少女の空想


 ガタガタ。ガッタン。ガタゴト、ガタガタ。

 ただでさえ揺れは激しいのに、ときおりさらに大きく跳ねる。電車に揺られながら、地元に帰っていることを実感した。

 八月の半ば。ようやく夏休みになり、地元に帰り適当に過ごそうと考えていた。高校の友だちと旅行にでも行くか、バイトを見つけ金を稼ぐか、はたまた、家でダラダラと過ごしてしまうか。この夏にすることは何も決めていなかった。

 実家に着き、家事を手伝いながらも、したいことは何も思いつかなかった。とりあえず地元の友達に帰ってきたことをメールで伝えると、早速明日いつものメンバーで集まることになった。細かいことも決められていたが、それらに返信する気が起きず、帰郷の疲れもあってか、いつも以上に早く寝てしまった。


 翌朝、起きてメールを確認してみると、あの頃のノリでくだらない会話が長々と続いていた。その中から今日の予定に必要なことだけを読む。近くの駅に二時に集合。

 二時か。誰かの都合なのだろうが、なんて中途半端な時間だろう。

 それまでどうしようか。昼ごろまで家にいてそれから出かけるには、夏の日差しはあまりに強く、殺人的だった。

出かけるか。

 昼間の炎天下に出かけるのはただの自殺志願者だろう。時間は駅にある喫茶店でつぶせばいい。

 そんなわけで朝早く、とはいっても十時過ぎに、家をでた。

 昼間よりは幾分かましな日差しを浴びながら、気持ち足早に歩く。少しでも早く涼しい室内に入りたかった。

 この時間に外を出歩く人は少ないのか、ほとんど人に会わなかった。

 だからだろうか。あの子が目に留まってしまったのは。

 駅までの道のりの比較的住宅が多いところを歩いていた時だった。そこにある小さな公園に少女がいた。小学4年生くらいだろうか、ひとり楽しげにしていた。何気なく眺めていると、少女の口が動いているのが見えた。ひとり言だろうか。

 やがて、少女の全身が見えるようになったとき、ひとり言ではないことが分かった。足元にカラスがいたのだ。少女はこのカラスに話しかけていた。

 動物に話しかけることは自分にも覚えがあるから、特におかしいとは思わなかった。小さい頃、よく近所の犬猫に、一方的に話しかけていたものだ。

 それにしてもカラスか。

 鳥を飼っている家ならまだわかるが、野外でしかもカラスに話しかけるのは、珍しいと思う。

 だから一人なのだろうか。

 つい余計なことを思ってしまった。

 そんな心のうちを読んだかのように、少女がこちらを見る。カラスはどこかに飛び去っていった。

 まずいと思ったが、顔を背ける間もなくバッチリ目が合ってしまった。

 けれどそれは一瞬のことで、ふいと視線を足元に落とす。

 少女は驚いているように見えた、気がする。

 俺だって動物に話しかけているところを誰かに見られてしまったら、驚き赤面するだろう。

 悪いことをしてしまったな。

 罪悪感に似た感情を抱えながら、何もなかったように歩き続ける。

 しかし、驚いたことに少女が後ろから話しかけてきた。

 「ねぇ、待ってよ。おにーさん!」

 あたりに人はおらず、数秒前に目が合ってしまったこともあり、無視することはできなかった。

 振り返り、少女に応える。

 「なんだ?」

 「さっき見てたでしょ」

 「ああ、悪かったな。ああいうの、あんまり人に見られたくはないもんな」

 気持ちはわかる。だからこそ何も見ていないかのように通り過ぎようと思ったのだが。

 「悪いと思っているなら、何か面白い話をしてよ」

 「面白い話?」

 「そう。ひとりじゃちょっとつまんないと思ってたところなの。おにーさん、年上だし、何かあるでしょ」

 「面白い話って言われてもなあ」

 そんなもの急に思いつく訳がない。もともと、自分から何かを話すのは苦手だ。

 というか、小学生くらいの女の子が面白いと思うことってなんだ?最近面白いことなんてあっただろうか?

