第2話

 ――あれから、二年が経った。


 泡音が聞こえる。


 目を開ける。それでも意識は深く潜っていく。


 目の前に広がる商都栄州の綾辻街道は、海に沈んでいた。

 黒く、青く、冷たい流水で世界は満たされれ、店舗に流れが衝突するたびに泡が立つ。


 浸水、というものではない。

 まるで最初からそこが海底であるかのように、水の満ちない場所はない。

 無数の珊瑚が枝葉を伸ばし、原初のかたちとも言うべき異形の魚類が大小、多くの手足やヒレ、目を蠢かせて回遊している。


 その海の中で、少年はただ独り、たたずむ。息苦しさはない。むしろ、その水は肌になじみ、悦と安堵に満たされたおのれの肉体が

「ここがお前のいるべき場所だ」

 と魂を蕩かすように、甘く囁く。視認できない何かに、背中から抱かれ、耳元で息を吹きかけられた気がした。


 それを拒むように、少年は意識を引き上げた。

 魚が消え、海が薄れ、徐々に人の影が現れ始める。そして現実の街道へと浮上する。


 途端に息苦しさが、少年を襲った。


 眼前には人でごった返す昼間の商店街。

 そして手前には、自らを閉ざす檻の格子。珍獣を見るがごとき好奇の視線が、彼の神経を苛む。


「居たのか」


 冷たく、平坦な声が傍で問う。


「見えたのか」


 少し意味合いを変えて、軍服姿の男が繰り返し問う。

 感情から遠ざけたようなその声に、苛立ちと焦燥が混じり始めていた。


「手前の曲がり角、帽子の男」


 通り魔の刃物のように、少年は通りに指を突きつけた。


 それに従い、軍人の背後から、彼とは比べればやや質素な装いの軍服組が徒党を組んで広がり、人の垣根を超えて向かっていく。

 おそらく彼らは事情を聞くべくその帽子の男を取り囲んで詰問するだろう。


(けど、それじゃ遅い)


 アレらは、すでに人ではない。故人の外皮、あるいはその人格や記憶まで隠れ蓑にした、別の何かに成ってしまっている。

 となれば、問答などせず殺すしかない。


 もっとも、その真偽を確かめられるのが少年のみで、その彼を利用こそする信頼はしていていないから、そうするよりほかないのだろうが。


 彼らが死角に消えてしばらくして、そこから聞こえた野太い断末魔が、街の賑やかさを切り裂いた。


 入っていった兵たちに代わり、長大な影が浮上する。狼か犬の類の頭部を頂点に持っている。ただ獣の爪にも似た枝葉を伸ばしていく。その先端には、返り討ちにあったと思しき兵隊たちが貫かれていた。

 その血肉を肥料に、獣樹はさらに天を、陽の光を目指す。

 だが、それはあまりに歪んだ生長だった。

 土台となる幹は横に拡張せず、根は大地に張らず、代わり脚のように大きく持ち上げられようとしていた。目に見えて伸びていくたびに土はめくれ上がり、家屋や高台が倒壊し、二次、三次とその被害を広げていく。


