戦いの果て

 三十四  ノートPC 15.7インチ部分


 大輔は私から「この世界」と名付けられたゲームに関する設定を行う。

「いまどき、ウィンドウズ2000かよ」

 と口にして、ペットボトルの空き容器に入れられた水道水を呑む。こぼれた水がTシャツに垂れていく。ふいに立ち上がると、エアコンのリモコンを探しだして、電源をつける。エアコンから吹き出す冷たい風を全身で浴びてから、よっしゃと叫び、私の前に腰を下ろす。


 三十五  スマホ 3.7インチ部分


 美希には大学に寄って忌引の申請をしてから行くと嘘をついた。また、交通費を貸してくれと頼み一万円をもらい受けてもいた。新宿から宇都宮湘南新宿ラインに乗る美希を見送ったのち、私で検索をかけ、宿泊費も安く、清潔でエアコンディショナーもついている飯田橋のビジネスホテルに逃げ込んだ。

 通称ハローワーク通りに面するこのホテルは、一泊税込みで四、三一五円で泊まれるが、一日五百円のPCレンタル料を合わせると美希からもらった一万円では二泊分の前払いしかできなかった。二日後の九月二八日のチェックアウト時間午前十時には部屋を出て行かねばならない。いちおうは田舎に帰る準備はしてあったので、着替え等は持っていたが、ここを出ても、行き場がなかった。すでにアパートは安全な場所ではなかった。和哉の通夜は明日二七日で、葬式は明後日の二八日となると聞いていた。たやすく激情する美希は「ごめん、どうしても、行けない。俺には他にやるべきことがある。すべてが終わったら、きちんと話す」と書かれた息子からのメールに今頃、我を忘れるほど怒りに駆られているはずだった。美希の電話番号は着信拒否の設定にしておいた。知らぬ番号からの電話にはいっさいでないつもりだった。それでも、美希が誰かを部屋にやって、大輔を連れ戻そうとするかもしれないし、下手をすれば葬式を擲ってでも、自ら大輔の部屋に再度押しかけることもありえた。まだ幼稚園生のころに、隣家に遊びに行って、バナナのにおいつき消しゴムをくすねてきたときは、お母さん恥をかかされたといって、五十円のその消しゴムを十個買ってもたされたうえに、玄関で頭を地面につけた土下座を長々とさせられたのを大輔は忘れていなかった。

 友達がいないというのは、こういうときに困るのだと大輔はつくづく思った。友達がいれば、その家に転がり込むことができた。金だって借りられた。三月の地震のあとは、あれほど人とのつながりを持つことを希っていたことをすっかり忘れてしまっていた。この戦争が終わったら、友達を作ろうと決意を新たにした。大学でも新しいアルバイト先でもいい。あと四日間を戦い抜いたら、以前とはまったく違った人間になっていることに疑いは抱かなかった。他人に何かしらの敬意を抱かれる人間になっているはずであった。親の死さえも顧みずに、自分の生き方を賭けて戦うことを経験した奴はそうはいない。笑いものになることを拒む、使い勝手のない男から、おのずと自分は脱却しているはずだった。アニメもアイドルも興味がないと答えても、うそをついているだけなんて思われはしない。空間の無駄だなどと罵られたりもしない。

 友だちができれば、ロトも手出しはできなくなる。少しでも多くの者から好かれたいあいつは、仲間がいる者を襲わない。輪の中心にいる俺にすり寄ることさえするだろう。

 大輔は小さな机の前に座り、ノートPCの画面を凝視している。画面には無数の警告が表示されていた。大輔の支配下にある多くの町が攻撃を受けていた。大輔は息を呑んだ。立ち上がり、ホテルの部屋の中を歩きまわる。私を手にして、誰かに連絡をとろうとする。急にその手をとめ、ベッドに私を置いて、机に戻る。やはり、名に見覚えのない数多の敵が、画面をいくらスクロールしても読みきれないほどの数の者が大輔の町に襲いかかっている。

 彼らの名前をクリックしなくとも、その無茶苦茶なやり方と、くだらないプレイヤー名のせいで敵の正体はすでに見当がついていた。幸運だった。やつらが最後に大輔をターゲットにした。幸運は、すでにいくつかの町を奪い取っていた。

 最悪のときに最悪の敵が現れた。大輔は笑いたい気分だった。悪いときにさらに悪いことが起こるのがこれまでの人生であったから、こうなる予測はある程度はしていた。だが、実際に直面するともはや笑うほかないようでもあった。

 大輔は私を手にした。呼び出し音を聞きながら、ずっと前に自分はこうするべきだったと後悔する。

 篠崎が電話にでるやいなや「金が必要だ。今すぐに」と大輔はぶちまけた。なにが起きた?!と篠崎が聞いている。「兵隊が必要なんだ。この世界の全員をすべて征服できるほどの兵隊が必要だ」ディスプレイをみながら、大輔はそうひとりごちた。

 

 三十六  スマホ 3.7インチ部分


 交渉する時間などないので、言い値で売るか売らないかを決めると大輔は言った。十分待てと篠崎は答え、電話を切った。

 大輔はPCでこの世界のマップを開きながら、何が起きているのか知ろうとする。幸運はホワイト・ライオットではなく、大輔のみを標的にしているようであった。今さら、なぜ、大輔を標的にするかについて、幸運は何も語らない。ただ、大輔は見に覚えがないわけではない。和哉が死んだと知る前に、この世界のプレイヤーが集まる掲示板で相沢商業二組三番と名を明かしたうえで、幸運に対して挑発を行っていた。「お前らの名前が気に障る。だったら、現実社会で今すぐ、死ねや」。「いつでも相手にしてやる。攻めてこいよ」。あの書き込みを幸運のしかるべき人物が見て、殺すリストの上位に再び名前が掲載されたのだ。

 今はやられるがままのSLAも大輔が幸運とも事を構えると知れば、攻勢に転じる可能性があった。大輔もさすがにSLAと幸運を共に敵とする無謀はわかっていた。だが、むしろ、終わりに向かう中で、あらゆることがおざなりになりつつあるこの世界では、利用できる面もあるようにも思えてきた。たとえば、大輔の町だと思い込み、SLAがすでに幸運に占領された町を攻め込むようなことがあれば、両者のあいだで突発的に戦争となりえた。大輔にとって、これほど望ましいことはなかったし、このことを思いついた自分の戦士の感覚はますます研ぎ澄まされているように思えた。

 そこで思い切って、SLAから奪った豊かな町を打ち捨てることにした。実質的にあと三日と数時間でこれらの町から徴収できるプラグはたかがしれていた。それよりも、無人とした町で、SLAと幸運が潰し合うことに賭けた。

