第六話 腹が減ったから戦をするなんておかしいだろう。
■天文一〇年(一五四一年)七月 甲斐国 躑躅ヶ崎館
さて、問題の信濃佐久郡(長野県)に侵入してくる、
主要な将を集めたアニキは、まずは状況を説明して、意見を述べさせる方針だ。親父信虎がワンマンで決定していたような事柄を、鶴の一声で決定というわけにはいかない。アニキが家督を継ぐことで、家臣から期待されていることでもあるからだ。
「佐久郡に、海野棟綱の肝煎りで山内上杉が長野信濃守(
「おのれ! 上杉。盟を破るとは!」
「長野など、恐るるに足らん」
「左様である! 山から蹴落としてやるわあ」
などと、勇ましい意見が飛び交っている。声や威勢は迫力あるのだが、長野さんの兵力を考えていなさそうなところが実に心細い。これがいわゆる脳みそまで筋肉だと実感したよ。ただ、おれも実際に長野さんがどれだけ強いのか、わからないのだけれどね。
「長野信濃は強敵であるが、決して我が武田が劣るというわけでもない。だが、出兵すると米が尽きる恐れもあるぞ。いかがであるか」
ひとしきり、主戦論ばかりの発言が収まったところで、アニキが将を見回しながら発言した。
「なに。佐久で乱取りすれば問題なかろう」
「まったくだ!」
「乱取りだあ! 乱取りだあ!」
乱取りは
「うむ。乱妨取りも一つの手段であるな」
とアニキが首肯した。
確かに強兵揃いの武田勢であるから、乱取りすれば防衛も成功して、兵糧米の心配もなくなるかもしれない。だが、乱取りした後の、佐久の領民がどのように武田を思うかが問題だよな。当然、武田は怨嗟の的になるのは目に見えている。アニキを英雄にするつもりなのに、これでは全くの逆効果だ。
甲斐だけで考えれば英雄かもしれないけれど、そのうちに信濃も領国に加えないと、いつまで経っても貧しいままだ。
そもそも、腹が減ったら戦にならない、というくらいなのに、腹が減ったから戦にするっておかしいだろう。
このまま、出兵をしたくないアニキが、意志に反して重臣どもに押し切られて出兵するのはまずい。必ず舐められてしまうだろう。
この血の気の多い脳筋どもに、なんと言えば出兵を断念させることができるだろうか。
くそ。一か八かだ。
「お前たち。よく聞けえ!」
立ち上がってひと吠えすると、一気におれに向けて視線が集まる。もう引くに引けないぞ。
「山国の甲斐であるから、食べたこともない者が、あるかもしれないが、海には蛸という生き物が住んでいる。八本足がある、魚に見目も劣る生き物であるな」
「ほー!?」
「蛸ですか」
「ああ、蛸」
などと、蛸を知っているもの、知らないものそれぞれ反応を示している。まずは注目を集めたのでいいだろう。
「蛸はな。腹が減ると自分の足を食らうというぞ。なあ、ヒョーブ。蛸を
「愚かな生き物でございますな。ははは」
と、すぐに飯富兵部(虎昌)は返答した。
「お前たちは、腹が減ったからといって、我が物である信濃佐久という足を食らおうとしている蛸か!? おう! お前ら揃いも揃って、蛸侍ばかりかよ。格好つけやがって。魚に劣る蛸侍があ!」
殆ど全員の将が、罵倒された怒りで顔を真っ赤にして睨んでいる。怖い、とても怖いけど、もう後にはひけない。やけくそだ。
「愚かな蛸侍でないなら、この
これで、どうだろう。
「わしは愚かではないぞ!」
「そうだそうだ!」
「ワシは蛸侍ではないぞ」
ふう。何とか伝わったみたいね。
「蛸侍はおらぬようで頼もしいわ! 乱取りしたい気持ちがあるのはよくわかる。だが、おれと御屋形様でよき策を考えるゆえ、安堵せよ! それでよいな!?」
「ははーっ!」
と居並ぶ将は平伏した。
「うむ。典厩の言のとおり、佐久には出兵しないぞ。みなの者大儀であった」
とアニキが宣言して軍議が終わり、諸将は退出していった。
「じろさはすごいなあ。気持ちの良い
とニコニコしているへなちょこアニキだ。
とりあえず、出兵しないことは、アニキの思惑通りに決定できたけれど、食糧の問題は早急に片付けなくてはいけないだろう。
腹が減るからいけないわけで、腹が減らないようにするには、どうすればいいか。
記憶を辿ろう。確か、あの本には救荒作物とかいって蕎麦やジャガイモやカボチャを甲斐で栽培しようという計画が書いてあった気がするぞ。ちょっと調べてみようか。
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