9. 夜の舟

夜の舟

 その後、少しの間、モナとアリーはその部屋で待たされた。辺りがすっかり暗くなった頃、ようやくターヒルがやってきた。子どもたちは駆け寄ったが、質問をしなくても、ターヒルのその表情で、スフラブはどうなったか、彼らのたくらみが成功したかどうかがわかった。


 ターヒルは部屋の中の人々に、スフラブは無事で、しかしとても疲れているので、今日は王宮に泊まらせるのだと言った。モナはその瞬間、自分が心から安堵したのがわかった。アリーもそのようだった。二人は目を合わせて笑った。


 それからターヒルが子どもらを送っていこうと提案した。そこでふと、モナはあることを口にした。


「私、舟に乗って帰りたいわ」

「……舟、ですか?」


 ターヒルは怪訝な顔をした。そこにいる、他の二人、アリーとカイスもそうだった。アリーはそしていささか不満げな表情になった。


「なんで舟なんだよ」

「なんでって……特に意味はないけど」

「なんで特に意味もないことを唐突に言い出すんだよ」

「でも私、舟で帰りたいのよ」


 ターヒルが困った表情をした。そこで、横で聞いていたカイスが助けるを出した。「では私がアリーを馬で送っていきましょう。モナ様はターヒルどのと舟に乗って帰ればよろしいでしょう」


 結果、そうすることになったのだった。




――――




 日は暮れていた。王都はすっかり暗くなっていた。けれどもまだ時刻は夜の初めで、都には昼の活気がそこはかとなく残っていた。モナとターヒルは舟に乗っていた。灯りをともし、暗い水の上をすべるように、その小さな舟は進んでいた。


 舟は運河を上っていた。都を東西に切るように運河は流れており、そして両岸には町の明かりがきらきらと踊っていた。右手には遠く王宮の丸屋根があり、そして左手には人々の暮らしの場が、住居や店が広がっていた。モナは黙り、ぼんやりとそれらの光景を見ていた。晴れた夜で、頭上には星が輝き、半分の月がぽっかりと浮かんでいた。


 どうして舟で帰りたいなどと言ったのか、モナ自身にもよくわからなかった。ただ、ふと、以前自分がターヒルのことを恋しているのではないかということを考えたとき、小舟に乗る自分とターヒルの空想をしたことが、頭をよぎったのだった。そして、今この機会を逃してしまえば、ターヒルと舟に乗ることなどないだろうと、モナは思ったのだった。けれども結局のところ、何故ターヒルと舟に乗りたくなったのか……そもそも本当に乗りたいと思ったのか……それさえもよくわからないのだった。


 そんなことをつらつら考えつつ、はたと、モナはターヒルに言っておかねばならないことがあることを思い出した。これだけは伝えておかねばならない、大切なことだった。


「ありがとう、ターヒル。スフラブを守ってくれて」


 舟を操っていたターヒルは突然声をかけられ少し驚き、そして、微笑んだ。


「いえ、私が守ったのではないのです。私は何の役にも立たなかった……。それは占星術師や魔術師たちのおかげで……いえ、実際のところはスフラブの、彼自身の力だったのです。彼が、彼の力によって、王子の霊をあるべきところへ送ったのですよ」

「そうなの? でもあなたは私を助けてくれたわ。三度も」

「それも偶然というか……」

「ううん、偶然とかそんなこと関係ない。お礼を言いたいの」


 ターヒルは照れたように笑った。いかめしい顔も時によっては幼くも、かわいくも見えるのだった。というよりも、このような表情のほうが、本当のターヒルを表しているのではないかと思えた。


「……あの少年は、よい少年ですね」


 ふと、ターヒルが言った。温かさと愛情のこもった声だった。モナは、前にもこのような台詞を聞いたことを思い出した。そして、前のときと同じように尋ねた。


「スフラブのこと?」

「ええ、そうですよ。彼は私たちの無茶な頼みを聞いてくれた。優しくて、勇敢な少年です」

「――そうね」


 確かにスフラブはそうだった。優しくて、そして勇敢であった。考えてみれば、廃墟でそして図書館で、二人が恐ろしい目にあったとき、いつもモナをかばおう、助けようとしていた。「本当に……勇敢だわ」モナは言った。華奢で弱々しく見える外見ではあったが、芯の部分では昔から強かったのだ。


 二人はまた少し黙った。月明かりや街の明かりが夜を彩っていたが、しかし運河の水は暗かった。まるで底がないかのよう、とモナは思った。舟に乗せられた灯りが、水面でゆらゆらと輝いていた。


「私はあなたに謝らないといけませんね」


 唐突に、ターヒルが沈黙を破った。モナが顔をあげた。

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