 記憶をさかのぼり、唸りながら考えていたのだが何も思い浮かばなかった。

 少女はしびれを切らしてしまった。

 「なんにもないの?」

 責めるような口調で聞いてくる。

 そう言われると心苦しいが、事実なので仕方がない。苦笑いで頷く。

 「つまんないなぁ」

 「もし面白い話をしたところで、君が面白いと思うかどうかは別だろ?」

 「オトナはすぐそうやって理屈っぽくジコセイトウ化するんだから」

 自己正当化って。わかって使っているのか?

 「じゃあ面白い話って具体的にどんなのだよ」

 「え? うーんと、例えば」


 ある崖に黒い扉がありました。本当に真っ黒な扉で、とっても重そうでした。いつごろからあるのか、なぜそんなところにあるのか、誰も知りませんでした。そして、周りに住む人たちでさえ、この扉が開いたところを見たことがありませんでした。ただの扉であれば開けたところで、谷が広がり危ないだけにもかかわらず、その見た目から、地獄やら魔界やらと繋がっていると恐れられていました。ある日、一人の女の子が黒い扉の前に現れて言いました。「とっても素敵な扉ね。この先には何があるのかしら」。この言葉を聞いたほかの人たちは驚きました。自分たちがこれまで恐れ、誰も興味を持たなかった扉に、素敵だとこの先に行ってみたいと言ったからです。人々ははじめのうちこそこの女の子を止めようとしましたが、やがて無理だとわかると、彼女をおかしいと思うようになりました。女の子は周りのことを気にすることなく、丁寧にノックをして扉を開けました。扉は見た目の印象とは違い一般的なものと同じ重さで、ゆっくりと開きました。扉の先には何があるのか、人々は気になりましたが、女の子が中に入ると扉は閉まってしまいました。扉は、開かれたことが見間違いかのように何も変わっていませんでした。人々はあの女の子がどうなったのか気にしていましたが、誰も扉に近づこうとはせず、やがて女の子のことも忘れてしまいました。そして、ただ噂だけが残りました。あの黒い扉は人を飲み込むと。飲み込まれた人間は戻ってこないと。誰も本当のことは知りません。女の子がどうなったのかもわかりません。黒い扉は今でもどこかの崖の先にあります。


 「面白いのか、その話」

 少女の話は昔話チックで、オチらしいオチもない。

 「えぇ? 頑張って考えたんだけどな」

 話すことすらできなかった俺が言えたことではないか。考えたということは今の話は即興で作ったのだろうか。

 「すごいな」

 「面白くないっていったくせに」

 「いや、確かに面白いかどうかはわからないけどさ。さっきの話、作りながら話してたんだろ?それってすごいことだと思うぞ」

 「え? そう、かな。あのドア見ながらテキトーに言ってたんだけど」

 心なしか嬉しそうな少女が指さした方を見ると、古い家屋に黒いドアがあった。なんとなく重そうな、あかずの扉といった雰囲気だった。

 「わたし、お話を考えることが好きなの。でも、自分以外の人に話すのは初めて」

 少し俯いて恥ずかしそうに笑うその顔は、日差しのせいか輝いて見えた。

 しばらくそうしていたが、パッっと顔を上げ困ったように言う。

 「ね、おにーさん。明日も会える?」

 「え、まあ。用事とかも特にないし」

 「あのね、考えた話を誰かに聞いてもらうのってなんだか楽しいの。おにーさんがいいならまた聞いてもらいたいな」

 「いいぞ」

 思いもしなかった申し出に驚きはしたが、反射的に答えてしまった。用事がなく暇を持て余していることは事実なので、別に構わないが。ありがとうと笑う少女を見て、嬉しそうだからなんでもいいかななんてことを思ってしまう。

 笑っていた少女はハッとして公園の時計を確認すると、悲しげな表情になった。時計の針は十時半を指すところだった。

 どうしたのだろうと思っていると、もう時間だからといって数歩後ろに下がり、

 「じゃあ、また明日ね、おにーさん。絶対来てよね!」

 そう言って走り去っていった。

 その後ろ姿を見送り、駅に向かって歩き始める。

 初めて会った相手と話していたこと、次の約束をしてしまったこと、おかしなことが起きることもあるんだなと、深く考えることはしなかった。

 駅の喫茶店に着くころには十一時が近くなっていた。朝と昼の合間ということで客が少ないから居心地が良く、そして何より涼しかった。真昼に比べて暑くないとはいっても、それなりに晴れた日に外で過ごすと汗が吹き出る。

