第一編 片思ひ

 嗚呼、憂鬱だ。何故男共はこれ程迄に、この日に心躍らせるのだろうか。

 僕は朝礼前の教室の、窓側の一番後ろの席で外を眺めていた。今日の予報は雪。灰色の空からは、ハラリ、ハラリと、白き雪が降り注いでいる。


 教室では何時よりもまして男共が三、四人程度に分かれて騒いでいる。うるさい。今日は二月一四日。所謂いわゆるバレンタインデーと云うやつだ。そんな中で一人、教室の隅の席に座って頬杖をつき、外の景色を眺めている僕は大層浮いていることだろう。


「どがしただァ?五瀬。そがに浮かん顔して。」


 誰かが笑いながら、僕の背中をバシバシと叩いてくる。痛い。

 彼の名は武内利通たけのうち としみち利通。かれこれ保育園からの付き合いになる少年で、高校進学では僕と同じ1年B組に配属された。僕の数少ない友人であり悪友だ。


「武内か…そがに叩くなや。」


 彼は野球部員で、華奢な僕とは違って体格も良いし筋肉もある。そしておまけに、彼の木のこぶの様なゴツゴツした大きな手で叩かれたら、それはそれは痛いに決まってる。


「今日はアレだ。何の日か分かろうがや?」

「ああ。聖バレンチヌスが処刑された日な。ローマ皇帝クラディウスの基督キリスト教迫害の最中、基督教の信仰を捨てなかったバレンチヌスは殺された。凄い人だよな。殺されそうになっても自分の信じる宗教を捨てなかったんだ。それでも彼は殺された。」


 僕はぶっきらぼうにウンチクを並べて答える。正直真面目に答える気は無かった。


「何云うとらぁや。お前世の中の恋人達を恨み過ぎて、馬鹿になっとらんか?アホか?バレンタインデーは女子が好きな男子にチョコレートをあげる日だろ?」

 武内はそう云って丸めたノートでバシッと頭を叩いてくる。

 僕は溜息をついて口を開いた。


「くっだらねえ。僕は人の命日にその人の記念日だとか云って騒ぎたてるのは好きじゃないけぇな。よそでやれや。」

「…そうか。仕方ないよな。玉依の奴、とうとう本命の奴に渡すらしいからな。こんな日を、もっともらしく、やや失礼な理由をつけて目を叛けたくなるもんな。その気持ち、解るぜ。」


 武内は哀れみを込めた様にそう云った。


「七花が?」

 玉依たまより七花ななか。僕の幼馴染で、幾人もの恋人を持つ可憐なる美少女。彼女とは一番長い付き合いだ。何しろ家が僕の隣で、生まれた時から今迄ずっと一緒に過ごしてきたのだ。

 昔から愛嬌があって、面倒見も良くて、兎に角僕の中では一番の理想の女性だ。そんな彼女に心惹かれる男共も少なくは無いだろう。高校進学では成績の高いA組に配属されている。まさしく学校のアイドル的存在だ。


「知らんのか?そうか。残念だったな…お前の玉依への片思いはたった今崩れ去った。…元気出せや。可愛い子なんぞ、其処らに山ほど居る。そのうち良い子が見つかるさ。」


 僕はこの十年間、七花に思いを寄せてきたのだ。そんな中、僕の隣で武内は笑っている。爆笑している。あぁ腹が立つ。流石は悪友と云ったところか。僕がジャッキー・チェンだったならば蹴り飛ばしていただろう。

