ノゾムと望

タカヒロ

第1話 はじまり

 ああ、僕はいつの間に寝てしまったのだろう? 部屋は薄暗かった。突っ伏していた勉強用の机には僕がこぼしたであろうよだれが広がり、頬が僅かにヒンヤリした。


「んん~」


 いかにも寝起きです、と言いたげな声を口から洩らした僕は少し上体を起こし、なにやら雑多な音が聞こえてくる方を見た。TVがつけっぱなしだった。ニュースキャスターが原稿を読み上げていた。この声はニュースキャスターの声だったのか。そういえば、もうすぐ“あの時間”じゃないか? 僕は薄暗くなった部屋の中で時間を確認する為、首をぐるりと回転し、壁にかかった時計を見た。TVから漏れる光で長針は見えるのだが、短針が少し見えずらい。え~と、ニュースは大体6時あたりからはじまるのだから……、やっぱり。午後7時の10分前。彼女はもう帰って来てるだろうか? 自然と胸に優しい心が広がってゆくのを感じた。僕の愛しの人……、アイ。彼女を初めて見たのはいつだったのだろうか? 正確には覚えていない。


 だが、気づいたらその彼女――アイ――の虜になっていた。


 何が良かったのだろう? 実のところそれは僕にも分からない。彼女はモデルみたいに背が高いわけでもスラっとした体系でも無い。どちらかというと中肉中背と表現した方がしっくりくる体型だった。身長も普通かな。胸はどのくらいだろう? Cか? Bか? とにかくそんなものだ。顔は……う~ん。そうだな。松たか子の若い頃に似てるかな。なので、宇多田ヒカルの系統だ。

 つまり、そうだな「好みか?」と聞かれると少し迷う。

 ああ、何て言ったっけ? 最近のドラマの……。あれなら確実に松たか子より主人公の子の女の子の方が可愛いだろう。なのに……、どうしてこんなに彼女の事が気になるのか。僕のこの胸に聞いてみたい。


 僕は少し彼女の顔を思い浮かべた。

 胸がグイグイ締め付けられた。

 何と言うか、痛いぐらいに締め付けられる。

 まちがいない。これは《愛》という感情だ。

 僕はアイを愛している。

 僕は少しはにかみ、耳にイヤホンを当てた。次に机の脇に無造作に置いてあった黒い長方形の物体を握りしめると、そこからニョキっと飛び出している黒くゴツイアンテナを、警棒を伸ばす要領でグイッと伸ばした。これでOK。後はスイッチをONにして周波数を合わせるだけで、アイの声が聞けた、アイのいとしい声が。

 アイと僕の家は近かった。200mぐらいの距離だろうか? もっと、近いかもしれない。これで、ほぼ毎日彼女が家にいる、と思われる時間帯に僕は彼女の家を盗聴していた。それが僕の日課だった。彼女は大学生だ。学校が終わると大体この時間帯に帰宅する。彼女は週に3回、月・水・金の曜日でバイトをしている。コンビニのバイトだ。時々サービス残業で遅くなる時がある。そんな時に待つのは地獄だが、彼女の声を聞くだけで救われる気がした。

 そういえば彼女には同じ大学に通う彼氏がいる、いや、居た……の間違いだった。

 一週間ほど前だったか……、その彼氏と別れたのだ。

 その元彼は僕と同じ名前だった。


 ノゾム。


 僕は「望」という漢字だが、彼はどんな漢字を書くのだろう? まぁいい。とにかく彼女には一週間前まで「ノゾム」という彼氏がいた。彼が居る時期は彼を彼女から出来るだけ遠ざけたかった。というか、排除したかった。でも、嬉しい誤算もあった。彼の名前がノゾムという名前のおかげで行為の最中に彼女が叫ぶ名前は僕の名前だった。


『望、愛してるわ。愛してるわ、望。ああ、いい』


 まるで彼女が僕としてるみたい思えた。そこだけはノゾムに感謝したかった。そういえば、さっきからスイッチをONにしているのに、ちっとも声が聞こえない。足音も、TVの音も。今日は頻繁に訪ねてくる親友のマコトちゃんと何処かに遊びに言ったのだろうか? 僕は息を止め、よく耳をすませてみた。


 ポチャン。ポチャン。


 何かの液体がしたたる音が聞こえた。ながしの蛇口からか、それとも風呂場からか? 何やら生ぬるい温度を保った音のような気がした。生ぬるい温度。


「ふぅ」


 僕は一度盗聴の受信機のイヤホンから耳を放すと、背後から聞こえるうざったい音――自分の家のTVの音――を消してもう一度、イヤホンを耳にセットした。目を瞑る。声が聞えてきた。彼女の声だ。なんだ、家にいたのか、そう思い。神経を集中させた。すると突然嵐の様なベル音が受信機から聞こえてきた。


『ピーンポーン』

『ピーンポーン』

『ピーンポーン』


 五月蠅い。五月蠅すぎる。アイは玄関に出ないのだろうか?