 ドリンクを口にしながら、あの女の子のことを思っていた。

 あの子は平気だったのかな。今ごろ涼しい部屋で夏休みの宿題とかやっているのだろうか。昔のことを思い出しながらぼんやりと思った。

 体の熱が取れると、持ってきていた文庫本を開く。待ち合わせの時間までだいぶあるが、読み始めたばかりなので三時間くらいはなんとかつぶせるだろう。


 目が疲れてきた頃、携帯電話が振動した。目をやるとメッセージが表示されていた。時間過ぎてるけど何をしてんだ。時間を確認すると、約束の時間から十分ほど経過していた。

 あわてて荷物を持って移動する。店内だから迷惑かもしれないとアラームをセットしなかったから、時間の感覚がわからなくなっていたのだった。

 友達と合流し遅れた訳を話すと、相変わらずだなと呆れられてしまった。

 午後はカラオケに行ったり、ゲームセンターに行ったりと、かつての学校帰りと同じように遊んだ。暗くなってからは、適当に食事をしながら互いに近状報告をしあった。

 それほど長く会っていないわけではなかったが、些細なことも話すので話は盛り上がり、解散したころには日付は変わっていた。待ち合わせの時間から、だいたい十二時間くらいは経っているのではないだろうか。


 そんなわけで家に帰り付いたのも遅く、朝の時間に起きられるはずがなかった。

 しかし、実家は向こうで暮らす自分の部屋と違って家族がいる。自分だけなら昼過ぎまでだらけることが可能だが、そうはいかない。そろそろ起きなさいと親に言われ、それでなくとも生活音で起こされたのだが、昨日家を出たあたりの時間に目が覚めた。

 若干の寝不足と疲労で体は重く、ぼんやりとしていたが、遅めの朝食を食べて頭が働いてくると、昨日であった少女のことを思い出した。

 『じゃあ、また明日ね、おにーさん。絶対来てよね!』

 バッと壁掛け時計を振り返る。十時二十三分。

 昨日少女と出会ったのは十時過ぎ、別れたのは十時半。

 会う時間を決めてはいなかったが、昨日と同じと考えるのが当然だろう。

 今から走っていってももう遅刻になる。

 正直面倒だと思う気持ちのほうが大きかったが、少女の絶対の言葉とあの嬉しそうな顔を思うと、公園に行かないということはできなかった。


 公園につくと、少女はベンチに腰掛け時計を眺めていた。

 よかった、まだいてくれた。

 近づくと、声をかける前にこちらを振り向いた。

 「おそい! おにーさんは時間も守れないの?」

 「遅れてごめん。でも時間は特に決めてなかっただろ」

 昨日のこともあり耳が痛い思いだったが、口からは屁理屈がこぼれる。事実とはいえ、相手を待たせておいて言うことではない。けれども似たようなやりとりは昨日もした。これが少女との距離感、なのだと思う。

 少女は怒っているような口調でも、顔は笑っていた。話を聞いてくれる相手が来たことが嬉しいのかもしれない。

 「待たせて悪かったな。今日も話、聞かせてくれるんだろ」

 あらためて謝り、軽くうながす。

 「う、うん! 今日はさっきまで考えてたから、ちゃんとしてると思う」

 「そうか、楽しみだな」

 少女の隣に腰掛け、話し始めるのを待つ。

 「今日は、誰も使わないベンチの話」


 ある公園に薄い水色に塗られたベンチがありました。そのベンチは汚いわけでも、古いわけでもないのに、公園を訪れる人から使われることがありませんでした。誰も誰かがベンチに座っているのを見たことがありません。ベンチに座る人は見られたことがないのです。この水色のベンチをいつも使う人がいました。けれども彼らは人には見えません。なぜなら彼らが幽霊だからです。誰にも使われていないように見えるのは、すでに幽霊たちが使っているからでした。人々はそこに何かがいることをなんとなく感じていたのでしょう。とくに噂が立つこともありませんでしたが、近づくことも近づかせることもありませんでした。幽霊たちは、それはもう居心地良くベンチを使っていました。誰にも干渉されず、愛しい人たちを見守ることができるのですから。彼らはこのあたりに住んでいたものばかりでした。未練があるわけではないものの、遠くに行ってしまったり、時々しか姿を見ることができなかったりすることは、やはり寂しさがあります。このベンチはそんな彼らにとって大切な場所でした。薄い水色のベンチは公園を訪れる人から使われることはないけれど、幽霊たちに大切にされ続けるのでした。


