第二編 嫉妬、或いは…

 家に帰ると中学三年生の妹・九葉ここのはが既に帰宅していた。彼女は受験生なので部活は無く、帰宅も早かった。

 かつては人数ギリギリのバレー部の主将として、チームを引っ張っていた彼女だが、今となってはテレビの前の畳の上に敷かれた大きめの、如何にも人間を駄目にしそうなクッションの上に寝転んで、チョコレートを頬張っている。


「あ、お兄ちゃんお帰り。…如何したの?あ〜っ。さては七ちゃんにチョコレート貰えなかったんだね。ド〜ンマイ。」


 妹は僕の肩をポンと叩いて、「taisho」と大きく書かれた、有名どころの大正乳業の板チョコを一枚くれた。


「ま、これでも食べて元気だしなよ。はい。私から。」


 このチョコレートは、妹がいつも好き好んで食べているお気に入りの物だった。


「ああ。有難う。」

「あーあ。これでお兄ちゃんがフラれちゃった訳だ。如何するの?」

「妹よ。人生とは様々な困難があるものだ。兄の心配なんかしてないで受験勉強を頑張りたまえ。高校で待っているぞ。」


 と、僕は云い残し、部屋に入った。


「よっぽどショックだったんだね……知ってるくせに。私、頭いいから受験なんて楽勝だって事。あ~あ。お兄ちゃんは七ちゃんとくっつくと思ったのになぁ」


 僕は部屋で妹のくれた板チョコをかじりながら原稿用紙の上で万年筆を滑らせていた。七花とは一緒に同人活動もしている。僕が文章を書き、彼女が絵を描いているのだが、そのうち彼女は離れて行くだろう。

 没の原稿用紙の裏に絵を描いてみた。だが、何処か上手く掛けない。如何描いても、生気が無く、死んだような目をしている。


「やっぱり、僕はもう駄目かな。」


 僕は本棚を眺めた。びっしりと棚を埋める漫画本。文庫本。雑誌。他人の同人誌。僕らの同人誌。

 同人誌と云うと、不健全な物ばかりと、誤解してしまう人が多いが、それは誤解だ。そう云う人は、同人誌と云う言葉の概念を理解していないのだろう。

 今まで僕の本が売れてきたのは半分以上が彼女の絵のおかげだろう。そうすると、僕では七花の代わりは到底無理だ。

 僕は万年筆のキャップを閉じ、くしゃくしゃに丸め、没の原稿用紙の山とも云える屑かごへ放り投げた。

 ○

 暫く経って僕はある事に気付いた。いつまで経っても隣の七花の部屋に明かりがともらない。つまり、七花はまだ帰って来ていないと云う事だ。

 途端に僕は嫌な予感がした。彼女は今、意中の相手とバレンタインの夜を楽しんでいるのかもしれない。だが、もしかすると彼女はまだ町に残っていて、何らかの理由で帰ってこられないのではないか。これは単なる妄想かもしれない。だが、可能性は十分にある。


 長年一緒だった僕には分かるのだ。

 すると、向かいの七花の部屋に明かりが灯り、カーテンがシャッと開いた。

 窓を開けて顔を出したのは、七花の従姉の豊玉とよたま八葉やつはだ。


「ネェ。七花知らん?まだ戻って来んのんだけど。」

「八姉。いいや。知らんよ?」


 僕はそう云うと、上着を羽織り、部屋を飛び出した。

 もしも、これで予感が外れたら、僕は完璧にストーカーだ。


「ちょっ、お兄ちゃん?何処に行くの?」

「ちょっと、やり忘れたことがあってな。ナァニ。心配いらないさ。」


 そう答えて、僕はバス停へ走った。そして町へ行く最終便のバスに乗り、学校へと引き返す。


「あれ?兄ちゃん。どがしたん?」と、バスを降りるときに運転手の小父さんに訊かれ、僕は「忘れ物しちゃって。」と答えて信号を無視して学校へと急いだ。道路交通法なんぞ、知った事ではない。


 遠くの方から救急車のサイレンが聞こえる。学校に着くと救急車は其処に止まっていた。僕は嫌な予感がして靴を脱ぎ捨て上履きも履かずに校舎に這入はいった。


「五瀬。」


 突然僕は呼びとめられた。それはA組の担任・底筒そこづつだった。


「底筒先生。」

「五瀬、此処から先には行くなよ。」

「如何してですか。」


 僕は声を荒げる。


「それはこっちの事情だ。生徒は此処から先には通せんのだ。」


 底筒は深刻な顔で云った。


「まさか…通してください。」

「駄目だ。絶対に通さん。」


 その刹那、彼の背後から救急隊員が担架を担いで来た。


「すみません。一寸ちょっといいですか?」


 僕は救急隊員を引き留め、担架に被せてある布をめくった。

 僕の予想は的中していた。其処に居たのは紛れも無い、昨日迄一緒だった、昨日迄僕の隣で笑っていた、幾人もの恋人を持つ美少女。玉依七花の変わり果てた姿があった。

 キラキラと輝いていた、あの円らな瞳は既に閉ざされ、玉の如く艶やかで張りのあった白肌は、血の気が引いて青白く、死斑が現れ始めていた。


「七花…」

「もう良いですか?」


 救急隊員が声を掛け、担架は運ばれていった。


「玉依は確かお前と仲が良かったよな。彼女は自殺だ。四階から身を投げてな。辛いとは思うが、気を落とすな。」


 彼は神妙な顔で僕の肩をポンと叩き、職員室へ帰って行った。

 …嘘だろ?そんな…そんな筈ある訳がない。七花は強い。誰よりも心の強い少女だ。おまけに成績優秀で、とても悩みなんてない様にも見える。そんな七花が自殺だって?