『ピーンポーン』

『ピーンポーン』

『ピーンポーン』


『五月蠅いわね! ストーカー!! 帰ってよ!! 近所迷惑でしょ!! ノゾム!!』

『何が近所迷惑だ』


 ドアがバタンと閉まると、声がより近くから聞えた。どうやらノゾムはアパートの二階のアイの家に入ったらしい。ノゾムの声が聞えてきた。


『聞いたよ。アイツと付き合ったんだってな』

『だったら何だって言うの? もうお互いフリーなんだし、私が誰と付き合おうが勝手じゃない!』

『僕達が別れた原因がアイツだからだ。お前が僕からアイツ……いや、ニシカワに乗り換えた』

『……だってノゾムは常に精神的に不安定だったし、ニシカワさんは大人だし。仕方ないと思わない? ニシカワさんはノゾムみたいに、しょっちゅう意味不明にマイナス思考に陥ったりしない。私を束縛したりしない。私を自由にして、私が寂しい時に優しい言葉をかけてくれるの。それにノゾムと違ってちゃんと社会で揉まれてるの。大人なの。わかる? ノゾムなんて仕送りでただ暮らしてるだけ、なのに勉強もせずに働きもせず就活もせず。本当にどういうつもりなの? もう大学4年生なんだよ?』

『だから僕と付き合ってる時にアイツと寝たのか?』

『その話はしたでしょ。そうだって。だから何? もう別れたのよ私達。別れてまで私を束縛するつもり? いっつもいっつもどこに居る時も、電話に出ない、どこにいる、何コール以内に電話にでろ、既読スルーするな。挙句の果てに私のスマホに追跡機能を仕込んだでしょ。私、気づいてたんだから。異常なのよ、ノゾムは。放っておいてよ! ニシカワさんはそんなことしないわ。それに私ようやく本当の愛に気付いたの。ニシカワさんに抱かれた時、本当に嬉しくって涙が出てきたの。これが本物の愛なんだぁって。あなたとはそんな事一度もなかった!! 私達心が通じ合ってなかったのよ』

『……最初に僕のこと好きだと言ったのはアイだ』

『あの時はカッコ良いし、いいなって思ったの。だって、まさか中身がこんなヘタレの異常者だって知らなかったから』

『なぜニシカワは違うと言いきれる』

『言いきれるわよ。さっきも言ったでしょ。嬉しくて涙が出たって、心が通じ合うってこういうことなの。ニシカワさんもこんなに好きになったのは私がはじめてだって言ってくれたし。私達、もう愛し合ってるの。これが本物の愛なの』

『愛……愛か……。じゃあアイツがどんな姿になっても愛せるっていうのか? どこに行ったとしても』

『ついてくわ。それにニシカワさんがどんなことになっても私が看病するわ。私、あの人なら結婚してもいいかもなって、はじめて思えたの』

『付き合って間もないのにか?』

『時間って案外関係ないものよ。そう、感じる瞬間があるの』


 一瞬、音が聞こえなくなった。二人は沈黙してるのだろか? よく聞くとノゾムが微かに笑っている様に感じた。そこにアイの声が聞えてきた。


『気味悪い……、何笑ってるの?』

『いや……。本物の愛って何度も連呼されてさ。そりゃ笑うだろ。そもそもさ、アイの考える本物の愛って何なの? 少なくとも僕はアイを愛している、心の奥底からね。だから、別れをお前から切り出された時も嗚咽するほど泣いたし、お前とニシカワが寝ている所を想像しただけで頭が砕けそうになった。本当に頭がおかしくなるかと思ったよ。いっそ自殺した方が楽になるんじゃないかと思って何度もビルの屋上に上がったぐらいだ。僕は間違いなくお前を愛している。これだけは確実に言える。お前を束縛したのも。お前にした全ての行為は愛しているからだ。お前のニシカワへの想いなんて本物じゃない、ただそこそこ良い会社の正社員が自分のことを相手にしてくれているって浮ついてるだけさ。僕のお前への気持ちだけが本物の愛なんだ。僕はそれこそお前がどんな姿形になったとしても愛する。例えお前がこれから列車に轢かれてグシャグシャの肉の塊になったとしてもお前を愛している。一生愛する』