 「うーん、なんというか。流れが弱いな」

 「流れ?」

 「話はいいと思うんだけど、ストーリー性に欠けるというか。俺もよく言えないんだが」

 考え方は面白いと思う。きっと童話や昔話が好きなのだろう。しかし、この話は昨日のものと比べても、話の段階が弱い。ものの由来止まりといった感じだ。読むばかりで作ることをしたことがない俺がそう上から言うのもどうかと思うが。

 「ストーリー性……」

 「難しく考えなくていいぞ。俺がそう感じただけだし。楽しく面白く感じることが大事なんじゃないか?」

 「そうだけど、自分以外の人から感想をいってもらえるのは嬉しいし、やっぱり面白いほうがいいから」

 少女はしばらくむずかしい顔で考えていたが、うんと頷くと俺を見上げて言った。

 「ありがとう。明日もよろしくお願いします」

 「ああ。」

 あらためて頼まれ、考えずに頷いていた。この子の話を聞くことが楽しみになっているようだ。

 「そうだ、時間を決めないか? 今日は遅くなったけど、昨日と同じくらいでいいか?」

 「うん、十時くらいなら大丈夫」

 「じゃあ明日の十時にこの公園だな」

 頷いた少女は立ち上がり、また明日と笑い昨日のように走り去っていった。少女の後ろ姿が見えなくなると、体を起こして空を見上げる。いかにも夏といった青空。

 これからどうしようかな。ヒマだな。

 少女との約束以外には何も予定がないままだった。少しの間ボケっとしていたが、とりあえず家に帰ろうと顔を戻すと、時計が見えた。十時四十七分。

 そういえば、ここへ来たとき見てたな。

 昨日は十時半頃、今日は十時四十五分頃。昨日の慌てた感じと走って帰ることを考えると、何か予定があるのだろうか。

 まあ小学生なんだし、忙しいんだろうな。夏休みでも自由ってわけじゃないもんな。

 小学校の夏休みは宿題に追われていた記憶が大半を占めている気がする。もちろん楽しいこともたくさんあったはずだが、嫌なことほど覚えているものだ。

 それに比べて、なんて暇なことか。こんなにも時間があるものなんだな。バイトも何もしてないからなんだけど。

 帰りながら小学生の時と今の自分を比べたり、その頃の思い出に懐かしんだりしていると、いつの間にか家についていた。家についたからといってすることがなく、惚けていると夕方、両親から叱られてしまった。夏休みに休んで叱られるとはどういうことだろう。家事の手伝いはしているのに。


 翌朝。この半年の間、規則正しい生活より数時間ずれた生活をしていた俺にとって、約束のために十時前に家を出ることは大変だった。一昨日は前日に疲れて早く寝たから起きられた。昨日は睡眠時間も少なく頭痛がしたが、約束もあったし、なによりうるさくて寝ていられなかった。うるさいのは今朝も同じなのだが、半年続けた生活が早々に変わることもない。そうはいっても少女を連日待たせるわけにはいかないので、アラームをかけまくり、なんとか早めに家をでることができた。

 生活時間、見直すべきかな。まだ起ききっていない体を動かしながら思う。

 今日は少女よりも早く行こうと思っていたのだが、公園につくとすでに少女はベンチに座っていた。

 「おはよう、おにーさん。今日は早いのね」

 「おはよう。ああ、先に来ようと思ったんだけど。早いな」

 先に来ようと思っていただけに苦笑するしかない。それにしても早くに来ているということは、昨日は俺が思っていたよりも長く待たせてしまっていたのか。申し訳無いな。本当に生活を見直さなければいけないようだ。