 そんなこと…信じられない。

 僕はその場にひざまずいた。


「七花…七花。如何してだよ…如何して先に逝っちゃったんだ。逝かないでくれ。頼むから…傍にいてくれよ。」


 彼女の声は二度と聴けない。彼女の笑顔は二度と見られない。彼女の柔らかい手はもう二度と握れない。彼女の愛らしい姿は二度と見られない。

 言葉の節々に『二度と』がついてくる。今生の別れだ。これは夢だ。悪夢だ。そう思った。そう思う事が、その現実逃避が、僕にとっての最大の慰めだった。


 僕は声をあげて泣いた。誰も居ない昇降口の廊下で泣いた。こんなに泣いたのは何年振りだろうか。ここ十年は泣いたことは無かったかもしれない。それほど僕は泣いていたのだ。彼女の居ない人生なんて考えられなかった。


「キヒッ。愚かですね。人間。」


 そんないびつな笑い声がして、僕の背後からコツーン、コツーンという足音とともに声が聞こえた、うら若い少女の声だ。


「誰だっ。」


 振り返ると、一人の女子高生が立っていた。セーラー服の青色のリボンからして、同じ一年だと云う事だけが理解できた。


「私はめい黄泉冥よもつ めい黄泉比良坂よもつひらさかの黄泉に冥土の冥。で、ヨモツ メイ。」


 彼女はスカートを持ち上げて会釈した。少し高めの声色トーンで、真っ黒な髪の毛で青白い顔をしている。死人までとは云わないが。だが、彼女を取り巻く気配は常人とは思えなかった。


「何だよ…」

「可哀想な子。結局は意中の相手に捨てられて、失意のうちに自殺したのですから。」

「意中の相手…」

「知らなかったのですか?玉依七花には意中の相手がいたのですよ。それは長年彼女が想いを寄せていた人物。でも相手には既に愛する人がいた。相手はそれを承知で付き合っていた。彼の欲求を満たすだけの玩具だったのですよ。でも彼女はそんなこと知らずに、どんなにもてあそばれようとも、はずかしめられようとも、傷めつけられようとも、それをただ受け入れた。可哀想な子ですよ。キヒッ。」


 そう云って、冥は笑う。


「嘘だ。そんな…そんな馬鹿な話っ。信じられるか!」

「いいえ。本当ですよ。」

「いいや。嘘だ。」

「現実を見なさい。五瀬早太。」


 僕の叫びは冥の冷たい一言によってき消された。彼女の目は相変わらず冷酷な瞳で僕を見つめている。


「止めろ。止めてくれ…これ以上…これ以上七花を…七花を侮辱するな。」


 僕は叫び、彼女を睨みつける。


「私を睨みつけて如何なるのですか?それで貴方の気が済むのですか?それで気が済むのだったら、早く彼女の事は忘れた方が宜しいのではないでしょうか?」

「違う。僕は…僕は只…七花の事が好きだったんだ。」

「現実を受け止めなさい。貴方は玉依七花に固執こしつし過ぎている。私はこれ以上何も云わない。貴方は何をしでかすか分からない人ですから。キヒッ。」


 キヒッと云う彼女の笑い声が、普通のなら無邪気に聴こえるだろうが、彼女に限っては不気味に聴こえた。

 彼女はもう一度会釈すると、階段の奥の闇に消えて行った。

 有り得ない…七花に限ってそんなこと…

 僕は走り出していた。怖くなったのだ。人間が信じられなくなったのだ。七花が…七花に限ってそんなこと…信じたくなかった。いつも隣で笑っている彼女の裏で、そんなことがあったなんて、考えたくもなかった。冗談じゃない。七花に限ってそんなこと…ある筈がない。


 この気持ちは何だ?心配しているのか?それともその男に対する醜い嫉妬心か?


 ―違う。現実逃避への願望だ。

 願望?


 ―怖いんだろう?現実を受け入れるのが。七花の居ない世界で暮すのが辛いんだろう?

 そうだよ。怖いんだ。怖くて怖くて仕方がないんだ。現実を…七花の死を受け入れるのが怖いんだよ。


 僕は現実を受け止めなければならない。それが僕に課せられた義務なのだ。幼馴染の死を受け入れるのが僕の義務なのだ。義務と云う名のとむらいであり、つぐないなのだ。

 ○

 僕は段々気になってきた。

 如何して七花はあんな凄惨せいさんな死に方をしなければならなかったのか。そもそも、如何して七花は死ななければならなかったのか。

 僕にはそれが解らなかった。

 だからこそ、僕は知りたかった。

 七花は自殺なんてする筈がない。

 階段を駆け上がり、屋上の扉を蹴り開ける。

 その先を見た僕は、息を切らしていたのにも関わらず、息を呑んだ。

 僕が目の当たりにした光景は、点々と白い雪に落ちた赤い液体。屋上に広がる無数の足跡。

 間違いない。此処に七花は居たのだ。

 僕はほうけたように二、三歩進み出た。

 ふと、足元に違和感を感じると、雪の中に赤く染まった何かを踏んでいた。

 拾い上げると、それは七花の愛用していた、髪を結ぶ白いスカーフだった。


「七花…どうしてだよ。」

 僕はそのスカーフをズボンのポケットに仕舞った。


「早太?」


 聞き覚えのある声が、僕を呼びとめた。

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