 戦いの根拠地として大輔はふたたびホワイト・ライオットが陣取る中央砂漠に舞い戻ることにした。内規違反を犯し、ホワイト・ライオットを辞めた身ではあるが、知った者と背中をあわせる安心感は他では得られなかった。そもそも、ホワイト・ライオットを辞めたのは対SLA戦に同盟員たちを巻き込みたくはなかったからであって、大輔が一人でかたをつけたといってもいい今となっては、内規違反は実質上帳消しになったとも考えていた。幸運に多少の町を奪われたものの、脱退したころにくらべて、大輔の勢力は二倍近くに膨らんでいた。ランキングの更新はひと月前から停止されていたが個人プレイヤーとして、トップ十以内にも入っているはずであった。大輔は、中学生の時に受けたキャリア設計の授業で、篠原の未来は傘オジサンだと担任に言われ、同級生たち皆から笑われたことがあった。傘オジサンとは中学校の前のスーパーで、濡れた傘を入れるビニール袋を膨らませては振り回すのを日常にしている男だった。気の触れた男になるとみられていた自分であったが、機会と場所さえ与えられれば、こうしてそれなりのことを成し遂げられる。父親の死を顧みることなく戦い続けることで、殻を破り、壁を壊しつつある。

 気分が高まるばかりの大輔は緊急との件名で、脱退以来、ハナゲバラにはじめてメールを送った。SLAとの抗争を生き残り、今はまた幸運と戦っていることを伝えた。幸運がホワイト・ライオットと再びことを構える気配がないかを尋ね、いつでも援助する用意はできていると申し出た。一緒に戦ってくれそうな友好同盟に心当たりがないか聞き、さらに、願わくば、ホワイト・ライオットとも不戦条約の締結を望むことも書いた。脱退の際に友よで始まる長いメールを送ってあったが、あれから、ハナゲバラからの返信はいっさい届いていなかった。

 大輔は自分の父親がハナゲバラではないかとやにわに夢想する。父と子が知らぬ間に共闘していたとすれば、美しい話であったが、それはありえないことだというのを大輔自身がよく知っていた。和哉はせいぜいゲームボーイぐらいしかできやしない。あれほどの統率力も人間的魅力も備わってはいなかった。

 約束の十分を過ぎても篠崎から電話はかかってこなかった。幸運がいくつか大輔の町を奪っていったが、大輔はそれをただ見ていることしかできなかった。

 一時間近く待たされて、ようやく私が振動した。五十万だと篠崎は告げた。

「それ以上は出せない。ほかなら、もっと高く買うかもしれない。だが、明日になったら、おまえの番号を欲している車のディーラーが死ぬかもしれない。そうなると、この話はなくなってしまう。ただの電話番号が五十万円だ。悪い話じゃないだろう」

「売るよ。交渉はしないっていっただろう。五十万円もあれば十分だ」

「いい決断だ。後から振り返って、きっと自分の決断に感謝するだろう」

「具体的にはどうすればいい?」

「手続きがいくつかある。免許証は持っているか? 原付きでもいい。よし。それと印鑑は? まあ、井原なんて名前ならそこらで売っているな。こっちの人間に用意させて、持っていかせるよ。あとはいくつかこちらが用意した書類にサインをすればすむ話だ。たぶん、おまえが思っているよりも、ずっと簡単に済む」

 大輔は篠崎の代理人と飯田橋駅で待ち合わせることになった。彼女が持参する契約書に記入をし、一緒にキャリアーの支店に行き譲渡届けを提出して、金を受け取るまでの流れについて篠崎はくどくどと説明を繰り返した。その間、大輔の目と意識はノートPCのディスプレイに向かっていた。篠崎とのやりとりをあざ笑うかのように幸運が大輔の出立の地である北西地区の町々を襲っていた。長い善政とその後の圧政で荒れ果てた、思い出深き町々であった。大輔は町の住民たちの嘆きの声を聞く。なんとしても、幸運に灰化されてしまう前に、これらの町々を取り戻さなければならない。

「五十万円を全部、プラグにかえて、兵隊にするつもりか?」

 と篠原が聞いていた。

「ああ。それがどうした?」

「サーバー2は終わるんだろう? なんで、今さら、そんなに兵隊が必要になるんだ? この世界は最近やっていないんだけど、何か仕様が変わって、面白くなったのか」

「やめた奴には何も言いたくはない。言ったところで、しょせん、わからない。やめたような奴には何もわからない」

 そうか。まあ、がんばれよ。相棒! 篠崎はそう言い、電話を切る。小馬鹿にしたような篠原の口調が大輔の気に障った。大輔は再度、私から篠原に電話をかける。だが、篠原はいつまでたっても電話に出ない。大輔はPC画面を見遣る。幸運が大輔の町に群がっている。もはや、篠崎を相手にしている時間はない。大輔は電話を切り、ホテルの部屋を出た。


 三十七  スマホ 3.7インチ部分


 斉藤と名乗った篠原の代理人は肌の白い若い女だった。

「こんなに綺麗な人が来るとは思わなかった」

 気持が上ずっているのか、大輔は普段であれば、絶対に口にしないような軽口を叩いてみせた。斉藤は気味悪がることなく、微笑みさえしたので、大輔はますます調子にのり、下の名前は何だとか、女性の年齢を尋ねるのは失礼だと思うけど、年上ですよね? 僕ですが、現役で入った大学二年生ですなどとしつこく話しかけている。

 注意深くみれば、斉藤の笑いには冷ややかなものがあったし、着ているスーツはサイズが大きすぎて明らかに借り物だった。ピアスの穴も片耳だけで、五個も六個も開いていて、普段はまるで違う服装をしていることが見て取れたはずだが、大輔はそれを気色どることができない。

 午後二時の窓口は混み合っていたが、番号の名義書き換えは別の窓口のために、並ぶことなく受け付けられた。予め齋藤が用意してあった書類を提出し、追加で大輔の原付き自動車の運転免許証と学生証を窓口の係員に渡してコピーをとらせるだけで、手続きはいとも簡単に終わった。斉藤は大輔に番号の売買についてキャリアーの係員には話さないようきつく言い含めてあったが、若い女の店員からはなんらの質問も出てはこなかった。

 キャリアーの店舗を出たところで斉藤は学生証のコピーを一枚取らせてくれといってきた。大輔はなんでですか? というが、斉藤は顔をしかめ、電話で話しただけの相手にポンと五十万円を渡すと思う? 身分証のコピーぐらい取らせてという。

 大輔は歩道の上で、財布の中から学生証を取り出して、斉藤にみせた。斉藤はカバンの中からリストを手にして、学生証とつきあわせている。何度も確認したのちに、斉藤は「この大学、本当にあるの?」と訊く。大輔は顔を赤らめ、ありますよ。駅伝大会だって出てるでしょうと答える。通行人が自分のことを振り返っているように感じる。

