 ……やめてよ。

 そんなこと言われたら、隠しきれなくなっちゃう。


「……っ!」


 目頭が発火した。

 これ以上にないくらい熱い。

 流れ出てくるものを、止めることができない。

 それなのに若葉くんが微笑んだのがわかったのは、長い指先が優しく涙を拭ってくれたから。

 その優しさが、余計に私を泣かせる。

 もう声を押し殺すことができなくなった。


「うっ……ひく……っ!」


 ふたりしかいない保健室に、嗚咽だけが響く。

 強くあるために泣かなかった。

 それなのに、若葉くんの前では泣けてきてしまう。

 強がりで、弱い私を泣かせてくれる――受け止めてくれる。

 彼のような人を、ずっと求めていたのかもしれない。

 若葉くんの指はぐっしょりだった。

 それでも彼は、拭うのを止めない。

 私の涙が枯れてしまうまで、その指が離れることは、なかった。

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