第5話 お腹すきマシたね!
ロッテの部屋の前で、俺は深呼吸をくりかえしていた。
そろそろ荷ほどきも終わったであろう、という頃合いである。
時刻にして午後二時。
玄関先での出会いでは、混乱も手伝ってか自然に接することができたと思うが、こうして改まると不意に緊張が押し寄せてきた。
このドアの向こうには、十六歳のお姫様がおわすのである。大体、『女の子の部屋』に入ること自体が途方もない難事業なのだ。
「ふう……」
なんとも情けない三十二歳だった。
意を決して異世界のドアをノックすると、返事とともにパタパタという足音が近づいてきて、勢いよくドアを開けた。
「らっしゃいまし!」
「はあ、どうも」
よく分からない歓迎の言葉を頂き、姫の許可を得てから部屋に入る。まだ衣装ケースも満足にそろっていないので、床にはロッテの荷物が広げられている。追加の荷物は後日配送されてくると言う話だ。祐也たちの服類は早めに片づけよう。
「いい部屋。わたし嬉しいデス」
にこやかに肩を揺らすロッテ。思いがけず気に入ってもらえたようだ。
ところで――視界の片隅に、折りたたまれた下着らしき布類を発見した気がしたが、その存在は積極的に意識の外に追いやって無視を貫きとおした。
「えっと、寝室を案内、しましょうか」
つい敬語になってしまった俺のたどたどしさに、ロッテは首をかしげつつも、すぐに笑顔になってついてきた。
弟夫婦の寝室は一階の奥にある。
南向きのその部屋の中央には、クイーンサイズのダブルベッドが鎮座している。弟たちの私物は、あらかじめ整理してある。
「おー、ここがわたしの愛の巣デスか!」
ロッテに日本語を教えたトーマス
「愛の巣っていうのは、恋人や夫婦の寝室に対して使うものだから」
言うと、ロッテはハッとしたように飛び退いた。
両手を顔の前でわたわたと振り回し、耳まで赤くした顔をそらして、
「あ、会ったその日に合体とは、じ、時期セーソーというものデス……!」
「
「お、おおう?」
「ここは君だけの寝室だから。
誤解がとけると、ロッテは照れ隠しのように何度もうなずき、おーけーデス、おーけーデスと繰り返した。表情がころころ変わるのは見ていて楽しい。
・・・・・・・
部屋の片づけなどをひとしきり行ったのち、ロッテを置いて、俺は近所のスーパーに買い物に出かけた。まずは食材だ。俺ひとりならば何でもいいのだが、さすがに育ち盛りの高校生に酒のつまみのようなものを食わせるわけにはいかない。
とはいえ、俺はたいして料理ができるわけでもない。
フライパンに肉と野菜を放り込んで焼くとか、鍋に具材を詰め込んで煮るとか、そのくらいが関の山だ。
スマートフォンで、なるべく栄養バランスのよい野菜炒めの材料を検索し、スーパーで買い出しを終えて家に戻る。
玄関の鍵を開けながら、ロッテにも合い鍵を渡さねばならないことに気づく。
「合い鍵、ねぇ……」
不思議な気分だった。恋人でもない相手との二人住まい。何度考えても違和感しかない。
それから、背徳感と――ほんの少しの高揚感。
色恋沙汰どうこうとは別の次元で、思うところはある。それが良いものか、悪いものかはともかく。
ドアを開けると、リビングのほうから足音がしてロッテが顔を見せる。
「おかえりなさい!」
スタンダードな挨拶はさすがに身につけているようだった。ここで「ご飯にする、お風呂にする、それとも……」なんて定番の挨拶が飛んでこようものなら、さすがにトーマス師に直電も辞さないところだったろう。
「お荷物お持ちしまショウ!」
俺がマイバッグに食材を詰め込んでいる様子を見て、ロッテが気を利かせる。
「いいよ。君は座ってていいから」
「ふふ、タカユキはやさしい」
「そうでもないと思うけどね。……着替えたのか」
「もち!」
ロッテは部屋着だった。
王族の部屋着は至ってシンプル。というか普通。
やや大きめのパーカーに、ショートパンツ。ストロベリーブロンドの長い髪をポニーテールに結わえて、にこにこ笑顔だ。帰ってきた俺を出迎えるその様子は子犬を連想させる。人なつっこいなぁ。
俺は戦利品の詰まったマイバッグをかかげて見せて、
「豚肉は大丈夫? その、宗教とか」
「おーけーおーけー。好き好き」
上機嫌の子犬を伴ってキッチンに向かった。
炊飯器はすでにセットしてあるので、あとは炊きあがるのを待つだけだ。
ロッテはカウンターキッチンの向かいで肘をつき、俺が野菜を洗っている様子を楽しそうに眺めている。別に珍しいものでもないだろうに。
「そう見られると、緊張するんですがね」
「タイショー、いい腕してるね!」
「……聞いてねぇな」
会話のデッドボール――ファーボールか?――を楽しみつつ調理を進め、午後六時には
「いただきマス!」
「いただきます」
昼食が
……ロッテはどうだろうかと顔色をうかがうと、彼女はそれどころではなさそうだった。
「う、おぅ……むむ」
「箸、使えるんだな」
「モー特訓しまシタからね」
しかし苦戦していた。
右手の先に神経を集中しているせいで、顔面が変なことになっている。眉をつりあげ、口を尖らせて、うーとか、あーとか呻いている。
味なんて、二の次かもしれないな。
「あ、タカユキ笑いましたね? これでもモー特訓したんデスよ!」
「それは聞いたよ。スプーン使う?」
「いやです!」
久しぶりに笑ったその日の夕食は、やはり俺にとってのごちそうに違いなかった。
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