 斉藤はどこかに電話をかけに行く。その間、大輔は路上で待たされる。私からこの世界にログインしようとするが回線はすでに切り替わっていた。公衆無線をひろおうとするうちに、斉藤が戻ってくる。

「あのねえ、やっぱり、ダメだって。国際学生カードを取ってきてもらっていい? 私も行くからさあ」

 斉藤はそういうと、大輔の手を握って歩きだす。「こっち、こっち。こっちだよ。あっ、そうだ。ガムあげるね」。斉藤は急に華やいだ声を出す。大輔は突然のことに戸惑う。斉藤の変わりかたや、女に手を握られていることに即座に対応できなかった。赤い顔をして、ただ、斉藤に連れられるがままになっている。斉藤が女に不慣れな自分を陥れようとしているのはわかっているつもりであった。国際学生カードなど訊いたこともなかった。ただ、億分の一であっても、国際学生証は単なる手続きであって、手を握っているのももっぱら自分に親しみをもっているだけという可能性もあった。その可能性を考えると、大輔は何もできなかった。

 外堀通り沿いの古い雑居ビルの中に大輔の手を引っ張るようにして斉藤は入っていく。狭いエレベータの中で斉藤は「ラブホのエレベーターみたいだね」と笑う。ラブホテルに行ったことなどない大輔は何もいわずに汗をかく。手のひらの汗が気にかかる。

 エレーベータは五階に止まった。どっちっだっけな? と斉藤は廊下を歩いて行く。法律事務所、会計事務所などの表札がドアにかかっている。斉藤が立ち止まったドアには、ISU(国際学生会館)とある。斉藤は手を握ったまま、大輔をその部屋に引き入れる。

 部屋には眼鏡をかけた中年の女性が奥でパソコンのディスプレイをみている。大輔達に気がつくと、カウンターまで来て「御用はなんでしょう?」と訊く。斉藤は国際学生カードの作成を依頼する。

「ほら、学生証をみせて」

 と斉藤は大輔に促す。大輔は学生証を中年の女性に渡す。中年の女性はそれと引き換えに申請書とその書き方を記した用紙を渡してくる。さっさと書いちゃいなよ。そのあと、お茶でもしようよと斉藤は大輔の耳元で囁いた。


 歩道の上で、大輔は斉藤から金の入った紙袋を渡された。数えるかと訊かれたので、いや、信用すると答えた。「あとでないって言ってもだめよ」と斉藤は言った。大輔は頷き、無造作にポケットに入れた。五十万円の入った封筒は意外なほどに薄く、軽かった。大輔は斉藤に金に困っているように思われたくはなかった。切羽詰まっての行いではなく、五十万円の札束などいつも扱いなれていて、どうとでもいいと思っているように振る舞いたかった。

 国際学生カードが実際に発行されるのは二週間後であった。大輔は国際学生カードの受取証を斉藤にあずけた。斉藤は国際学生証のコピーをとったのちに自宅に送ってくれるというが約束は果たされるだろうか。国際学生カードがいったい、どんな代物であり、どんな悪用の方法があるのか、見当もつかない。大輔は斉藤をみる。悪い奴には見えない。理由はなかった。ただの直感であった。

「お茶はどうします?」

 と大輔は斉藤にいう。あそこにしない。わたし、慣れないヒールでもう足が痛くてと斉藤は駅に併設されている小さなコーヒースタンドを指さした。二人は連れ立って歩いて行く。大輔はもう少し、食事ができるような場所がいいのではないかと思い始めていた。これから向かう先では斉藤と並んで座ることができるかも怪しい。制服を着た小学生たちが改札から出てくる。突然、斉藤は腹を抑える。どうしたの? と大輔は慌てる。

「あたし、昨日、子どもを堕ろしたのよ。ちょっとお腹が痛くなっちゃった」

「えっ?」

「帰っていい?」

 と斉藤は下から大輔を見上げる。大輔はかすかにうなずく。口を開きかけるが、斉藤と目があったままであったので、臆する。

「じゃあね」

 斉藤は自動改札を駆けぬけていく。大輔はあっと声にならない声をあげ、手を伸ばして引きとめようとするが、斉藤はホームに早々と降りて、その姿を消し去る。黄色い帽子をかぶった小学生の集団が次々と自動改札を出てくる。大輔は誰に向けるわけでもなく「まったく、いっつもせっかちなんだからな」とひとりごち、親しい友人を見送るような態をとりつくろう。それから、回線がつながらなくなった私をじっとみる。


 三十八  スマホ 3.7インチ部分


 大輔は外堀通りを飯田橋のビジネスホテルまで歩いていく。ときおり、怒りがぶり返すのか、ぶつぶつと文句を漏らして、見えない傘を振り回すが、立ち止まったり、引き返して斉藤を探しだそうとはしない。ポケットの中の札束をかたく握りしめ、先を急いでいる。斉藤との経緯を即座に忘れられたわけではなかったが、五十万円を持って外を歩いているという事実の方に大輔は次第に怯えはじめていた。落としたり、奪われたりすることは絶対に避けなければならなかった。

 大輔は、さっさと四十万円をネットマネーに換えてしまうことにした。残りの十万円は今日を含めた四日の生活費と、ビジネスホテルで借りたノートパソコンの補償費に充てるつもりだった。フロントでノートパソコンを借り受けた際に、壊した場合一律五万円を貰い受けると言い渡されたときから、どういうわけか自分が最後にこのノートパソコンを床に投げつけ、踏みつける姿が頭から離れなかった。最後に待っているのが勝利であろうと敗北であろうと、割れたディスプレイに向けて吠える己の姿ははっきりと具体性を帯びており、実現しなければならない決められた未来の一場面のように思えた。

 四十万円をウェブマネーに換えるために、大輔はコンビニエンスストアを回っていった。端末機を使うとはいえ、最後はレジフロントで現金を支払わなければならず、一度で四十万円を封筒から出すのは憚れた。それで、一軒につき、五万円の金額に抑えて、目に付くコンビニエンスストアを二軒訪ねていくが、いずれの店員も驚く様子をみせなかった。それで、三軒目で三十万円分を一気に換金した。申し込まれたアルバイトは一度、バックヤードに戻り、そこで小さな笑い声が響いているのを大輔は気がついた。どうせ、オタクが馬鹿なことをしているとでも話しているのだ。人がこれから、大きな何事かをなそうとしているときに、どうして、現実社会ではこうも具体的な行為が必要となるのかとげんなりした。子を堕ろしたとまで言って、逃げていった斉藤の姿が目の前にちらつく。大輔はすべて笑いたくなってくる。どいつもこいつも大馬鹿で、クズだ。ものごとの本当のことを知らない。誤った材料で誤った判断ばかりしている。