 文豪として名高き森倫太郎先生の言葉をかりるならこうだ。


『嗚呼、武内利通がごとき良友は世にまた得がたるべし。されどわが脳裏に一点の彼を憎む心今日まで残りけり。』


 …もういいや。気分が悪いし寝てしまおう。そういえば原稿あがりで徹夜だったし。僕は笑っている武内をそのままにして、深い眠りへと誘われていった。


「あぁ…七花…」


 僕はボソッと呟いた。

 ○

「ねぇ七花。今年こそは渡すんでしょ?」


 幼馴染の神功じんぐう春香はるかはそう云って私の顔を覗きこんだ。


「ええ…」


 私の中で、気恥ずかしさと緊張が共存している中、私はそう答えた。

 私は今、一世一代の大勝負に出ようとしている。

 今日は二月十四日。バレンタインデーだ。

 私は今日、今まで一途に思いを寄せてきた相手に、その思いを告げる。それが如何なるかは解らない。

 でも、私はやると決めたのだから。

 ○

 あれからどの位経っただろうか。


「…五瀬。おい五瀬。おきろ。」


 けだるげな男の声が聞こえる。僕は何か固い物で頭をコツコツ叩かれていた。そして、おまけに煙草の臭いが鼻をさす。マイルドセブンのこの匂い


「煙草クサッ。」


 僕は咄嗟とっさに起き上った。目の前には担任・国語教師の中筒なかづつが立っていた。

 彼は手に持った現国のぶ厚い教科書で僕の頭を叩いていた。


「やあお早う。悪かったな。煙草臭くて。」


 彼は僕を見下ろして、ニヤリと笑った。口元は笑っているが、目は笑っていない。むしろ、僕を見下すが如く、嘲るが如く、僕を見ている。


「な、中筒…」

「先生だコラ。」


 彼はやや強めに僕の頭を叩いた。彼は生徒を叱るときに怒鳴るタイプではないし、ねちねち怒るタイプでもない。その代わり、教科書の背で一発、頭を叩く。教科書制裁だ。


「す、すみません…」


 周りのクラスメイトは僕を見てクスクス笑っている。

 彼はいつもけだるげな声で話す。

 授業をする時も、生徒を叱る時も、校長と話す時も。

 彼の特徴は、やや痩せ形で、ボサボサの頭、濃い顎鬚。胸ポケットにはいつもマイルド・セブンの一箱。そして、箱の中からはライターがのぞいていた。

 彼は所謂ヘビースモーカーなのだ。一日に何箱吸うだろうか。彼の給料は殆ど煙草に消えてゆくと云っても過言ではないだろう。将来肺癌になっても知らねーぞこれ。

 それでも彼の教師としての実力は本物だ。若い頃一流の物書きとして、かの有名な文藝夏冬に連載を持った程の実力がある。


「なあ五瀬。俺の授業を真面目に受けん奴は、立派な小説家にはなれんぞ。いつまで同人作家で生きて行くつもりだ?それで女を幸せにできるのか?」


 彼は再び僕の頭をコツコツと叩く。痛い。


「はい…すみません。」


 云い返したくとも、云い返せない複雑な心境の中、僕は溜息をついて、机の中から教科書を取りだした。


「畜生。リア充なんか消えちまえ。」


 僕はボソッと呟いて席に着いた。

 結局それから放課後まで、僕は眠ることはできなかった。

 そんな訳で早くも放課後に到る訳だ。

 教室では数組のカップルが仲よさげに話している。僕は見せつけられている様な気がして妙に腹が立ち「勝手にしろ」と呟いて荷物をまとめ、教室を出た。空は相変わらず灰色で、真っ白な雪が降っている。


 今頃、他の生徒たちは校舎裏などで、愛の告白でもしているのだろう。そして七花も。…いや、そんなこと考えない方が良い。考えるだけで苦しむのは嫌だ。

 そう思いながら僕は玄関前の階段を降り、道路を横切り向かい側の歩道へ渡った。この行動は道路交通法に違反している様だが、そんなこと考えた事も無いし、そんなこと如何でも良かった。


 目の前の小学校から下校する何人かの小学生たちとすれ違い、横断歩道の前の自販機の前に立った。兎に角嫌なことを忘れたかった。自販機の隣では、同じクラスの女生徒が車を待っていた。が、別に親しくも無いので気にも留めず、自販機の珈琲コーヒーのボタンを押した。

僕は冬でも冷たい珈琲を好む。学校の自販機ではこの季節、温かい珈琲しか販売されていないので、此処の自販機を利用するのしかないのだ。


 僕がこの自販機で買ったのは『エメラルド・マウント』。僕は珈琲の缶を開け、一気に飲み干した。口一杯に冷たい珈琲が広がり、喉を冷やす。するとカフェインの効果なのか、目が覚めた気がした。


「珈琲の〜冷たーい押すたび〜」


 と替え歌を歌いながら珈琲を飲み干すと、空き缶をゴミ箱に放り投げて歩き出した。

 僕はバス通なのでバス停からバスに乗る。いつも二人で乗るバスも、今日は一人だ。僕は流れゆく景色を車窓から眺めながら只呆然としていた。

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