 「今日も考えてきたのか」

 「もちろん。と言っても、さっき思いついたんだけどね」

 「そうか。どんな話なんだ?」

 「えっとね、インク男の話」


 あるところにインクからできた男がいました。彼が一定の時間触れたところにはインクのあとがついてしまいます。彼は優しい人でした。彼は自分のせいであらゆるところにインクがつくのを嫌がりました。インクがつかないようにするには常に移動しなければなりません。彼は歩き続けました。どこにも自分のあとがつかないように。そんな彼のことを気にする人はいましたが、共に歩くことは誰もしませんでした。彼の足は早く、追いつくことができなかったからです。ある日、彼は不思議なものを見つけました。道の端に足跡があるのです。自分と同じような人がいるかもしれない。彼は足跡を探しては、その周辺を歩きました。けれども、いくら歩いても同じような人と出会うことはありませんでした。しかし、その足跡の上に立ち止まる子どもがいました。子どもたちは足跡を目印に道を安全に渡ろうとしているのでした。彼はそのことを知ると驚きました。自分にもできることがあるかもしれない。彼は意を決して立ち止まることにしました。道が交差するところ、小道のあるところ、家の前。自分のインクが道に染み込むように真っ直ぐに立ち、動きを止めます。息をするように歩き続けてきた彼にとって、立ち止まることは恐ろしいことでした。もし余計なことだと思われたら。彼はもうこれから先立ち止まることはないでしょう。しかし、そんな心配は必要ありませんでした。彼の足跡は周囲の人に喜ばれたのでした。彼はその人々からお礼を言われることはありませんでしたが、自分がインクからできていてよかったと初めて思いました。彼は今でも歩き続けています。道端の足跡以外インクがつかないように。足跡が薄れてきたとき、もしかしたらインク男に出会えるかもしれません。


 「この話、オレンジの止まりましょうってやつから考えたのか?」

 「そう。私は普通だと思っていたけど、他のところでは見かけないって先生が言っていたことを思い出したの」

 オレンジの足跡はこの公園の入口前にもある。飛び出さずに一度止まるように小さい頃に教えられた。確かに、今まで普通にあるものだと思っていたが、地元を離れてから見かけたことはない気がする。

 「地域によってはないからな」

 どうやら少女は日常の中から話を思いつくことが多いようだ。三つの話には全てもとになる何かがある。小さい頃は身の回りのことが不思議に感じるのかもしれない。

 「自分にとって普通だと思っているものが、ほかでは普通じゃないってなんだか変な感じ」

 「そうだな」

 少女は本当に不思議そうな声で言っていた。そんな少女を見て、懐かしいような愛おしいような気持ちになった。

 それから十時半が来るまで適当な話をした。夏休みの宿題だとか、走って帰ることだとか。

 「このあとって何か用事でもあるのか? いつも走って帰るだろ」

 「用事というか、休み時間が終わるの」

 休み時間? 夏休みだから授業的なものはないだろうに。塾かなにかだろうか。そういえば初めて会ったときも時間だからといっていた気がする。よく時計を気にしていたのにも頷ける。