 大輔はホテルのフロントで二泊の延泊の申し出た。アトピーをこじらせたフロント係りははっきりと不審な顔をしていたが、大輔はそれも無視した。

 階段を昇っていく途上にあった消火器が視界に入った。かつて、これで人を殺した男の話を聞いた気がするが、どこであったかを思い出せなかった。それに付随して大きな欠落が生じているはずだったが、構わなかった。階段を昇るごとに背中にあったはずの現実が崩れ落ちていっているのを感じた。もう、後戻りはできなかった。戻る先はなかった。


 三十九  ノートPC 15.7インチ部分


 大輔はウエブマネーで、元治安部隊を十五万人徴兵した。一定額以上の金銭を使用する場合、考えなおすように警告が発せられると聞いていたが、何のアナウンスも出てはこなかった。サーバー2の住民への贖罪のつもりであるのか、運営会社はサーバー2限定で、プラグの単価を大幅に値下げしており、想定以上の数の兵隊を徴兵することができた。

 二十数名がかかわったホワイト・ライオット最大の共同作戦においてでさえ、市民兵を含めて五万程度の兵隊を動員するのがやっとであった。それが今では、元治安部隊だけで二十万人を超える大部隊を大輔は一人で動かしている。大輔の気分は否が応でも高ぶった。

 大輔がこの世界から離れている間に、幸運は抜け目なく多くの町を奪っていた。攻撃側に回れば力を発揮するが、守備にまわると戦闘力が下がる元治安部隊ばかりを徴兵していたために、受身に回ると戦況が格段に不利となった。奪われた町の半分ほどがすでに灰化されてしまっている。大輔がこの世界にはじめて与えられた町も灰化されてしまった。中央砂漠の根拠地に兵隊をすべて移す作戦ではあったので、他人のものになる覚悟はしていたはずだったが、やはり諦めきれないものが残った。和哉が死ななければ、美希が部屋に殴りこんでもこずに、「空白の五時間」は生じなかった。あのまま、臆病ものどもを一人ずつ刈り取って、ひとりでSLAを倒すことさえなしえたのだ。運命を呪っても何も始まらないことは理解していた。だが、やはり、己の生まれ持ったものを大輔は思わざるをえなかった。自分は、どうしたって、苦労するように生まれてきた。一歩先には自分を起因しない闇が常に待っている。それが萎縮を生む。

 この世界のマップを見渡し、ここ数日で灰化された町が急激に増加していることに大輔は気がついた。すでに、この世界の三分の一は灰化されているようだった。

 いよいよ終局が近づいている世界において、大輔は、まず、己の軍を再編成することにした。北西地区の町は取り戻すことを諦めた。北西地区は、中央砂漠から兵を繰り出すにはあまりに遠い。南の隠れ砦は維持しつつ、中央砂漠のひとつの町を攻撃の根拠地に定めた。結果的に中央砂漠のひとつの町にとんでもない数の兵隊が駐留することとなった。大輔は、砂漠にある小さな町の住民の気持ちを慮った。一方的に軍事基地にされた、彼らは怯えているのだろうか。それとも、噂で聞く幸運の灰化運動から守っているものとして、多くの兵の駐留を歓迎しているのだろうか。

 軍の再編成を終えると、十以上の町を持ちながら、灰化していない「幸運」の姿を大輔は追い求めた。その目は鋭く、力が宿っていた。いまや、大輔はこの世界と完全に同化している。神のように巨大な姿をして、上から見下ろすのではなく、この世界の町中に己の姿を観ていた。ボロ布のようなデザート柄の迷彩服を着こみ、テントの中でひとりで地図を広げて敵を求めている。ホテルの机の上に置かれた水道水の入ったコップが、砂でざらつく机の上にも置かれてあった。ときおり現れる報告者以外、誰もテントには立ち入ろうとはしない。古参の参謀や上官たちは何もかも知っていた。司令官が父親を亡くしたことも、その死さえも、結局は司令官の決意を揺るがせなかったことを。あとは、司令官のあらたな命令をテントの外で静かに待つのみだ。南の隠れ砦や、北西の湿潤地帯から集められた彼らは疲弊しているが、その目は死んではいなかった。数多の町を占領し、いくつもの戦いを戦い抜いてきた自分たちの王が復讐戦をはじめるのを待ち焦がれていた。大輔はビジネスホテルのドアの外に視線をやる。

 待っていろ。もうすぐだ。

 次に俺がクリックをするとき。そのとき、かつて誰もみたことがない戦争がはじまる。


 四十  ノートPC 15.7インチ部分


 友よ。返事が遅れて、ごめん。

 実はこの夏、体調を崩していて、入院をしていたんだ。

 高齢の母親が化学的に無理やり妊娠して生まれたボクは生まれついて、からだのあちらこちらに不備がある。血管一つとってみても、あるべき路線がなかったり、欠けていたり、過剰だったりとひどいもんだ。体調を崩すことは珍しくもなんともない。

 ボクの人生の中での病院は、プロ投手のローテショーン投手にとってのマウンドぐらいに馴染みのあるものなんだけども、やっぱり、好きになれる場所ではない。ボクとおなじように幼少のころから、入退院を繰り返す人間の中には病院内で仲のよい、医師や看護婦が多くいて、居場所をきちんと造る奴もいる。だが、ボクはそれができない。気分の悪さや痛みを隠すつもりもない。運命は素直にひたすら呪うだけで、健気に頑張る素振りもみせられない。「僕が死んだら」なんて手紙を書くことで涙を頂戴することもできない。ボクは病院でもやはり、嫌な奴で。爪弾きに合っている。

 だから、君からのメールは見ていたけれど、返事をする気力がなかった。脱退の連絡も読んでいたが、なにも対策をとれなかった。友よ。赦してくれ。ホワイト・ライオットをはじめたそのときから、同盟主としてボクはずっと失格だった。偉そうなことをいって、肝心なときになにもできなかった。ホワイト・ライオットは一度はトップ二〇の地位まで登り詰めたのに、愚かな対幸運戦を引き起こし、多くの者を死に至らしめた。彼らが人生の中で、貴重な余暇の時間を割いて、築き上げたものを、まったくの無駄にさせてしまった。学校や職場で得られなかったものを反故にしてしまった。友よ。今や、ホワイト・ライオットにはボクを含めて、六人の同盟員しか残っていないのを君は知っているだろうか?

