第2話 最初のハコ


「やっぱり、こうなったか」


 僕は目の前に映る透明な窓ガラスを見ながら呟いた。まるで壁の様な分厚い窓ガラス。殴っても蹴っても、恐らくこの窓ガラスは壊せないだろう。僕がゴリラだとしても無理かもしれない。そんな事を思い、ボーっとしながら窓ガラスを眺めていた。すると、僕の隣にいる怖い目をしたオジサンが短く、座りなさい、と僕に言ってきた。はぁ、やはりここは落ち着かない。本当に落ち着かない。狭いんだ、この部屋は。この透明なガラスの壁の向こうに丸々と太った紺のスーツを着た五十過ぎぐらいのオバサンが座っていた。覇気のない目でこちらを眺めていた。口には出さないが、いいかげん座ったら? と、言っている気がした。少しは愛しのアイを殺されてショックを受けている僕の立場を分かってほしかったが、彼女はそんな僕の悲劇の主人公的態度にうんざりしているのか、ただ膝の上に手を置き、僕が座るのを待っていた。僕は鼻から息を吸い肺に酸素を送り届けると、再び鼻から息を吐きだし、用意された丸椅子にようやく腰をかけた。改めてオバサン――遠藤さん――の方を見た。遠藤さんと僕との間にはゴリラの力で殴っても砕けないガラスの壁が挟まっていた。この分厚いガラスの壁は普通の世界と地獄の世界を分ける壁。僕も一週間前まではこのガラスの壁の向こうの普通の世界にいた。でも、地獄の世界に来た。来てしまった。


「阿川さん、そろそろいいかしら?」


 遠藤さんがそう僕に言った。阿川望あがわのぞむ、それが僕の名前だった。僕は返事をする。


「いいですが……、ノゾムは見つかったんですか?」

「その話は、今はひとまず置いておきましょう。その前に事実を整理したいのです。もう一度最初から聞かせてくれるかしら? 昨日は簡単な挨拶だけでしたから」


 この女は時々タメ語になる。国選弁護人なんてそんなもんだ。僕は自分にそう言い聞かせ、遠藤さんに尋ねた。


「最初からというのは?」

「そうですね。川端愛さんが殺された後あたりからのことです」


 僕はまた大きく息を吐いた、今度は口から。もう何度話しただろう。最低でも3回は話した。警察の取り調べ室、合同庁舎にある検事さんの部屋。何度も繰り返した。ただ、繰り返すたびに立場が悪くなった。最初は参考人として取り調べられ、次に被疑者として取り調べられた。事実を言った。事実をそのまま。なのに……どうして……。すると、しびれを切らした遠藤弁護士の言葉が僕の耳に飛び込んできた。