『やっぱアンタって異常よ。今の私の気持ちわかる? こう思っているの。本当にアンタと別れる事ができて良かったって。私はニシカワさんと幸せな日々を送るわ』

『で? 結婚するのか?』

『そうよ』

『じゃあ、新郎と新婦だな。お前達が本当に新郎と新婦になれるなら。僕はこのまま引き下がる。もう二度とここには現れない』

『は?』

『もう一度聞こうか。お前は今結婚するならニシカワと結婚するんだな』

『そうよ! 何度も言わせないでよ』

『そうか……、じゃあ誓いのキスをしてくれ。ここで』


 そうノゾムが言ったあとにジッパーを開くジィーという音が聞えた。なんだろう? 上着でもこのタイミングで脱いだのだろうか?


『きゃあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ』


 何だ!? 僕はそう思った。アイの叫び声だった。ただごとでないと思った。


『どうした? ほら、誓いのキスをしろよ。早く』


 早く? 僕にはノゾムの言っていることがよく分からなかった。早く、と促すという事は、そこにニシカワがいるのだろうか? ずっと息を潜めていたのだろうか? それとも写真か何かでも取り出して見せたのだろうか? にしてもアイがこんなに叫び声をあげるとはただ事ではない。ただごとでは――。思考がその答えに行き着いた時、僕は思わず呟いた。


「嘘だろ?」


 あまりの衝撃に、僕は自分の机に突っ伏したまま腰が抜けたような状態になった。イヤホンから入ってくるアイの叫び声は続いていた。それにドタバタと部屋の中を動き回っているみたいだった。


『いやああああああああああああああああああああああああああああああああああ誰かぁあああああああ誰か来てええええ助けてえええええええええ来ないで来るんじゃねえええよ! 来るなああああああああああ!! もごぐごご』


 何だ? と思った。急に彼女の声が小さくなった。それと同時に、むしろ足をバタつかせるような足音だけが響いてきた。次にノゾムの声が聞えた。僕はもう、頭が回らなかった。ただ受信機のイヤホンから聞こえてくる声を聞いていた。聞いていた。


『やはり、本物の愛ではないな。本物の愛があるならまず、一にも二にもまずニシカワの首を抱き締める筈だ。ニシカワを本当に愛しているなら次に仇をとりたいと思うはずだ。お前はニシカワの首にショックを受けたまではいい。なのに、そのあとすぐ自分可愛さに逃げ回った。醜い。本当に醜い。そして、お前にあるのは自己保身だけだというのがよく分かった。お前は愛を愚弄した。お前は愛を侮辱した。お前は僕の心を殺したんだ。判決! 死刑! 死刑! 死刑! 死刑死刑死刑死刑……。川端愛を西川健二と同じ、首狩りの刑に処す』


 僕の頭のなかには110番という言葉が思い浮かんだ。警察に通報するのだ。だが、これはもう――間に合わない。それに腰がぬけて動けない。スマホはどこだ? くそっ! ああ、アイが、僕のアイが……やめろノゾム。やめてくれ。僕の声は声にならず、ノゾムの声だけがイヤホンから聞えた。いやに落ち着いた声だった。


『死刑囚、最後に何か言い残す言葉はあるか?』


 彼女の口はノゾムの手から解放されたのか、声が聞えた。それは、か細い声だった。消え入りそうな声。哀願するような声。泣いているのが分かった。


『お願いぃぃぃ。ごめんなさい……。私が悪かったの。あなたを愛してるわ……本当よ。だから許してぇ』


 また、声が止んだ。助かったのか? と、一瞬思った。


『この期に及んで自己保身か!! 許さん! 絶対に許さん! 西川!! お前も裏切られたんだ!! お前の愛の仇は僕がとってやるぞ!! 死刑執行! 死刑死刑死刑死刑死刑死刑!!』

『ぎゃあああああうほうおうえほうあさあががががが』


 彼女の断末魔を聞きながら僕はただ震えていた。本当に、ただ震えていた。

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