 この前もらった君のメールによると、幸運どころか、SLAとも戦争をしたそうだね。しかも、君はいまだにこの世界で生き残り、より翼を広げている。幸運とスターライトアライアンスを一度に相手にしながら、いったい、どうやって、無事でいられたのだ。僕は君のことを正直、武力一辺倒の男かと思っていたが、それは誤りだった。君には知恵もある。本当は君が盟主になるべきだった。

 友よ。

 ボクを赦してくれ。

 心の底から申し訳なく思っている。いくら詑びても足りない。

 追伸

 もちろん、不戦条約の件は了解だ。ホワイト・ライオットは君に一切の敵対行動は行わない。するわけがない。本来であれば、共同出兵まで踏み込みたいんだが、ボクはこんな状態だし、同盟員にも余裕がないだろう。もう、ボクは彼らに無理強いができないんだ。

 ああ、今の君はひたすらに眩しいよ。


 友よ。頼みがあるんだ。

 一度会えないか。

 九月三十日の午後十一時五十九分。

 一緒にサーバー2の終結の瞬間を迎えるのはどうだろうか。(君が十九歳の可愛い女の子だったら、どんなにいいかと思うけれど、そして、君も俺が十九歳の可愛い女の子だったら、どれほどいいかと思うだろうが、成り行き上、そこは互いに目をつぶろうぜ!)

 俺はサーバー4へは移住しないつもりだ。

 俺はすべてを犠牲にして、サーバー2で戦ってきた。もう、からだも心も持たない。

 それに、知っているかい? サーバー4ではひとつの同盟には五十人しか所属できないことになっているそうだ。これほど人を馬鹿にした話しがあるか。サーバー2で遅れてきた俺たちがいったい何のために苦労してきたのか。幸運の影の広がりをどれほど恐れたか。それに、同盟員が五十名足らずでは、この世界の統一は不可能だ。結局、俺達に一生、戦争をさせておいたほうが、運営元は儲かるんだ。彼らにとっては、宥和的な同盟(ホワイトライオットのような)による外交をメインにした統一など悪夢に過ぎないんだ。

 世界を作り上げていくのは俺たちだとしても、究極的には、運営の一存で何でも決まるというのは、興ざめするよ。俺はもうこの世界をやめる。二度と、やらない。

 友よ。だから、俺たちが会うのは、これが最初で最後だ。

 気楽な気持ちで考えてくれ。それと、もちろん、俺が君に会いに行く。盟主を呼びつけるようなことはしない。


 友よ。メールありがとう。

 君の提案について考えてみた。

 君が十九歳の女の子ではないのはボクも残念だけれど、ボクも君に会ってみたい。

 でも物理的にそれは難しいと思う。

 まず、ボクは都内にいない。

 つくば市にある個人経営の病院に入院している。

 つくば市がどこにあるか、知っているかい? 病院は市内でも辺鄙なところにあって、車であれ、電車やバスをつかうのであれ、二時間はかかる。

 大戦の最中にそんな移動ができるかい? スマートフォンでは操作ミスが怖いだろう。

 それに、ボクは今、無菌室にいる。無菌室といっても、臓器移植の患者が入るような、完全なものではないが、それでも見知らぬ人間が入るのはきわめて難しい。看護師が監視もしている。君がボクの部屋に入れたとしても、ふたりきりというわけにはいかない。見知らぬ人間たちの前で、一番の幸運は生まれてこないことについて語り合えるだろうか。

 ボクがここを抜けだそうとしても、今は、歩けないぐらいに弱り切っている。

 残念だけど、会うのは無理だ(戦時であるから、難しいなんてあいまいな言葉を遣わない)。でも、九月三十日の午後十一時五十九分には、ディスプレイの前に必ずいる。ホワイト・ライオットのみんなにも声をかけてみる。距離は離れていても、サーバー2の最後の戦いを見届けるよ。


 友よ。困難な状況の中で、返信をしてくれてありがとう。

 たしかに、物理的に会うのは無理のようだ。

 実は俺も今、自分の部屋にさえも戻れない状況におかれている。ビジネスホテルが貸し出すノートパソコンでこの世界に入っている。ある事情でスマートフォンは回線がつながらない。

 確かに、君のいうとおり、長時間に渡る移動は不可能だった。

 今は一日中、戦っている。SLAは沈黙させたが、幸運が相変わらず俺のところに押し寄せてきている。いつものごとく、滅茶苦茶なやり方だけど、なにしろ、絶対数が多いから、厄介極まりない。今朝、ホテルの部長だかなんだかが部屋を訪れてきた。ゲーム宿泊プランっていうのを新設しようと考えていたので、市場調査をさせてくださいなどと白々しいことを口にして、根掘り葉掘り、俺のことを聞いてきた。まったく、人を馬鹿にするのもいい加減にしてほしいものだ。市場調査にどうして、俺の親の所在地が必要なんだ? しかも、なぜ、俺がゲームをしていると知っている。あいつらが俺を怪しんで、ログを調べたり、身辺調査をしようとしているのは明らかだった。指名手配中の逃亡犯か、もしくは、自殺を死にきた田舎者だと思われているのだろう。

 確かに自分でもひどい状態だというのは想像がつく。今のままで、君に会いに行っても、不審者だと追い払われるだけだ。君の意見はいつも正しい。

 それに、実際に会ってどうなるというわけでもないしな。たぶん、君も口下手な方だろう? 変に誤解が生まれては残念だ。

 戦友同士、戦場でのみ会話を交わしていた方がずっといい。

 会う代わりいうわけではないが、一つだけ頼みがある。迷惑をかけておいて、言い出しにくいのだけれども、この世界が終わる、その前のほんのわずかな時間でいい、ホワイト・ライオットにもう一度、俺を入れてくれないか。

 俺は一時期のホワイト・ライオットが本当に好きだった。あれほど楽しい思い出を俺は他にもっていないんだ。脱退してからも、いつも、ホワイト・ライオットのことを思っていた。あの掲示板のあの書き込みの続きはどうなったのだろうかとかそんなことばかり考えていた。

 今残っている同盟員の中に、俺に対して悪い感情を持っている人がいるかもしれないし、対幸運戦に巻き込まれるのを恐れるかもしれない。

 だが、最後の五分でいいんだ。それならば、さすがに敵も攻めてきたりはしないだろう。

 最後はホワイト・ライオットの一員として戦いたい。ただ、それだけだけど、みんなの気分を害するだろうか。


 友よ。君を歓迎する。勇者の帰還に文句をいう奴なんていやしない。みんなで待っているぜ。また、あの掲示板で、長い物限定しりとりをしよう。


 ありがとう。本当にありがとう。最後まで生き残れるようにがんばってみるよ。


 二十九日の午後、大輔には中央砂漠の三つの町のみが残されていた。五十万円で購った兵隊も、すでに大半を失っていた。頼みにしていた南の隠れ砦も、五十人を超える幸運の同盟員からの派兵をうけて、二十三時間の籠城戦のすえに奪われた。隠れ砦が陥落した際には、幸運の連中からご愁傷様と書かれたメッセージが一度に大量に届いた。大輔はそのいちいちにおまえのことは忘れない。絶対に殺すと返事をした。雲霞のごとく押し寄せる幸運の連中との戦いに大輔は疲弊しきっていた。向こうは無能であっても、時間をもてあます無数の指揮官がいて、昼も夜も攻撃してくるのに対して、大輔はひとりきりだった。ビジネスホテルから借りたパソコンは外に持ち出すことを禁じられていた。スマートフォンの回線は閉じられているうえに、無料の無線回線は不安定であり、どうしたって、外に買い出しに行くあいだはこの世界から離れることとなった。このビジネスホテルのどこかにスパイが潜り込んでいるのではと疑ってかかるほど、食事や睡眠の間に幸運は浸透していき、町が奪われて、兵が死んだ。

