帰還

「謝るって、何を?」

「この計画を黙っていたことを、です」

「そうね……なんで黙っていたの?」

「あなたたちが反対すると思っていたからですよ。あなたとアリーが」


 そう言ってターヒルは申し訳なさそうに微笑んだ。いまいちよく飲み込めていないモナに、ターヒルは言葉を続けた。


「スフラブを危険にさらすことになるから……あなたとアリーが反対すると思ったのですよ。結局のところ詰めが甘くて、こうして乗り込まれてしまいましたがね」


 ターヒルは茶目っ気のある表情を見せた。つられてモナも笑った。ターヒルは瞳に少しからかうような色をにじませて、モナを見た。


「あの少年は……スフラブは、あなたにとって、大切な人、でしょう?」

「……うん、そう……大切な……そうね、そうだわ。大切な人だわ」


 口に出すとそれは、すとんと心に落ちるのだった。そうだった、そうなのだった。いなくなるかもしれない、もう会えないかもしれない、と思ったとき、どんなに恐ろしかったことだろう。常に傍にて、気づくことさえなかったが、あの少年はモナにとって不可欠な存在なのだった。


 夜風が優しくモナの髪をなでた。明日になれば、スフラブに会えるわ、とモナは思った。それがとても嬉しく、有難かった。スフラブに会えるだなんて、そんなこと当たり前のことで、意識して考えたこともなかったのに。


「ああ、あなたの迎えが来ているようですよ」


 前方を見てふいにターヒルが言い、モナは振り返った。小さな船着場に明かりが見えた。人々が集まっていて、こちらを見て何かを言っているようだった。舟は次第に近づき、人々の姿がはっきりしてきた。モナの見知った面々で、屋敷の使用人の人たち警護の人たち、姉の姿にさらにはアラウィーヤ先生の姿まであった。


「もっと早くに連絡をしておけばよかったのですが……。慌しくて、つい」


 すまなそうなターヒルの声がした。舟は彼らに近づき、姉の驚きの顔、アラウィーヤ先生の怒った顔などが見えた。


 舟は船着場に止まった。モナが降り、待っている人たちのほうに向かうと真っ先に出てきたのは姉のサハルだった。


「一体どこに行ってたの? 暗くなっても帰ってこないし、お父様もお母様もそれは心配していたのよ」


 責めるような口調だったが、どこかにほっとした色もあった。アラウィーヤはもっとはっきりと怒っていた。


「本当にあなたはみんなに心配をかけて、どうしてそう考えなしに行動するのですか!」

「申し訳ありません。連絡が遅れてしまいまして……」


 舟の上から、ターヒルが謝った。アラウィーヤはびっくりしてそちらを見た。そして、舟の上の人物を見て……まじまじと見て、あっと声を出した。


「あなたは図書館で会った人ではありませんか、一体どうして……」

「あの、それは後で詳しく説明するわ。ターヒルありがとう。私はもう大丈夫だから。もう帰っていいわ」


 ターヒルは微笑んだ。そしてモナに穏やかに声をかけた。


「さようなら。今日は疲れたでしょうから、ゆっくり休んでください」

「うん。……さよなら」


 舟はゆっくりと動き始めた。重たげにも見える滑らかな夜の運河の水をかいて、ゆっくりと遠ざかっていくその様を、モナはじっと見つめた。月の光、天にちらばる星々、舟のともしび、町の明かり、それらがモナの見つめる中で、暗い夜の中で、一体となってにじむようだった。


「それで! あの男は何者なんですか!」


 アラウィーヤの声が唐突にモナを現実に引き戻した。モナは遠ざかる舟に心を奪われながら、半ばぼんやりと答えた。


「あの人は……あの人はえっと……。――私の初恋の人なの」

「は、初恋ですって!」


 アラウィーヤが頓狂な声をあげた。びっくりしてモナは訂正した。「で、でも今はもうそれは終わってしまったんだけど」

「もう、あなたは何をやってるんですか! 何度屋敷を抜け出せば気が済むのか、わたくし、あなたに言いたいことがたんまりありましたけど、本当にもう、何からどう言えばいいのか……!」


 モナがアラウィーヤのほうを振り向くと、その隣ではサハルが、目をぱちぱちさせ、困惑の表情でモナと見ていた。


「えっと……なんだかよくわからないけど……。というか、今日はわからないことばかりが続くんだけど……」サハルは考えるように言った。「ともかく……なんだか、波乱万丈だったみたいね」


 モナは吹き出した。確かに、波乱万丈であった。ここ数日は、いろんなことが起こり、いろんなことが頭を駆け巡ったものだった。


 モナは再び、運河に目をやった。今や舟の灯りは小さくなっていた。小さくなり、見ているうちにさらに儚げになり、夜の向こうへ消えようとしていた。

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