 「昨日は平気だったのか?」

 「うん。昨日は遅れてきたから」

 先生が遅れてバレなかったということだろうか。なんにせよ、怒られるようなことがなくて良かった。もともとは俺が遅れたことが原因だからな。

 「それなら良かった。今日は早めに帰るか?」

 何度もバレずに怒られないということはないだろう。そう思っていったことだったが、言うべきではなかったのかもしれない。

 少女は一瞬固まったように見えた。

 「そう、だね。じゃあまた明日」

 「ああ。また明日」

 時間に余裕があるからか、気持ちの問題か、いつもと違って少女は歩いて帰っていった。

 休み時間っていっていたから、また宿題と向き合うのかな。そりゃ足取りも重くなるよな。

 勉強が嫌なだけだと思っていた。

 少女の姿が見えなくなる前に少女のもとに女性が駆け寄るのが見えた。少女と女性は何か話しているようだった。少しして二人は歩いていってしまった。

 母親だろうか。

 女性は歩き出す前に俺の方を見た気がした。


 次の日。昨日と同じように俺にしては早起きをしたのだが、今日も少女のほうが早かった。案外、悔しいものだ。少女はベンチに座り時計を見上げている。

 後ろから声をかけたら驚くだろうか。

 なんとなく思いついたのでこっそりと近づく。声をかけようとしたそのとき、少女は小さく呟いた。

 「もうダメかな」

 「何が?」

 思わず漏れた一言に少女は驚いて振り向いた。

 「おにーさん! な、なんでもないよ」

 「そうか? まぁいいけど。おはよう」

 驚かそうとはしていたが、考えていたような結果と大きく違い、戸惑ってしまった。少女を初めてみた時と同じような罪悪感が胸をかすめていった。

 ベンチを回り込み隣に座る。

 「驚かそうとしたんだけど、なんかごめん」

 「確かにびっくりしたけど。謝らなくてもいいよ」

 少女は笑った。その笑顔が昨日までのものと、どこか少しだけ違って見えた。

 「ありがとう。それで、今日はどんな話を聞かせてくれるんだ?」

 「今日はね、」

 何か嫌なことがあったのかもしれない。話をするときは楽しそうだから、少しの間でも忘れられたらいいと思った。

 「待ち人の話」


 私は公園に佇む少年に出会った。遠くを見つめて突っ立っている、その感情のない顔が気になり、なんとなく声をかけた。「ねえ、キミ、ここで何しているの?」少年はこちらを見たが顔を背けてしまった。「別に」てっきり無視されると思っていた。「ふーん」少年を観察する。ひょろひょろとした体に、着古した衣服。特に靴がひどかった。元々は目を引くような鮮やかな赤色だったのだろうが、洗っていないのか、それとも長く使われているのか、色あせ、砂利にまみれていた。ちゃんとすれば綺麗な色なのになぁ。私、赤色好きだし。「その靴、もっときれいにすればいいのに」こぼれ落ちたひとりごとに少年は応えた。「関係ないだろ。それにこれはこれでいいんだ」「洗ったらもっとキレイになるのに?」会話が続きそうだったが、私の言葉が不適切だったのか、彼はまた黙ってしまった。「ねぇ、ここで何しているの?」もう一度声をかけた。「人を待っている」また別にと言われるか、今度こそ無視されるかと思ったが、けっこう優しいのかもしれない。「家族?」「違うけど、ずっと一緒だった」「そっか。早く来るといいね」少年は小さく言った。「たぶん来ない。忘れているだろうから」「そんな」それから少年は何も言わなかった。次の日もそのまた次の日も私は少年のところに行き、だんだん仲良くなった。少年はずっと同じところに立っていた。ある日、私は少年が待つ人について聞いた。驚いたことに少年は答えてくれた。「あいつと俺は毎日一緒だった。特別な日以外は毎日。俺はあいつを守って支えて、あいつは俺を丁寧に扱った。でも、あいつは大きくなって、俺は置いていかれそうになった。一緒には居られなくなった。それでもあいつはそばに置いてくれた。なのに、ほかのやつが俺を捨てた。あいつは、気がつかなかった。俺のことを忘れたんだ。だから俺はここにいるんだ。あいつとよく遊んだここで、俺を忘れたあいつを待つために」少年の話はわからないところが多かったが、寂しさを感じていることは分かった。「ねぇ、今度うちに来ない?」私の家は家族が多い。きっと寂しさを忘れるくらいに騒がしいだろう。単純にそう思って誘った。少年は驚いたかと思うと笑って頷いた。初めて笑顔を見た。次の日、少年に会いに行くと、そこに彼はいなかった。ただいつも少年が立っていたところに、あの赤い靴が転がっていた。


 「ごめん、ちょっとわからないところがあった。内容はわかったけど、会話が多いと難しいな」

 「あ、言葉で話すときは分からなくなるのかな」

 「自分で話していて分からなくならなかったのか?」

 聞き手もわからなくなりやすいが、話し手こそ台詞が分からなくなりそうなものなのに。すると少女はその手を俺の顔の前に突きつけてきた。

 「じゃーん! 今日の話は昨日思いついたから、ちょっと書いてきたの」

 少女が突き出した手の中には紙切れがあった。紙は手のひらに隠れるくらいに小さなものだったが、隅から隅まで文字で埋めつくされていた。少女の話を聞くときは極力、視覚的情報を得ないように下を向き、理解できるようにしているため気がつかなかった。

 カンニングペーパーじゃないか!

 なんだかズルをされたような気分だったが、そもそも何もなしに話をすることは難しいはずだ。むしろ今までメモがなかったことがすごい。

 「なるほど。なあ、今日の話はこれまでと物語の進み方が違わないか?」

 これまでは第三者目線で話が進んでいたが、この話はひとりの女の子を主人公として主観的に進んでいる。

 「うん。最近読んだ本がこんな感じで、台詞多めだったからだと思う」

 「どんな本を読むんだ?」

 「うーん。いろいろ、読むし、読まされる」

 「読まされる?」

 「あ……。ほら、夏休みだから、読書感想文とか」

 なるほどと思ったが、少女の表情が気になった。さっきまで楽しそうな顔をしていたのに少しくもっている。塾かなにかに行っているようだし、本を読む宿題があるのかもしれない。

 読書は強制になると嫌になるもんな。

 「読書感想文かぁ。苦手だったな。読むのはいいんだけど、感想が書けなかったんだよ」

 「そうなの? 私はどっちも好きかな」

 「すごいな。代表になったりするのか?」

 読書感想文も優秀やらなにやら決めるものがあった。休み明けにクラスの何人かは声をかけられて、出展用に先生と話していたはずだ。

 「うん。でも私は選ばれるの好きじゃない」

 「どうしてだ? すごいことだろ」

 「だって自分の言葉を変えなきゃいけないから。そのままじゃなくて、ウケがいいようにって書かされるんだもん」

 「そっか。それは嫌だな」

 そういえば選ばれたやつの一人が似たようなことを言っていた気がする。自分が書いたことを賞のために曲げるのは不満だろう。

 「あ。そろそろ行かなくちゃ」

 少女につられて顔を上げて時計を見る。針はもう少しで三十分を指そうとしていた。

 「遅れるなよ」

 「当たり前でしょ。おにーさんとは違うんだから!」

 冗談を言うと、少女は軽口を言いながら手を振って走っていった。

 少女が見えなくなると家に向かう。

 今どきの小学生は大変なんだな。

 自分の頃とは勉強に対する取り組みが違うと少女を見て思う。子ども自身というよりも親や教師、世間からの圧がそうさせているのだろう。

 少女の、話をするときの顔を思い出すと、少しかわいそうだと思った。

 俺は何にもできないからな。

 ただ明日の物語を楽しみに思った。


 翌朝。約束のある日が続くと、少しばかり朝起きることが楽になった気がする。今日こそ少女よりも早く行こうと思い、昨日より一時間早く起きた。気を抜くとすぐにだらけてしまうため、やるべきことを終わらせるとそのまま公園に向かった。


 公園についても少女はまだ居なかった。少女がここに来る時間は休み時間なのだから当たり前なのだが。

 すっかり定位置になったベンチの片側に座って待つ。

 早く来すぎたか。あの子はいつも何を考えて待っていたんだろう。

 十数分ほど待っていると少女がやって来た。俯いて歩いている。

 「あ、おにーさん」

 「今日は俺のほうが早かったな」

 俺に気づくと驚いたようだった。小学生相手に大人げないが、少女の驚いた顔を見てなにか勝ったような気分になった。

 「そうだね」

 少女は笑って隣に座った。その膝の上に本が数冊置かれた。読書好きだから平気なのかもしれないが、小学生が読むにはいささか分厚いと思う。

 「どうしたんだ、その本」

 「えっと、今日は図書館に行こうと思って。その、一緒に行ってもらっても、いい?」

 表紙を撫でていた手を止めて、こちらを伺う。迷惑かもしれないとでも思っているのだろうか。

 「もちろんだ。ここの図書館は久しぶりだな」

 「私も!ひさしぶり」

 俺が承諾すると、少女はとたんに笑顔になった。

 近くに住んでいて本が好きなのに、頻繁には図書館にいかないのか。学校の図書室で借りているか、本屋で購入しているのだろうか。

 「それじゃ行くか」

 この公園からはそれほど遠くはない。十分もかからないはずだ。


 カウンターで本を返してから、少女の後ろを付いてみていった。思っていたよりもかなり大人向けの本ばかり見ていく。年相応のものは読まないのかと思っていると、こども向けエリアの前を通るたびにチラチラと見ていた。

 「あっちはいいのか。行きたいなら行けばいいだろ」

 聞くと首を振って答えた。

 「いいの。あまりいかないようにって言われてるから。それに、おにーさん、嫌でしょ?」

 誰にいかないよう言われているんだ。

 「別に気にしないぞ。俺もたまにだけど行くし」

 少女は俺の返事を聞いて驚いていた。そしてしばらく躊躇していたが、そちらへと歩いていく横顔は嬉しそうだった。

 字の大きな本や絵本を見る少女の瞳は、大人向けのものを見ていた時よりもずっときらめいていた。少女のつくる話から童話や昔話の類が好きなのは分かっていた。小説は特に、対象年齢が上がるにつれて現代的な内容になる傾向があるから、当然と言えば当然なのだろう。

 図書館には独特な時間の流れがある。ゆっくり流れているようで、気がつくと結構な時間が過ぎていることが多い。

 遠くで十一時のサイレンが鳴っているのがきこえた。時計で確認してみると確かに十一時だった。

 「時間、大丈夫なのか」

 少女に近づき小声で聞いてみる。休み時間がいつも通りなら、三十分も過ぎている。

 「今日は大丈夫なの。でも、そろそろ帰らなくちゃいけないかな」

 少女はそう言って、新たに借りる本を抱えてカウンターに向かっていった。

 図書館からの帰りに思い出した。

 「そういえば、今日は何も話さないのか」

 一緒にいたから忘れかけていたが、少女とあっているのは彼女の作る話を聞くためである。

 「あ、そうだね。うーん、じゃあ、ちゃんとした話じゃないけど」


 そこには特別な本がある。たくさんの本の中に埋もれている。その本を手に取る人は特別である必要はない。その本はほかのものと区別がつかないけれど、確かに特別だとわかる。その本を見つけた人は何かを得るだろう。得るものは手に取る人それぞれによって変わる。ある者は居場所を、またある者は力を。しかし、この本は求められるものにはならない。偶然によって特別になるものだから。


 「これはただ私が信じているようなことなの。出会ってよかったと思える本があるときにね」

 「ああ、わかる気がする」

 自分が面白いと思うことや大切に感じる本は必ずしも他人にとってそうであるわけではない。だからこそ特別にもなる。

 「おにーさん。明日のことなんだけど」

 話をしたあとの明るい声ではなく、固い声で少女は切り出した。

 いつのまにか俺たちは公園についていた。

 「明日は、ううん、明日からこうやって会うの、なしにしてほしいの。その、迷惑でしょ? 私も、あまり時間が取れなくなって」

 声はだんだん小さくなっていく。

 この言葉は本当に少女が言いたいことなのだろうか。おそらくは違うだろう。けれども話したということは、そうしなければならなかったということだ。

 「ああ。わかった」

 あっさり頷くと、少女は数歩後ろで立ち止まった。それに気づいて振り返る。

 「本当はね、話を聞いてもらうのすごく嬉しかった。あんなふうに話しかけて、毎日会ってるのに、話以外のこと聞いたりしないから、変なのって思ったりした。私はおにーさんがどんな人か聞きたかったから。でも、だから、そのままの私でいられた。誰にも話したことのない話をできて、自分でいられて、嬉しかったの」

 少女は泣きそうな顔をして、一気に思いを吐き出した。

 「そうか。なあ、今日は何時まで平気なんだ?」

 「え? えっと、十一時半までなら、たぶん」

 少女は困惑しながら答えた。

 「あと十二、三分か。少し話さないか」

 公園に入り、ベンチに座る。少女は後からついてきて隣に座った。

 「まずは名前かな。俺の名前は牧虎太郎」

 「こたろう……。私は、あいり。久保藍李です」

 それからはお互いについて教えあった。時間は少なすぎたが、少女の気持ちを整理するのには足りたようだ。

 「ありがとう、虎太郎おにーさん」

 少女が微笑む。つられて俺も笑った。それにしても、

 「呼びにくくないか? 長いし」

 ただでさえ名前が長いのに、おにーさんがつくと名前だけで十文字近くなる。

 「そう? じゃあ、虎太郎くん」

 なんだか一気に距離が縮まった。最近は名前で呼ばれることが少なくなっているから、なんだか気はずかしい。


 時計は別れの時を告げていた。

 もう会えなくなるのだろうか。いや住んでいるところは近いんだ。また会うことができるはずだ。

 「またな、藍李」

 「うん。またね」

 またと言ったときに少女は笑った。これまでで一番かわいい笑顔だと思った。

 少女は手を振りながら帰っていった。俺も手を振り、姿が見えなくなるまで見送る。

 またいつか、同じように話を聞くことができることを願った。

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