紅蓮のハザード②

「だって、嫌だったんだもん。くればやしさんと日直なんて」


 聞き間違いであれば、どんなによかっただろう。

 しかしその声は、はっきりと耳に残る。


「まぁ紅林さんは怖いもんね。できるだけ近づきたくないし」

「そうそう、昨日授業に遅れてきたでしょ。あれって、じょうさきとかいう不良とツルんでたからって話だよ」

「ヤダ、こわーい。それじゃあ亜貴あきがやりたくなくなるのも当然だよね」


 ……ズキン


 どうしたの、私。

 いつも言われてきたのに、どうしてこんなに、胸が痛いの……?


「何言ってんのみんな。あんなの、怖いなんて思うわけないじゃない。それよりも気に食わないのよ。さやかなんて、編入生をちょっとからかっただけで、ガン飛ばされたって言ってたよ。私、そういう暑苦しい正義感って嫌い。不良なら不良らしく、悪さでもしてろっての」


 遠藤えんどうさんには、いつも見る人当たりのいい笑顔なんて全然なかった。

 何のためらいもなく言葉を放って、そして笑う。


「だから編入生と名前を書き換えたの。これくらいは許されると思わない? こっちは紅林さんと違って、か弱い女子なんだもの、正当防衛よ。怪物には、貧相な獲物がお似合いだわ」


 ……ちょっと、待ってよ。


「それはどういうことだ!!」


 気づいたら、足を踏み出していた。

 遠藤さんたちが振り返る。

 私は、持ちうる限りの理性を保つのに必死だった。

 ……私のことをけなすなら、好きなだけやればいい。

 でも、ほかの人のことを悪く言うのは許せない!


「……みんな、もう行こ」


 そそくさと、遠藤さんがきびすを返す。


「おい、ちょっと待てっ!」


 腕を掴んで引き留めようとすれば、


「いやっ! 離してよ!」


 ――パァアンッ!


 乾いた音が鳴り響く。

 あぜんとして、熱を持つ手の甲を見つめる。

 遠藤さんも驚愕に固まっていた。

 自分でも信じられないのだろう。紅林の手を叩き払ったなど。

 女子たちが一目散に走り去る。

 ものの10秒も経たないうちに、全員の姿が見えなくなった。

 あとには、私が取り残されただけ。


「……痛い」


 つぶやいた声は、掠れていた。

 手の甲がジンジンと痛みを訴える。

 でもそれ以上に痛いのは、胸だった。


 怖がられていただけだと思っていた。

 私から歩み寄り、誤解を解けば、いつの日か打ち解けられる日が来ると信じていた。

 けれど、何を己惚れていたんだろう?

 私は怖がられてたんじゃない。……嫌われてたんだ。

 だからみんなは私に近づかない。私に近づくものにも、近づきたがらない。


「紅林さん、こんなところにいたんだ。もう終わったよ?」


 背後から届いた、聞くほどに嬉しくなるはずの優しい声。

 なのに今は聞けば聞くほど、悲しくなるだけ。


「ごめんわかくん。先に教室帰ってて」


 か細くなった声を張り、平静を装う。


「……何かあったの?」


 いけない、ダメよ、答えちゃ。

 心配そうに訊ねる声へ耳を傾けてしまえば、つい弱気になってしまう。

 答えてしまえば、また若葉くんに甘えてしまう。


「……ごめんっ!」


 顔を上げずに、走り出した。


「紅林さん!?」


 後ろから、若葉くんの呼び声が聞こえる。


 耳をふさぐ。

 聞こえない。聞こえない。

 聞こえちゃいけない。聞いちゃいけない。


 前を見ずに走り続けた。

 手が痛い。胸が痛い。


 涙が出てくる。

 視界がどんどんぐちゃぐちゃになる。

 私の心もぐちゃぐちゃ。

 もう、何が何だかわからない。

 走っているうちに強烈な眩暈に襲われ、腹部へ刺すような痛みも感じた。


(……また、来た)


 足の力が抜け、よろよろと無機質な壁にもたれかかる。

 何かを言われると、よく腹部に痛みを感じた。

 高校に入ってからが特に酷かったけれど、今朝はおさまっていた。

 辛いことを忘れてたんだ。それはきっと、若葉くんのおかげ。

 彼が話しかけて来てくれるだけでも、私にとっては大きな救いだった。


(でもそれも……もうダメ)


 痛いところを押さえる。

 痛みは増す一方で、引く気配はない。

 今までにないくらいの激痛だった。必死に耐えても一向によくならない。

 視界が明滅する。

 あまりの痛さに悲鳴が出そうになったとき、糸がプツリと途切れたように、私の意識は闇に堕ちていった……

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