「あの、いいですか?」


 はいはい、分かりましたよ。僕はやや不貞腐れ、盗聴が終わったあたりの事を思い出し、語り始めた。


「あれは、彼女がノゾムに殺されてからか……。僕は机に突っ伏したまま腰が抜けたみたいになって、自分のスマホがないか探しました。110番の為にです。とりあえず手元には無かったので、何とかその体勢のままベッドに行きました。覚えていませんが、多分あまりにもショックだったので横になって楽になりたかったのかもしれません。で、何とかベッドまで辿りつきました。そうすると、あることを思い出したのです。僕の設置した盗聴器が死んだ彼女の部屋にそのままの状態になっていると。こりゃまずい、と思ったわけです。あの……誤解しないでいただきたいのですが、盗聴器は犯罪の下調べで使ってるとかそういうわけではありません。純粋な川端愛さんへの興味からです。何と言いますか、人って自分の愛している人のことを知りたくなるじゃないですか、普通。誕生日は何日か、どんな生活を送っているのか、どんな音楽を聞いてるのか、とか。その中でも最も知りたいのはその人の発する空気ですね。人によってはオーラなんて言い方もしますけど。ホラ、人って誰もいない時こそが自分の本性が出る時だと思いません? その時、その人が発する空気というものが分かるわけです。え~と、話が脱線してしまいましたね。とにかくです。その時の僕は盗聴器があるので、ひょっとして無用の疑いを受けてしまうのでは? と思ったわけです。もう知っているかもしれませんが、僕には逮捕歴があります。酒の席で酔っ払って喧嘩を吹っ掛けられたのですよね。で、殴られたので殴り返した。これがどんな罪になるか知りませんが、僕はその時、近くの交番に連れて行かれて、指紋をとられました。ぐるりって奴です。親指やあらゆる指を指の側面から転がす様にぐるりって感じで全部の指の指紋をとられました。そんな事があったものですから、もしも、僕がつけた盗聴器が警察に発見されでもしたらまずいと思ったわけです。盗聴器にはベタベタ触りましたしね。僕だと一発でバレる。別に盗聴でバレてもよかったのですが……、これがもし殺人事件と関連付けられたらどうしよう……。そんな思考で頭が一杯になりました。今思えばとんでもないマイナス思考です。買った物にベタベタ指紋が付くのは普通にあることです。それに、あの部屋に友人が来て触っていくかもしれない。そもそも、警察はアレが盗聴器だと気づかないかもしれない。冷静になって考えればいくらでも可能性を思いつきますが、とにかく当時の僕は彼女の部屋に警察が入ったら指紋を調べられ、僕まで辿りついてしまう、と思ったのです。あと、生まれついてのビビリというのもあるかもしれません。なにせ気が弱いのです。そうすると、あの部屋に僕の盗聴器を置いておけないという思考になりました。とにかく警察があの部屋に入る前にどうにかしなければ、と。でも、僕はビックリして腰を抜かしたものですから、どうしたらいいか悩んでいたのです。スマホも見つかりませんしね。人間追いつめられると本当に思考停止するらしく、このあと僕がとった行動に僕もビックリしました。僕は腰に湿布を貼って寝る事にしたのです。とにかく寝たかったというのもあります。でも、本当に疲れていて、どうしよもない以上どうすることもできないじゃないか。そんな風に考えました。ある意味プラス思考なのかもしれませんね。遠藤さんはそうやって心が追いつめられた事ありますか? ないでしょ? だから分からないんですよ僕の気持ちが……。本当に追いつめられると考えられなくなって恐怖しか残らなくなるんです。で、色んな物事を先延ばしにしたくなる。寝たら腰が治っているかもしれない、そんなことを思いました。現に腰がよくならない以上僕にはどうすることもできませんしね。で、僕は寝ました。起きたのは午前4時頃です。ベッドから起きると不思議と腰が軽い感じがしました。完全にとはいきませんが、それなりに行動できるとすぐに分かりました。睡眠とはすごいなと思ったのを覚えています。ですが、今思うとアイが殺されてショックだったので腰が抜ける、というのも何か変な話で、きっと精神的なものだったのだと思います。あまりにも惨い声を聞いたのでね。とにかく、僕はようやく動けるようになったと思いました。で、彼女の部屋に盗聴器の回収に向かいました。この時点で彼女の遺体が警察に発見されていたら僕はアウトだと思いました。ここはもう運を天に任せた感じですね。だから彼女のアパート前を通りかかった時、様子がいつもと変わって無かったのは天の啓示だと思いました。神が僕の盗聴器を回収しろ、と言っているのだと思いました。そこでアパートの階段を上り、彼女の部屋に入っていったわけです。カギ? ああ、合鍵はもっていたので。え~と、作ったんです。彼女の家に彼女が不在の時に忍び込んで。彼女、ある癖があって……。盗聴して分かったのですが、カギを閉める時、カチャンって音がするじゃないですか。あれ、盗聴器からでも聞えるんですよね。彼女が部屋を出て行く時、あれが鳴らない時が結構頻繁にあったのですよ。だから、僕は彼女が鍵の音をさせずに部屋から出ていった時を見計らって彼女の部屋に侵入し、物色し、スペアキーを見つけました。あとは鍵屋に行って同じものを作ってくれと頼んで……。まぁそんな枝葉はいいのです。とにかく僕は彼女の部屋に入りました。なんというか……僕はもう一瞬でここに来てしまった事を後悔しましたね。僕の頭は盗聴器のことで頭が一杯になっていて、どれほど無残な状態で彼女が放置されているのか考えていなかったのですよね。考えていたとしても想像がついていなかったといいますか……。それをもっと想像しておけばよかったと後悔しました。もう一面血の海でしたよ本当に。警察の方にあとから見せてもらった印象と大分違いましたね。写真は無機質ですよ。何か別世界の事って割り切れるんです。でも、実物は違いました。首のない彼女の死体と、彼女と西川さんとおぼしき男の首が並べられて……キスをさせられていました。もう、それ見た瞬間に全てが吹っ飛んじゃって……。ショックで吐くってマジであるんですね。僕は急いで彼女の部屋のトイレにかけ込むと盛大にゲロを吐きました。何か色々な物が出た気がします。で、ゲロを流す為にトイレの大で流しました。そのうち、ああ、盗聴器を回収しに来たんだ、と当初の目的を思い出しまして、意を決して玄関脇のトイレから出て、部屋にもう一度戻りました。吐きそうになるのを何とか堪えながら最短ルートって飛びまわって盗聴器を3個回収しました。全部コンセントタイプです。警察にも言いましたが秋葉原で売ってます。ここで痛恨のミスを犯しました。外靴のまま、土足で彼女の家に上がり込み、至る所に僕の足跡が残ったわけです。更に彼女の家から出ると金髪で髪をこう、こんな感じで盛っている女の人……キャバ穣かな? そんな感じの頭をした人がちょうどアパートの階段を上ってきて……。僕はあまりにも気が動転していたので、平静を装って普通に歩いてその横をすりぬけました。本当に気がつかなかったのですよ、僕の靴の裏がまさかスタンプみたいに彼女の血痕をベタベタ地べたに貼りつけていた事に。本当に恥ずかしいぐらいマヌケでした。でも、本当に僕じゃないんです。僕は本当に彼女……川端愛を殺していないんです。信じて下さい。むしろ愛していたんです、僕が誰よりも。そんなアイを僕が殺せるわけないじゃないですか! ノゾムが許せない、ノゾムが。彼女の交友関係をあたってください! ノゾムを見つけ出せる筈です! お願いします! 本当に無罪なんですよ僕は!!」

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