第5話

「目を閉じると、世界が海に沈む」


 医務室とは名ばかりの、用途不明な薬品の、怪しげな異臭が染み付いた実験室に彼はいた。


「もちろんそれが幻視だってことはわかってる。けど、俺の意識は水没した世界の中にあって、そこに異神の存在を感じる。あるいは現実世界では見えないものが、見えるようになる」


 彼の腰掛けるベッドは長年用いられていた様子で、患者、あるいは被験者の尻で押しつぶされて、すっかり硬くなっていた。


 少年、海城澪が珍しく素直に受け応えしていたのは、この劣悪な環境から一刻も早く逃れたい一心からだった。


「空間転移はどうやっている?」

「クウカン?」

「厳重な檻を幾度となく脱出し、消えたかと思えばまったく別の場所から現れたと聞いている。どういう術なのだ」


 目の前の老人は高い鼻をひくつかせて顔を近づけてくる。

 これもまた澪にとっては耐え難いもので、思わず首を左へとずらした。


「感覚的には、さっき言ったことの延長だ……です。より深く、意識を潜らせる。そうしたら、身体もその幻の海に引きずり込まれる」


 澪としては答えをぼかしているつもりはない。そもそも原理が説明できないから、抽象的な表現をするしかない。これでも、例えは自分の感性に沿うように慎重に選んでいるつもりだ。


「幻などではない」


 老人は、妄言と嗤わなかった。

 襟を立てた黒い外套を翻し、赤い裏地を閃かせ、その長身を一回転させて杖を突きつけてきた。


「そもこの『旧文明再現次元』には、物理世界とはまた別の位相に領域が存在しておる。そこを『深層世界』と吾輩は呼ぶことにした」

「深層?」

「貴様らが異神と総称しておる外宇宙生物の一部にとっても居心地の良い場所よ。それを回廊がわりに、奴らは現実を侵食する」


 老人の語る言葉には、時折不穏で不可解な単語の雑音が混じる。だが、頭で理解できずとも、府に落ちるものがあって、しがわれた語られる彼なりの道理には重みがあった。


「そもそも、貴様らは異神について勘違いしておる。アレらは、それぞれが別の系統、並行世界や異なる惑星から流れ着いたまったく別の生物だ。決して人の望みをかなえる神などではない。奴らが豊穣や異能を与えるのは、あくまで自分好みの生息環境ねどこを整えるための副産物に過ぎぬ。だが、新政府の連中のように完全な幻想とすることも誤っておる。畏敬に値する強力な生物だ。アレら同士や既存の動植物を掛け合わせれば非常に強力な怪人が生まれようものを……いや同じ文明進化の速度であるからして、あの『外宇宙適応型バイオノイド』と合成させても良いかもしれん。あの外殻は捨てがたい。どうせ持て余して管理を放棄した実験場じゃて、吾輩が収穫しても良かろ……ぐおっ!?」

「相ッ変わらず妄言垂れ流してンなぁ、爺ちゃん」


 熱弁を発する老人の、やや髪量にとぼしい側頭部で、ぺシーンと快音が鳴った。

 見れば、先程飛びかかってきた少年が、団子の串をくわえつつ立っていた。


「よう、さっきは悪かったな。これ、詫びな」


 精悍な顔立ちながら、表情が眉ひとつ動かないものだから、かえって茫洋な印象が少年の総体を包んでいる。

 その彼が、もう片方の手に持っていた団子の竹包みを無造作に少年の膝に置いた。

 わざわざ買いに行ったのか、わずかながら温かみが残っている。

 だが、表情には言葉ほどの謝意はない。


「この爺ちゃんの言うこと、基本的に訳わかんねぇから適当に流しとけば良いぞ」

「抜かせ! 貴様ら未開人類ごときが『星辰十字団』首領たるこの樹殺院じゅさついん星蔵せいぞうの頭脳を理解できるはずがなかろう!」

「じゃ、そのすんごい頭脳でなんかすんごい武器作ってくれよ」

「作ろうとしたら溶鉱炉も資金も新政府のバカ者どもが取り上げおったのよ! せっかく協力してやったというに恩を仇で返しおって! あれさえあれば作業用ボットを開発し、万軍に匹敵する怪人軍団を生み出し恐怖とともに地球に凱旋することもできようものを! よりにもよって奴ら反射炉だのミニエー銃の出来損ないのような劣悪な火器の量産に使いおって! まぁ土着の猿どもには似合いの品だろうがな! 『ターミナル』でさえ勿体ない!」

「……な。いつもこんな塩梅なんだよ、この爺ちゃん。益体も無い妄想に興味を持つだけ無駄だぜ」


 冷たく応対する少年に、興奮する老人。

 両者のやりとりは慣れた調子で、しかも遠慮というものがない。

 かと言ってこのまま看過すれば、とんでもない脇道に話題がそれていきそうだった。そこで澪は「あの」と自分から半身を押し出し、尋ねた。


「じゃあ、あの海の世界はいったいなんなんです」


 老人は、鷲のような眼光を向けた。大振りの口を、拡げ笑った。


「さすが深奥の一端に触れた者。他の者と違い心得ておるのう」

「おいやめとけよ。話長いんだから」


 制止をかけようとする少年を突き飛ばし、音もなく老人は澪の目を覗き込んだ。

 深く青く沈んだその目に、やや手入れを怠った爪が突きつけられた。


「まず断っておくが、深層世界に定形などない。強いて言うなれば、世界の裏に敷かれた膜のようなものよ。だが深さにも広さにも限りがない。貴様の目が、そのレイヤーに海を見出しているだけのこと。視るというのはそういう行為よ。みずからを取り巻く情報の奔流を、脳の処理が追いつく次元まで落とし込むのだ。元来目というのは感覚を広げるのではなく、制限する器官なのだ」

