掌編 クライムクライマー

ガジュマル

第1話



 僕はこれから犯罪を犯すことに躊躇はなかった。

 何より、時間がないと思われたし、決行するなら今晩しかなかったからだ。

 中古マンションの九階にある自宅。

 深夜一時をまわっていた。

 玄関の扉に耳をあてる。

 いつものように、隣の女性が自室の玄関口に鍵をかけて出ていった。

 どこへ行くのかは事前の調査でわかっている。

 不動産会社を経営している既婚のオスブタと交尾をするためだ。

 装備を点検する。

 カラビナやロープ、そしてフリークライミング用のシューズといったものだ。

 準備が整うと、入念にストレッチを行う。

 今回のフリークライミングのグレード(難易度)自体は低レベルなものだが万全を期すことが大事だ。

 体の全体が温まり、軽く発汗したところでストレッチをやめる。

「トライ!」

 自分に声をかける。

 ベランダに出ると、真冬の突き刺すような寒気が体を包みこむ。

 ハーネスにつながったロープをベランダの柵に固定する。

 目標は女が出ていった部屋のベランダだ。

 冷静にホールドするポイントを見つめる。

 壁の中間にある配管だ。

 壁に手をあてながら半身を外に出し、左手を配管に伸ばす。

 触れるが、掴むことができない。

 慌てずに逆方向に顔を向けて左手を伸ばす。

 肩を入れる分だけリーチがかせげるのだ。

 しっかり掴めたの確認すると、強く握って強度を確かめる。

 頑丈な手応えが返ってきた。

 左手に集中して右手を離し、一気に体を躍らせ右手と両足で配管をはさみこむ。

(うん、ナイスムーブ)

 胸中でささやくと、目標のベランダの柵へと左手を伸ばす。

 今度は右手と右足を配管を壁に支持固定するための金具にかけることが出来たので楽に届いた。

 掴んだベランダの柵の強度を確かめると、右手を離し、左手一本で柵にぶら下がる。

 あとは両足を壁につけ右手を柵に添えると、両手を動かしてベランダを登りきった。

 柵を乗り越え、隣室のベランダに音をたてずに着地する。

 呼吸は穏やかで息はきれていない。

 だが次の瞬間、僕は目的である対象を見つけ息をのんだ。

 それは、上下の汚れた下着姿でタオルケットにくるまっていた。

 テレビの中でしか見たことのない痩せ方をした女の子が冷気に激しく震えている。

 顔に傷は無かったが、タオルケットからのぞく手足には青黒い痣がいくつものぞいている。

 冷静になれと自分に言い聞かせながら、ハーネスをはずしてロープを巻きつけると、腰にぶら下げた。

 抵抗されるのが一番心配されたが、女の子は衰弱しきっており。僕に抱き上げられても抵抗しなかった。 

 サッシの鍵を開けるためにガラスを割らなければいけない事を思い出し、僕は子供を下ろしてサッシ扉に手をかけた。

 すると驚いたことに扉が開いた。

 ベランダと部屋を隔てるサッシには鍵がかけてなかったのだ。

 僕は生まれて初めて、怒りで目が眩むという言葉を実際に体験することになった。

 まだ幼稚園に通うような年頃の子供が、真冬の外気の中親の言いつけ通りにいたのだ。扉を開ければ暖かい部屋の中に入れたはずなのに!

 タオルケットに包まれた子供が微かに目を開いた。

 まぶたを薄くあけ、小さく言葉を綴った。

「……お母さんありがとう。悪い子でごめんなんさい」

 再び目を閉じた子供を見て、僕は喉元からせりあがる叫びを押し殺しながら玄関の扉へと走った。

 ロックをはずして薄く扉を開く。

 外が無音なのを確かめて外に出ようとした。

「トラヴィス、うまくいったの?」

 扉の影から声をかけられ体が硬直する。

 振り返り、僕は安堵のため息をもらした。

「僕はタクシードライバーじゃない。ただのフリークライマーだよ」

 車で待機しているはずの彼女に声をかけた。

 この計画に反対だった彼女はかなり不機嫌な顔をしている。

「ねえ、今からでも……」

 言いかけた彼女に、タオルケットに包まれた女の子を見せると言葉が途切れた。

「あの女、今度会ったらぶっ殺す!病院へ急ぐわよ!」

 怒りで顔を紅くし、目がつりあがった彼女を見て、僕は不謹慎にも彼女に対する愛情がさらに募っていくのを感じた。うん。この子を目にして、そう思わなきゃ人間じゃないって。

 僕と彼女はマンションを飛び出すと、車に飛び乗り大学病院へと急いだ。



 これが僕の犯した犯罪の一部始終。

 児童虐待を行う母親の隣に住んでしまったのが運のつきってこと。

 その後もいろいろゴタゴタしたけど、結局女の子は施設にあずけられることになり、さらにその数年後、結婚した僕たちの養子に迎えられることになったんだ。

 僕は娘にメロメロで、嫁になった彼女がヤキモチをやくほど。

「将来お嫁にいっちゃうんだから溺愛はほどほどにね。結婚式で号泣してた私のお父さん憶えてるでしょ?」

 意地悪く言う嫁の言葉は確かに至言だった。

 だけど僕はそれでも構わないと思い直す。

 死を目前に震えている少女を見殺しにするよりはるかにマシだ。

 いつの日か、娘の結婚式でみっともなく泣き崩れる父親になろうと僕は決意した。


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