 この世界の設定においては、流民も敗残兵も存在しないのだが、大輔はホテルの部屋のドアの外に、彼らの気配を感じている。ずいぶん以前に、民たちには他に逃げろと伝えてあったはずだった。だが、終わりが決められている世界の中で、困憊のあまり判断することもできずにただ惰性でついてくるのか、それとも今なお大輔に何かを期待しているのか、共に行動しようとする者があとをたたない。兵たちもいっそう言葉少なくなり、建物に寄りかかり、眠っているのか起きているのか定まらぬほど消耗してしまっている。砂嵐が収まった見晴らしのよい日には、ホワイト・ライオットの根拠群を望むことができた。ホワイト・ライオットの町々は小さいながらも、暴力や破壊からは免れていた。参謀や上官の中には、ホワイト・ライオットに助けを求めてはどうかと考えている者も多いだろう。自分たちがどれほどホワイト・ライオットに尽くしたか、彼らはそれなりに自負がある。だが、大輔はハナゲバラとの約束どおり、最後の瞬間にホワイト・ライオットに加入する方針を変えるつもりはなかった。今や幸運は大輔ひとりを相手にしていた。大輔が一秒でも長く生き残れば、それだけ、ホワイト・ライオットをはじめとしたサーバー2の住民たちが平穏な生活を送ることができた。サーバー4への移住が叶う可能性が高まった。それだけで、戦う理由となりえた。

 二十九日の夜六時を迎え、大輔は市民兵の部隊を前にして、解散を申し渡した。市民兵はすでに、五十を切っていて部隊の体をなしていなかったうえに、移動速度の遅さがこれからの作戦では足手まといになった。大輔は彼らに逃げて生き延びろと言った。生き延びて、この戦いについてのなにごとかを残してほしいと頼んだ。

 残された二万人の元治安部隊をプルトニウム軍団と名づけた。彼らの面前で、大輔は今後、三十六時間の作戦を明かした。作戦はその目的も方法もいたって単純明快なものだった。ともかく、灰化していない幸運の連中の町を奪い続けるのだ。奪った町には守備兵を置かない。残存兵を率いて、すぐに次の町を奪いにいく。幸運を鬼に見立てた、追いかけっこに興じるつもりであった。見てくれはどうであれ、たった一つの町さえ残せれば、この戦いは大輔の勝利となるのだ。


 四十一  スマホ 3.7インチ部分


 大輔は自分自身の顔の写真を数枚撮った。笑いもしなければ、かしこまりもせずに、ただ自分の顔を撮った。


 四十二  ノートPC 15.7インチ部分


 逃亡戦を開始する大輔の意識はこの世界の中にある。空腹や眠気も感じなくなっていた。音や光はこの世界のもののみを受け止めていた。この世界サーバー2が終わるまで、あと二十四時間を残すのみとなった零時に、ハナゲバラから件名を「返信不要」とするメールが届いた。そこには、「ホワイト・ライオットの全員が、今、君の戦いを見ている」と書かれてあった。大輔はホワイト・ライオットの面々がいる方角に向けて敬礼をしてみせた。

 町から町へと機械的な戦争を繰り返していると、ひとりで電車から車窓を眺めているときのように、人の世で起きたさまざまなことが大輔の頭に飛来するようになった。幼稚園の卒園アルバムの寄せ書きで、急に自分の名前が書けずにパニックに近い状態になったこと、その際に担任の教諭が面倒になって、自らがマジックで書き殴ると、「ずっと思っていたけど、そんなんじゃ、本当にろくな大人になれないよ」と言い放ったこと、小学校の運動会で父親がバーベキューの火を起こすことができずに母親が怒って買ってきた肉をグランドに投げ捨てたことなど、脈絡もなく昔のどうしようもない出来事が浮かんでは消えていった。

 東京に出た直後、早朝のマラソンを習慣にしようとした。しばらく、アパートから商店街を経由して公園までの三キロを走った。中学からずっと鈍ったままであるからだを鍛えたかった。健全なからだにこそ健全な精神が宿ると思っていた。あの頃から、自分自身が抱える問題についての自覚はあったのだ。大輔は東京で、大学で、生まれ変わるつもりだった。あのマラソンはどれぐらい続いたのだろうかと大輔は薄く笑う。ゴールデンウィークに帰省するころまでは続いたのか。それとも、スーパーマーケットのアルバイトを八時から十時までに伸ばしたころまでは、続けられていたのか。

 ドカッと大きな揺れを感じた。揺れは長く、段階を踏んで、大きくなっていく。古いビルが固く揺れている。やがて、ブレは収まる。どこで飼われているのか、犬が野太い声で啼いている。明日九月三十日にはより大きな地震が起こるとの噂が流れていた。月か太陽かどちらかが地球に接近し、地面に常とは違う重力がかかるらしい。

 三月十二日の朝、大輔は公園の広場の真ん中から自分のアパートに足をひきずるようにして戻っていった。町は何も変わっていなかった。アパートの前では、煙草を手にした男が、ぼんやりと建物を見上げていた。音や気配では知っていた隣人とはじめてそこで顔を付き合わせた。大輔はこの男にあまり好意を抱いていなかった。煙草を投げ捨てるこの男のせいで、アパートの階段には、吸殻を道路に捨てるなという注意書が貼られるようになっていた。男はその注意書きにも煙草をあて、燃え跡をつけていた。なんとなく、過去に自分に絡んできたタイプの男に思えた。

「見た目はなんともねえけどな」

 隣人は大輔相手に話しかけるというよりもひとりごとのようにつぶやいた。テレビのアンテナの傾きは地震前からのものだった。階段したのタイルが剥げているのも以前からのものだった。