「ほら始まった始まった」


 薄笑いで茶化す少年を、澪も星蔵なる老人も無視した。


「だが、この現実と深層世界が密接に連結しているのも事実でな」

「?」

「たとえばAという事物が現実に在ったとすれば、それとリンクする座標が深層世界には存在しておる。そのどちらかに行動や反応があったとすれば、必ずもう一方にも影響が出る。そこがパラレルワールドと違う点よ」

「??」

「理解追いついてねーぞ爺ちゃん」


 自分にも関わりがあるからこそ、その話を理解しようと努力してきた澪だったが、ついに積み重なる不可解な語の数々が、ついに脳の許容を超えていた。


 差し込む頭痛を察したかのように、横合いから少年は澪の頭をぐりぐりと揉んだ。あまりに唐突な無遠慮さに、澪はされるがままになっていた。


「まったく!」と老人は呆れたように長鼻を鳴らした。

「やっぱりちゃんと聞いてもらいたいんじゃねぇの」と、少年はさらにそれを煽った。


「おい小僧、そこの紙を持て」

「は?」

「良いから、持たんか」


 たく、と毒づきながら、少年の指が澪の髪の間をすり抜け、棚の平積みの上から一枚、薄紙を引き抜いて持った。


 そこに老人は、碁石のごときものを貼り付けた。紙の表裏に一対ずつ。どうやらそれは

磁石であったらしく、互いに互いを引き合い、こぼれ落ちることがなかった。


 老人は、自分の側に向けられた側の磁石をわずかにずらした。それに従い、逆の面の磁石が引きずられて移動する。


「つまりは、こういうことよ」

「……や、これ例えになってるか?」

「やはり猿に方程式を見せたところで、因数分解を解けというほうが無理な話か」


 意味は分からずとも、揶揄しているのはその表情から伝わってくる。


「だが貴様にもあながち無関係な話ではないぞ」

「と言うと」

「理解はできずとも、この世界に土着する生命は本能的に己らの世界の構造を感じ取っておる。そこに流れ着いた異物の存在もな。貴様とて例外ではない。ゆえに、異神の出現を嗅ぎとることができるのだ」


 老人の手がふたたび伸びてくる。

 少年から紙を奪い取ると、それを裏返した。


「より感性が研ぎ澄まされた者は、その裏側を知覚することができる。それがいわゆる予知や神託というものである」


 ふたたびひっくり返した紙の向こう側の磁石を動かしてみせる。


「あるいは、明確に把握できずとも、裏の磁石を動かす手を持つ者もおる」

「俺にもそれできる? すっごい便利そう」

「まぁ貴様のような凡人であっても、必死で念じればできるかもな」

「本当かよ、今度試してみるか」


 本気か冗談かわからない調子で意気込む少年をよそに、あらためて星蔵は澪に向けて目をすがめて見せた。


「だがその両方を会得した者は、あまつさえ精神のみならず肉体ごと深層世界に侵入できる者は、ヒトの内では稀だろうがな」


 老人の溶けた蝋燭のような指が少年の下腹部に触れる。日常的に触れていたであろう薬液でただれたそれは、薄い布越しに、鞣すがごとく少年の素肌をなぶった。


「察するに、本来人間の母胎に注ぎ込まれるはずだった異神の種子は、貴様を孕ませることができずに溶解した。だがその遺伝子情報を取り込んだことによって貴様自身が書き換えられ、深層世界の感性を身につけたのであろうさ」


 変わらず己のみの理と智でもって構築された彼の弁は、内容の半分も理解できない。だが、こう言われていることはわかる。


「僕は、人間じゃない……?」


 と。

 とうに自分が人間ではないことぐらい、自覚はしていた。

 だがそれでもどこかで諦めきれない部分が燻っていた。あえて口にしたのは、その念を否定してもらいたかったからかもしれない。


「なにを嫌がる? 何を嘆く?」


 だが老人は無情だった。無情なまでに、無自覚に、少年の一心を否定した。

 そんなことを憂うる時点はとうに過ぎ去ったのだと、冷徹に突きつけてきた。


「貴様はいわば半神となったのだ。……素晴らしいではないか! 常人では到達しえぬ境地。自然の摂理を超越した、本来ありえぬ異種の合成。既存の概念の否定、新たなる真理への挑戦、神への恐れなき冒瀆。そのロマンと背徳こそが、吾輩の理想とする生命のかたちであるのだ! フゥーハハハハハ! ……おい、小僧何をしておる?」

「あ? 俺?」

「回さんか」

「あぁ、はいはい」


 慣れた調子で少年は、老人の大きくさらしたわ脇腹に手を差し込み、その痩躯を回転させた。

「ふーはははは!」

 あやされる赤子のごとく、ご機嫌で老師は回されていた。


 澪は座ったまま、ぎゅっと拳を握り固めていた。

「いやだ」

 と口の中で呟く。


 本当は、声を大にし、荒げ怒情を爆発させたかった。だが膝に置かれた団子の包みが石抱きのように、彼の膝を押さえつけ、感情さえも抑え込んでいた。

 いや、あるいはそれで良かったのかもしれない。もし、衝動に従っていれば、そのまま現世に繫ぎ止めるモノはなく、深層世界とやらに引きずり込まれていたかもしれない。


 これは、重石であると同時に自分をこの世界に縫い止める楔のようでもあった。


「で、小僧。貴様何しにきた」

「おっ、そうだった」


 今更ながらに星蔵は問い、そこで少年もあらためて自身の役割を思い出したかのようにはたと手を打ち、澪を見返した。


「行くぜ。来て早々にだが初仕事だ」

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