 やがては自身の重みに耐えきれなくなって、 大きく頽れる。その際に起こる被害は、現状の比ではないだろう。


 あれは、在ってはならない神だった。

 世界にとっても人にとっても、そしてそれ自身にとっても。


 檻の中で少年は舌打ちする。

 陸軍省の精鋭第五師団、かつては元寺坂てらさか藩の志士として奔走した彼らは、自分たちの五倍もする敵に、果敢にライフル銃で応射する。

 が、いかんせん大きさが違いすぎた。多少の苦痛は与えられるだろうが、それではかえって激しく暴れさせるだけだ。


 少年はふたたび目を閉じる。

 意識を潜行させる。さっきよりももっと深く、もっと暗い場所へ。そこには現実を投影させた人や物はない。彼の意識は、そして肉体は、その闇に沈む。


 いかな通路を使い、どういう原理でそうなるのか。十七歳の少年にとってとうてい理解し得るものではない。

 泳げる者が多くいたとして、いつから、どうやって泳げるようになったのか。それを明確に答えられる人間が稀なように。


 だが、彼が心身を浮上させた時には、念じた通りに獣の頭上を飛んでいた。

 傍目には、囚われていたはずの少年が、水沫とともに消え、そして瞬間的に転移したように見えただろう。


 少年は腰に隠し持っていた短刀を抜いた。脱獄用、兼自決のために秘していた八寸の刃が、白日を照り返しながら獣の眼窩を突き抉った。


 そのままぐっと力を込めると、大きく裂け目が生じた。体重をかけて、さらに下へと斬り下げていく。

 断末魔とも破砕音ともとれる異音が、空気を震わせる。

 彼の膂力が、美少女然とした見た目に反して凄まじいというわけではない。

 彼という肉体を介して汲み出された異海の水がこの手合いには、相容れないモノだった。毒し、腐らせていく。


 あぁ、それでも、と彼は思った。

 脆すぎる。

 物質としてではなく、生命として……異神かみとして。


 恐らくは『門』として選んだ人間が、土壌として未熟だったのだろう。ゆえに不完全な形で顕現し、存在の維持さえ歪で、おぼつかない。

 まるで、波の変化で陸に打ち上げられた、巨鯨のように。


講度礼令一全生体情法手離穢土こうどれいりょういつしょうていじょうほうぜんでりえど

 憐憫はない。ただ祈る気持ちで、彼は縦に樹皮を裂きながら実家より相伝された祝詞をささやいた。意味はわからない。文脈もめちゃくちゃ。それらしい解釈も一族の間でされていたようだが、結局のところそれらしい正解はなかった。


 それが功を奏するかは知らない。だがそれによってより刃が通りやすくなる異神もいる。逆にまったく通用しない相手もいる。あるいはそんな線引きなどすべて気のせいなのかもしれない。


 だがそれでも無心でそれを唱える。言い終えると同時に、地に降り立つ。見上げれば、獣樹は真っ二つに分かれていた。

 倒壊はしない。ただ内部より崩れた巨体が、泡を立たせながら消滅していく。少年は念じ、その身体の下に触れながらその身体を、木片を、『海』へとゆっくり沈めていった。あとは、暗くも清浄なあの世界で、溶けていくのみだろう。


 そこから切り離された人間の死体が、支えていた枝を喪って、どちゃりと濡れた米俵のような重く湿った音を立てて落ちてきた。かるく悲鳴があがった。


 それをもって改めて、周囲の状況を確認する。

 いくつかの商店が打ち壊され、怪我人はひとりふたり散見されるが、少なくとも民間人には死人は出ていない。


 だが彼へと向けられた視線の数々は、街の救い主に対するものではなかった。

 得体の知れないものに対する忌避、嫌悪、畏怖。彼の能力を見慣れたはずの兵士達でさえ、そんな目を向け遠巻きに囲んでライフルを構えているのだから、いわんや丸腰の民衆の反応は……目を瞑っていてもわかる。


 その包囲の中から、歳若い兵士がひとり、両側に押し出されるかたちで進み出た。

 震える銃口を自分と同じぐらいの少年へと向けながら、おっかなびっくりといった調子で手を伸ばす。

 そしてまるでもぎ取るように彼の手から短刀を奪い去った。そのアバタ顔に、まるで鬼の金棒でももぎ取ったかのような、誇らしさと安堵とを浮かべて。


「牢に戻れ」

 部隊長が、強張った声で命じた。

「次に命令外のことをすれば、処断する」

 手錠をあらためてほっそりとした手首にかけながら、そう脅した。


 少年はおかしがった。

 銃も、恐喝も、手錠も牢も、少年にはまったく無意味だった。そのことを、他ならぬ彼ら自身が理解しているはずなのに、そうしている。そうでもしなければ、安心できないのだろうが。

 だが、そうされる自分自身が、何より滑稽だった。


 逃げることも、自分自身もふくめ、この場にいる全員を殺すこともできた。

 だが、逃げたところで行きたい場所など特になかったし、生きるも死ぬのも同じことだった。


 この容姿である限り、蔑視も迫害もついて回る。


 少年、海城みしろれいは牢へと戻る。


 海の底で染め上げたような深い青味を帯びた髪が、春の風を孕んで舞い上がった。

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