「見た目だけじゃ、わからないですよ」

 と大輔は口にした。隣人は大輔に振り向いた。

「だよな。もう、心配しても仕方ないわ。昨日も、みんな、呑み屋で酒とか呑んでいるんだもん。本当に考えても仕方ねえよな」

 隣人は煙草を踏み消して、部屋に戻っていった。強い余震が襲ってきたが、隣人は面倒そうに少し立ち止まるだけで、そのまま構わず階段を登っていった。その背中をみて大輔もようやくひとりで部屋に戻る気になれた。

 それから大輔は東北本線が宇都宮より北でも再開されるのを待って、実家に避難した。大学の新学期を始まる四月まで、実家で過ごした。

 灯油もきれ、計画停電が行われるなかで、父親と母親と寄り添いながら、生活した。古いスーパーファミコンを持ち出して、父親とマリオカートをした。母親と買い出しに行った。ほとんど話すこともなかった中学の同級生と出くわし、互いに安否を気遣った。みなが優しい時期であった。

 この世界が終わるまで残り二十時間となった。幸運がより数と勢いを増して大輔に押し寄せてきている。十の町を道連れに灰化したいのならば、大輔ではなく、とうにこの世界をやめた者の支配下にある放置された町を奪えばいいだけであるのに、幸運はひたすら大輔だけを狙った。彼らは必死になって逃げる大輔の姿を悦んでいた。自分が幸運を相手にすることで彼らのなかに会話が生まれ、連帯が出来上がっているのを大輔は感じていた。それは自分たちより下等の存在をみつけてあざ笑う、例の昏くて、冷たく粘着したものだった。大輔にとっては、おなじみの、ずっと抗ってきたものだった。大輔はマントを捨てる。崖の上に立ち、あらん限りの声を出して、兵を激励する。負けられない。絶対に負けてはならない。君たちの戦いをみんなが見ている。

 町四つ分の余裕を保ったまま、幸運を錯乱させるためにマップ上の山を一つ越え、幸運が支配する高原の町を一つ奪った。その町に兵隊をすべて移動させたのち、大輔は水を喉に流す。兵も疲弊しきっているはずだが、よくついて来ていた。大輔は空気のよいこの町で彼らに一時の休息をとらせたかった。実際の彼らはただのプラグラム上の要素だとしても、大輔は彼らの息遣いや足音を聞き、その必要を感じていた。また、大輔自身も疲弊しきっていた。大輔はビジネスホテルの小さな机の上に突っ伏した。空高く飛ぶコンドルの鳴き声を遠くに聞きながら、大輔は眠りについた。


 騒々しいアラーム音に起こされて、慌てて机上の時計を見た。前の客が設定していって、面倒なのでずっと解除していなかったアラームが朝の六時半を告げていた。この世界が終わるまで、あと、一七時間半となった。この世界でみる最後の太陽が昇っている。

 大輔は寝起きのひどい顔のまま、わたしのディスプレイをみる。最後には、ディスプレイのガラスを割って粉々にするつもりだったが、今は五万円を払って、買い取ろうと思うほどに私に愛着を抱いているようだった。自分がここまで出来たという証のために、大輔はこれからさきも私をそばにおいておくことを希っていた。

 意外なことに幸運との間にできていた町四つ分のリードは保たれたままであった。幸運もさすがに疲れ、眠りについたのかもしれなかった。兵隊たちを次の町に向かわせて、大輔はホテルのすぐそばにある立ち食いそば屋に赴くことにした。

 

 四十三  スマホ 3.7インチ部分


 店内では同じ作業服を着た男たちが肩を突き合わせながら蕎麦と天丼や牛丼のセットを頬張っていった。彼らのうち、誰かが放屁をし、皆が声を出して笑った。ネギの匂いがする笑い声に大輔は吐き気を覚えた。「アナル遣いすぎなんじゃねえか」と彼らは騒ぎ立てている。筋肉と贅肉が混ざりあった背中を並べる彼ら中で働くのはやはり無理だと悟る。

 戦争のあとのことを大輔は考えないわけではなかった。美希との関係を修復するのは難しかった。「てめえ、このやろう」、「馬鹿かてめえは。死ねよ」などと騒ぎ立てる美希とは話し合いをもつ気にはなれなかった。家を担保に金を借りた美希はすぐにでも家を失うことになり、仕送りどころか、大学の学費も払えなくなるのは目に見えていた。美希からの仕送りがなければ、大輔は学生の身分を失う。自分で稼がなければ住むところもいずれは追い出される。それを考えると、不安に苛まれ、こんなことをしている場合ではないとさすがに腰を浮かしかける。だが、現実にいますぐできることなどなにもない。あの五十万円は最後の金だった。自分にはこの世界しか残っていない。何もかもすでに賭けてしまった後であった。

 若布ののった蕎麦を半分以上残したまま、大輔はホテルに戻ることにした。フロントで声をかけられ、今日のチェックアウトで良かったとか確認された。大輔は頷くが、自分がまた過ちを犯したことにそこで気がついた。案の定、チェックアウトは今日の十時までであり、それ以後は部屋にいることは許されなかった。すぐに延泊を申し出たが、フロントの人間にあえなく断られた。確認もされずに部屋は満室だと告げられた。自殺志願者や指名手配犯ではないとは判断してくれたようだが、それでも、ホテルにとっては歓迎されざる客であることに変わりはないようだった。

 フロントの人間と交渉する時間と気力もなく、大輔はともかく自分のアパートの部屋に戻ることに決めた。美希が部屋で待ち伏せをしている可能性は、数日の潜伏でかなり減じているはずだった。十時までにチェックアウトしなければならないのであれば、幸運に動きが見られない今すぐの方が都合がよかった。町四つ分のリードは変わらないが、次の町をいまだ落とせていない。兵隊の数が減り、圧倒的な力で瞬時にねじ伏せることができなくなっていた。

 大輔はフロントにノートパソコンを返し、清算をすませた。ノートパソコンを買い取ることは諦めた。感傷に浸るのはまだ早すぎたし、フロント係も自分たちのパソコンを奇妙な若者に託そうとはしないことをわかっていた。

 飯田橋の駅に向かう坂の歩道で、多くの高校生とすれ違った。気だるそうに登校する彼らのうち、何人かが大輔のすがたを目の当たりにし、忍び笑いを洩らした。「眼鏡傾きすぎ」と叫ぶ出す者さえいた。「クソが」。「馬鹿野郎が。脱法ドラッグでとんで死んじまえ」。ぶつくさと文句をいい、見えない傘を振り回す自分が本物の狂人のように大輔には思えてくる。自分のことを狂人のようだと思える自分が弱く、消えかかっている。三日前から着替えもしていない大輔は、このまま朝の混雑時の電車に乗って、嫌な顔をされることを厭い、さらに自分自身のからだの気だるさもあってタクシーを捕まえ自宅まで戻ることにした。

 タクシーの運転手に素性を尋ねられた場合、なんと答えようかと心配していたが、運転手は行き先を確認したのちはいっさいなにも話しかけてはこなかった。大輔は私で公衆無線を拾おうするが、どうもうまくいかない。カーラジオが、今日の気温が三十度近くになることを告げていた。学校や職場での節電疲れが深刻化しているとディスクジョッキーが話している。大輔は眠らないように窓を少し開けて外をみやり続け、ズンズンズンズンと一定のリズムを頭の中で刻んでいった。信号待ちの人々に機銃掃討をしかけ、隣の車線を走る車にはバズーカー砲を撃ち放つ。ビルに巡航ミサイルを発射し、運転手を背後からダガーナイフで一刺ししてみた。車は右に左に揺れていき、電柱にぶつかってとまる。大輔は後部座席から無傷で降り立って、集まっていた野次馬たちに斬りかかる……

 それでも、大輔は眠り落ちてしまった。運転手に起こされ、大輔は五千七百円を支払い、車から降りた。アパートの前で、しばらく何もできずに立ち尽くしていた。首をふり、頬を両手でさすってから、錆びた階段を静かに上っていった。

 外から部屋の中の様子を伺うが、誰かが待ち伏せているように思えたし、誰もいないようにも感じられた。逡巡するのも面倒になったので、鍵をあけて、ドアを足で一気に押した。

 和哉が死んだのだと美希に告げられたときから、部屋の中は、なにも変わっていなかった。ユニットバスの蛇腹を開けるが、そこに手首をきった美希などいなくて、飛び散った歯磨き粉が白くこびりついた鏡には大輔のすがただけが写っていた。

 ドアに戻り、そなえ付けられたポストを漁るが、公共料金の領収証と「特選」と大書されたエロDVDのちらし以外はなにも入っていなかった。美希からの手紙、または美希の意向を受けた誰かからの「連絡乞う」といった手書きのメッセージも見つからなかった。予想していたように国際学生カードなる代物も斉藤から返送されていない。

 大輔は卓袱台の前に腰を下ろす。しばらく、エロDVDのちらしを眺めてから、パソコンの電源を入れた。立ち上がるあいだにシャワーを浴びにいった。


 四十四 大輔 


 滴る湯の中で、このまま母親とはあっさり縁が切れるかもしれないと俺は思う。それが悲しくもないし、具体的な行動をせざるをえないような痛みも覚えない。激昂しやすく、己の過ちを認めることがない母とその血を継ぐ息子は、どちらも何も言い出すぬまま、互いの死も定かではない状態で、死んでいくのだろう。フライドチキンを絶つことができなかった父が死に、子がゲームに没入するあまりにその葬式を欠席することで、家族というものが瓦解してしまった。親を失った俺は、大学生ではいられなくなるだろう。

 弱いシャワーの音の中では、不安には事欠かない。俺の国際学生カードなるものがどこかで悪用されている。それがどういったかたちで返ってくるかがわからない。住所を替えた方がいいかもしれないと思う。だが、移住にも金が必要だ。現実社会で、俺のできることはほとんど残されていなかった。

 水をそのまま吸ったかのように重たくなったからだをひきずり、ユニットバスから出た。新たに身につけるものを探したが、みあたらなかった。仕方なく、バスタオルだけをからだに巻いた。そのまま、リュックサックに詰めてあった分の服も外の洗濯機に入れにいった。洗剤がなくなっていたので、隣人のものを勝手に遣った。すべてが煩わしい。

 ひどく空腹であったが、冷蔵庫の中の食料はとうに食いつくされていた。奥に転がっていたマヨネーズを少し吸う。どろりとした油の味に、吐き気を覚える。水道で口をすすぐ。濁った水を流す。畜生。どうして、味などというものがあるのだ。味などなければ、マヨネーズを吸って、必要なカロリーがとれる。それで用が足りる。食べる愉しみなど頼んでもいない。そんなものは俺は求めていないのだ。


 四十五  PCディスプレイ 15.6インチ部分 


 大輔は起動したパソコンの前に腰を下ろすが、どういうわけか、いつまでもこの世界にログインはせずに、腕をうしろに伸ばし、ただ、じっと空の一点を見つめている。ディスプレイがスリープすると反射的にマウスを動かして一度は起動させるが、それ以上のことはしようとはしない。机の上に置かれたマンガ本をパラパラとめくり、何が面白いのか、奥付にずいぶんと長いあいだ視線を落としたままでいる。

 立ち上がり、窓をあけて、隣のアパートとの隙間に広がる空を眺める。「空がねえ」。「金もねえ」。「飯もねえ」。「女はいらねえ」。ラップのように身をふりながら、一度だけ、そんな言葉を吐く。そのあとは妙な静粛が部屋を支配する。

 パッと椅子に飛び乗って、大輔はキーボードに手をおく。カタカタカタとIDパスワードを素早く入力して、この世界にログインする。

 幸運が大輔のことを狩り立てていた。たったひとつ残された、最後の大輔の町に幸運が群がっている。元治安部隊が殺戮されている。

 大輔の耳には彼らの声が届いている。詰め寄る参謀たちのすがたが目前にせまっている。司令官! どこかに向かわなければ我々は奴らに敗れることになる。北西の町から出立し、南の海岸から西の高山地帯、中央砂漠まで今までこの世界で何のために戦ってきたのか。どうして、すべてを犠牲にしてきたのか。司令官! 彼らは訴える。

「生まれなければよかったなんて言いながら、たらふく食っている奴らと戦うことに価値があったんじゃないですか。たとえ、誰も知らぬような場所で行われている戦争であっても傍観を決め込む無数の者どもと同等に落ちないことが、人の世の存続そのものに関わってくるのではないのですか。

 現実社会をも超えたこの戦いが、この対幸運戦が、猿が森の木から降りたとき以来の、新しい世界の構築につながるのではなかったのですか!!」

 大輔は彼らに背を向ける。自分の演説の文言が、気恥ずかしくてならなかった。それはすっかり忘れたい過去になりかわっていた。大輔は設定をクリックし、この世界を退会することを選択する。「本当に退会しますか。データはすべて消去され、復元できません」と確認の表示が出る。私は息を呑む。大輔は躊躇もなく「はい」の文字の上にポインタを移動させ、クリックをする。その瞬間に考えも、迷いもなかった。マップ上にひとつの灰化された町が数秒間表示され、ウインドウが消えた。ただ、それだけのことであった。兵士たちの嘆きも、唖然とする幸運の声も、響き渡らなかった。ホワイトライオットの憤りも、ハナゲバラの怒りさえもなにも伝わらなかった。それから大輔は私に背を向けて、電源コードを抜い………………………………………………………………………………………………………………………

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