第3話
その南に、彼らの屯所は建てられていた。
元は番所であったのを拡張させたそこに植えられた桜の大樹は、昔のありようを偲ばせる名物となっていた。
その中で、今日も
薄紅色の花弁の中に埋もれて腕枕。飛義の酒蒸し餅を頬張り、舌鼓。
道行く胞輩たちに鍛錬に誘われたり、あるいは調練を強いられようと、どこ吹く風と手を振っていなす。
慣れた者の大抵は諦めて去っていく。
中にはその放蕩ぶりを咎めて食ってかかる者もいるが、彼に剣を取らせれば、必ずと言っていいほど打ち据えられるのだから、それほど強く言える人間はいない。
その多くは謹厳実直、みずからの使命を生命以上に見積もる熱心な少年たちだ。
だがそういう手合いは反面、遊び心に乏しく、金も貯蓄する。
逆に、霧生は吝嗇家ではなかった。しかも他人に惜しみなく奢るがゆえに、一部からの人気が根強い。
それに対する嫉妬も相まって、件の熱心な殉職者たちはなおさら憎悪を募らすという図式だ。
そんな好悪の感情の波にさらされながらも、台風の目のごとく、彼自身の近辺は平穏そのものだった。
都合三個目の餅に伸びようとした手が、ふと止まった。
風向きが変わった。本能的にその変質を察した彼の身体は、意図しないままに枕元の剣を握っていた。
次の瞬間には、枝を蹴り花弁を突っ切り、彼は剣を抜いて地へと向けて振りかぶっていた。
だが、足下にいたのは彼が想像していたような、巨大な影でも異形でもない。
小柄で華奢な、人影だった。
「あ、まず」
思わず口にして止まろうとするが、もう遅い。
振り下ろした刃が、その影の細首に食らいつく。
はず、だった。
刹那、霧生の肉体も剣も、地面に伏していた。どういう経緯でそうなったのか、見当もつかない。
ただ一瞬、何かが己を通過した。
否、己こそが、何かを通過した。
例えるならば、思わず海へと足を滑らせ、訳もわからずもがいているうちに、飛び込んだのとはまったく別の場所に顔を出せたかのような。
底冷えするようなおぞましい感触が、全身を包んでいた。
上体を持ち上げ、顔を向ける。
眼前に、例の華奢な影が伸びていた。
類稀なる美少女……否、そう見まごう類稀なる、細身の美少年だった。
その手足の筋肉や表情に、女性らしい無駄というものを感じさせない。
心身を蕩かすような甘さはなく、むしろその美しさは古刀と同様、腸腑を引き締める種のものだ。
それだけでも目を惹く存在なのだが、特筆すべきはその顔だちだろう。
やや枯れたような切れ長の瞳に、冷たい理知がきらめき、深い青色が沈んでいる。
髪色も、まるで海の底へと漬け込ませたかのように、黒髪の表面に濃紺が乗っていた。
本来は、もっと長い髪を持っていたか。それを乱雑に切った跡が生々しい。それがかえって、妙な色気のある首筋をつくっている。
その彼は、手首を縛られていた。
「……」
さぁっ……と、霧生が散らした桜が、一手遅れて風で運ばれてくる。
ふたりの間を、舞い落ちた。
「――あー」
詫びればいいのか、見惚れていればいいのか。
判断できかねている彼の頭頂に背後から、
「ごらッ」
と、拳骨が打ち込まれた。霧生は、見もせずそれをかわした。
樹上で、支えを失った餅が均衡をうしなって、残る二、三個が落下してきた。
跳ね起きた霧生は、それを余さず難なく、空中でつかみとった。
「……見ていないで早く房に入れ」
曲芸じみた行動に呆れ気味に横見しつつ、背後から、長身長髪の女が近付いてきた。彼女、副長、
一方で霧生は、首をひねっていた。背後からの拳骨をかわした感覚といい、餅をつかみ取った挙動といい、肉体の機能に、変調をきたしていたわけではなさそうだが。
「っかしいなあ」
にも関わらず、自分は少年を別の
自分の太刀筋は、少年の首を刎ねること、あたわなかった。
その疑問をくみ取ったのか。大仰に駿は溜息をこぼした。
すっかり硬くなった餅を彼の手から奪い去ると、言った。
「説明してやるからついてこい。これから起用していくことになる……あの『兵器』についてな」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます