END そして、恋は実る
「えーっ。七花まだ渡してないの?
春香の声が、放課後のA組の教室に響き渡る。それと共に、周囲の視線がこちらへ集まる。
「しっ。声が大きいわよ。」
私は慌てて春香を黙らせ、周囲に「ごめんなさいね」と謝った。
「如何して?私はもう利ちゃんに渡しちゃったよ?」
「んもう。春香は慣れてるでしょう?私は初めてなのよ?」
私はそう云って春香の視線から目を逸らす。
「あ、七花。もしかして恥ずかしいの?」
「そうよ。恥ずかしいの。初めてなんだから。」
恥ずかしい。今迄の私にとって似ても似つかない感情だ。
「あー。七々ちゃん照れとる。」
またしても春香は大きな声を出し、再び視線を集める。
「春ちゃん。少しは静かにしんさい。」
私は再び周囲に「本当にごめんなさいね」と謝った。
すると、一人の少女が教室に這入って来た。
「あっ。居た居た。委員長。一緒帰ろ。」
紺色のリボン。二年生で私の従姉の豊玉八葉だ。
「八姉。うんうん。一緒帰ろ。」
春香はそう云うと、鞄を持って立ち上がった。
「ちょっと春香。」
「じゃぁね。七花。女は度胸が大事だよ。」
「七花。先帰っとくね。」
二人は帰ってしまった。
―ネェ。このままでいいの?彼の事だから、もう帰ってしまったかもしれないわよ?
私の中の私が語りかける。
「大丈夫よ。まだ時間はあるわ。充分に。」
時計を眺める。時刻は十七時三十分。
「次のバスで帰らなきゃだけど…」
―アナタらしくも無いわ。いつもは冷静沈着に振舞っているのに。
「そうよ。私らしくないわよ。だって初めてだもの。」
―恥ずかしいのは解るわ。でも、忘れたの?彼の心の穴。埋めてあげるんでしょ?
「ええ。約束したもの。九ちゃんと。」
―ならば行きなさい。まだ教室に残っている筈よ。
私は腹を括って教室を出た。
○
「…太。早太。ねえ早太ってば。」
聞き覚えのある声。僕の知る中で、親よりも聞き覚えのある声がする。そうだ。この何処か安らぎを与えてくれる声は―
「七花?」
気がつくと、僕は机の上で突っ伏していた。机の上には原稿用紙が散乱している。残って何やら話していたクラスメイトももう帰った様だ。
そして、目の前には腰まで届く長い髪を白い大きなスカーフで結った少女が優しげな笑みを浮かべて立っていた。彼女こそが、玉依七花である。
「んもう。何時だと思ってるの?」
「ええっと…」
僕は急いで時計を確認する。
時刻は一八時。外は真っ暗だ。
「まあ、良いわ。それより、原画。見てくれた?」
「原画?」
「忘れたの?キャラクター原案をまとめといたから、確認しといてって昨日云ったじゃない。」
机の中をごそごそと漁ると、一つのクリアファイルが出てきた。中には数枚の絵が入っている。
「悪い。忘れてた。」
「如何したの?そんなに焦って。あっ。ふしだらな夢でも見てたんでしょ。」
「何がふしだらな夢だよ。悪夢だったよ。」
「そうね。うなされてたみたいだし。……ねえ、一寸風にあたりに行きましょ。」
彼女は僕の手を引き、屋上へ向かった。
○
扉を開けると二月の冷たい風が吹き込んでくる。
「あの子が亡くなってからもう一年だね。」
七花は空を見上げて云った。去年の今日も、今日みたいな雪の日だった。二月にしては珍しい大雪の日だ。
「まだ。心に穴。空いてるんでしょ?」
「暫く塞がらないかな。…なあ、七花…そんなことより、こんな所で僕なんかと一緒に居て良いのか?」
僕は思い切って訊いてみた。
「あら、如何して?」
「チョコレート、渡したい奴がいるんだろ?もう渡したのか?」
「ふふっ。まだよ。耳が早いのね。」
「まあな。早太だからな。」
そう云うと又彼女は笑った。ああ。なんて幸せなひと時だろうか。だが、もうこの笑顔は見納めかと思うとどうしても切なくなる。
―果たして、それで良いものか。
如何なんだ?早太。そうだ。お前だ。お前は如何思っているんだ。
僕は苦しむのは嫌だ。だが、夢の様に後悔するのだって嫌だ。夢の中で、僕はさんざん苦しんだじゃないか。七花は汚されて、挙句の果てには僕の目の前から消えてしまったじゃないか。
僕はあれが夢でほっとした筈だ。「夢で良かった。」と。
なら、如何する?
これは、あの夢が、黄泉冥が、いや、九葉が。そして、現世で七花が与えてくれた、最後のチャンスなのだ。大切な告白を目の前にして、恐らく関係の無いだろう僕と、いつものように談笑している。
それは、最後の別れか、それとも……
たとえ失敗しても、これで悔いは無いだろう。早太。
お前は弱虫で、貧弱者だ。臆病者で、それを誤魔化す為に厭世家を気取っている、只の根暗だ。それなのに、七花はずっとお前と一緒に居てくれた。
今、行動しなければ、いずれ彼女は旅立ってしまう。
だからこそ、殻を破れ。
―
「ふっ。無駄にする奴は大馬鹿野郎だ。」
僕は長い葛藤の末、そう云って笑った。
「如何かしたの?何か云った?」
「七花。僕はお前が好きだ。」
僕はキッパリと云い放った。
すると、七花は驚いた顔をした。
「え?如何したの?いきなり。」
読みが外れたか?いや、もう後には引けない。
「僕は、お前を誰の処へも行かせたくは無い。いや、何処にも行くな。これからもすっと、僕の傍に居てくれ。」
「そ、それって…」
七花は頬を真っ赤に染め、それを隠すように、マフラーで口元を覆い隠した。
「いつもの早太だと思って、油断してたわ。まさか、アナタに先を越されるなんて。五瀬早太君。私もアナタのことが好きです。私の十年越しの想い。受け取ってくれますか?」
七花はそう云って、大きなハート型のチョコレートを差し出した。その刹那、僕の目はすっかり醒めた。
「え?それって…」
そう云うと、彼女は少し
「私、この事を考えたら、今日一日、アナタの顔が見られなかったのよ。放課後に会いに行った時も、心臓が破裂してしまうかと思ったのよ。それなのに、居眠りしてた挙句に、先を越しちゃうなんて…」
徐々に七花の声が小さくなって行く。恥ずかしいのだろう。可愛い奴だ。
「僕だって、散々悩んで、悪夢だって見たんだぜ?」
すると彼女はにっこり笑って、「まあ、
僕は一生涯、彼女のこの顔を忘れられないだろう。
そして、たまらず彼女を抱きしめた。彼女の躰は柔らかくて、そして温かかった。それは僕の冷めきった心をも包み込み、温めてくれた。
「ああ七花。僕もお前が好きだ。愛してるよ。他の誰よりも。なんてったって僕の初恋だったんだからな。……結婚してくれ。」
あぁ。とうとう云ってしまった。
「もう…って、結婚?…んもう。まだ早いわよ。…卒業したら…ね。」
彼女は僕に顔を近づけ、唇を重ねた。それは、彼女自身の照れ隠しだったのかもしれない。彼女の唇はそれはそれは柔らかくて、今まで体感したことの無い感触だった。何しろこれが僕のファーストキスなのだから。
空からは牡丹雪が、ひらり、はらりと地に降り注いでいる。
「寒くなってきたわね。戻りましょ。」
彼女は唇を離し、赤くなった顔をマフラーで隠すようにして云った。
「そうだな。」
「ねえ。今日。早太の部屋、お邪魔していいかしら?」
「へっ?」
突然の事に僕は驚いた。
「あ、今いやらしい
事考えたでしょ?」
彼女はムーっと僕の顔を覗く。こんな時に紛らわしい。
「い、いや、誰がそんなこと…仕事の事だろ?」
「嘘。早太は昔から嘘をつくと瞬きするんだから。」
七花は僕の額を人差し指でツンと突いた。何処かで聞いた事のある様な台詞だったが、気の所為だろう。
「心に空いた穴。これからは、私が埋めてあげるからね。」
彼女はからかうような笑みを浮かべた。
「やればできるのですね。」
何処かで冥の声が聞こえた気がした。もしかするとあの悪夢が、死んだ妹が、僕の背中を後押ししてくれたのかもしれない。
相変わらず灰色の空からは雪が優しく地に降り注いでいた。
○
―七花。僕はやっぱりお前が好きだ。
――如何したの?いきなり。さっきも云っていたじゃない。
七花は不思議そうな顔をする。
無理も無い。さっき、学校で僕は死ぬほど恥ずかしいのを我慢して、彼女に告白をしたばかりなのだ。
―何というか…だな。僕はお前と出会えて本当に良かったって思ってる。あの時、お前が助けてくれなければ、今の僕は此処に居ないだろう。有難う。僕は世界で一番お前を…
そう云いかけると、七花は人差し指を僕の口元に当てた。
――んもう。それ以上は云わなくても解るわよ。私もよ。早太。愛してるわ。大好きよ。世界で一番、アナタが好きよ。
雲の合間から漏れ、障子を介して差し込む月明かりの中、二人は唇を重ねた。
窓の外はまだ雪が静かに降っている。明日あたりには割と積っているに違いない。
○
結局のところ、あの惨劇は「夢」で、九葉の見せてくれた、やり過ぎの、度が過ぎた、タチの悪い冗談だったのだが、最後のネタばらしさえ無ければ、僕は如何なっていた事か。
その点についてはしっかり反省してもらわなければ困ると、仏壇の前で軽く説教をしてやった。
まぁ、何はともあれ、タチの悪い「夢」で良かったし、結果として内気な僕をあそこ迄奮起させてくれた事は、感謝してもしきれない。
妹様々だ。
仏壇には妹の遺影があり、仏前に妹の好きだった大正の板チョコが供えられている。これは僕からのささやかなお礼だ。
板チョコが二枚。傍から見れば、何だお前の誠意はそれっぽっちかと笑われるかも知れない。しかし、九葉は何を貰うに比べてもこのチョコレートを貰った時の方が嬉しがっていたのだ。
昨日が妹の命日と云う事もあって、仏間は線香の香りがほのかに漂っている。
「お前が僕の背中を押してくれたんだな。僕はもう寂しくないさ。だって、僕の最高に良く出来た妹が見守ってくれているんだからな。こんなに心強い事は無い。お前の御蔭だ。有難う。だが、夢の中とは云え、人の命を軽んじるのは頂けないな。今後肝に銘じておけよ。よって、この一枚は没収だ。」
すると、遺影の中の九葉は何処か物欲しげな顔をした。
「…冗談だよ。ほら。気を落とすな。ちゃんと戻しただろう?」
すると、遺影の中の九葉は何処か嬉しげな顔をした。
可愛い奴め。と僕は思う。
九葉が生きていたらどんなだったのだろう。
きっと、もう少し賑やかだったに違いない。
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