人の死

三十二  スマホ 3.7インチ部分


「おまえ、金を送れ。金がない。はやく送れってメールばかりで、理由を聞いてもなんの返事もしてこないし、いったい、どういうつもりなんだよ」

「なあ、わたしが聞いているんだよ。親が聞いているんだ。答えろよ」

 部屋に上がるなり、美希は大声をだして、手にしていたベットボトルのお茶をのどに流した。ベットボトルのお茶なんてお金の無駄遣いの最たるものだと日頃から言っていた美希は髪を脱色し、凹凸が目立つ肌の上に塗られる化粧も濃くなっている。襟元に切れ目がはいり、ブランド名が胸に大きくプリントされているTシャツは大輔の目からみてもセンスがない。かつて、大輔くんのお母さんは着るものが若いねと近所の人に言われたことがあった。あれは決して褒められたのではなく、馬鹿にされていたのだと今になって思い知る。自分はなんと人のよい子どもだったのだろうと大輔は思った。

 母親が窓を開けて、手を盛んに仰いで空気を入れ替えようとするが、建物に挟まれたアパートではどうにもならない。腹立ちげに、布団を足でどこかすさまを目の当たりにしながら、大輔の脳裏を楽しかった小学校の修学旅行のことが走りゆく。あの旅行では、大輔が退屈を紛らわすために京都の天龍寺か竜安寺かの池に石を投げ入れたのが、クラスメートたちの興味を惹き、珍しく輪の中に入れてもらい、皆で池という池に石を投げては笑い転げていた。奈良を訪れたあたりで、同級生や先生のリュックサックに河原や神社の石を密かに入れて運ばせることがはじまり、大輔も途中で、誰かにリュックサックに石を忍ばされていたのがわかっていたがそ知らぬ顔をし、家まで持って帰って、旅の思い出として残そうと机の上に鎮座させた。旅行が終わったのちは、元のとおりに一人に戻った。やはり俺はかわいそうな子だったんだと大輔はいま、あらためて思った。くさい、くさいと母親は玄関のドアを大きく開け閉めして、空気を入れ替えようとするが、トアが軋みを立てるだけであった。指を挟み、「おまえ、ふざげるなよ」と怒りを大輔に向ける。大輔はその姿に自分をみとめる。俺たち親子はかわいそうな存在だ。面白みも可愛げもなく、ただ無様で物悲しい。

「あんた、悪い遊びでも覚えたんじゃないの。学生がどうして、そんなにお金がいるのよ」

「普通は仕送りするもんだろう。無理なんだよ。生活費を自分で稼ぎながら、大学に行くなんて」

「学費は出してあげたでしょう。生活費を自分で稼ぐって言ったのはあなたじゃない。男なら、発言に責任を持ちなさいよ。新聞配ったりして、お金を稼いで大学にかよっている子もいっぱいいるでしょう。そんなにいい電話持って、無駄遣いをしているんじゃないの?

だいたい、今日は学校じゃない? 学校はどうしたの?」

「毎日、大学に行く大学生なんていねえって」

 大輔は母親に構わず私からこの世界にログインする。掃討戦の再開を大輔は望んでいた。五つの町を支配している者どもを駆逐しなければならない。彼らを恐怖にしばりつけておく必要がある。六つ、七つとレベルを上げていき、SLAを恐怖で縛り付けながら、彼らのすべてを撃破するには時間がいくらあっても足りない。サーバー2はもう少しで閉鎖されてしまうのだ。

「で、何しにきたんだよ?」

 大輔がそう訊くと、美希は急に勝ち誇ったような顔をする。大輔が部屋にいたうえに、何らの悪事の証拠も抑えることができずに肩透かしをくらった美希が表情を明るくする。嫌な奴だと大輔はあらためて思った。誰かが誤って、自分が正しいという貴重な機会が、嬉しくて仕方がないのだ。美希は笑ってさえいた。

 美希は芝居がかった声で、「あのね、パパが昨日死んだんだよ。知っていた?」と言った。


 三十三  スマホ 3.7インチ部分


 美希と一緒に駅まで行き、ホームで電車を待った。昔住んでいたところに、このあたりは似ているわと美希は変に明るい声でいい放った。大輔は母親から、若いころの一時期、横浜に住んでいて、パン屋で働いていたと聞いていた。実際のところ、彼女もおそらく、横浜とは名ばかりの、市の中心部から離れた郊外の小さな町に住んでいたのだろうと大輔は思った。そして、朝がともかく早い生活から抜け出したくて、中古のベンツに乗っていた和哉と知り合い、結婚した。ベンツもピンきりで、中古ならば軽自動車よりも安く仕入れられることを美希は知らずにいた。よりによって、言い寄ってきた男のなかで、一番、貧乏な奴と結婚したと美希はよく嘆いていたが、自分の母親がどれほどの選択肢がありえたのか、今の大輔にはよくわかる。

 大輔は私からこの世界にログインする。あんた、喪服ってあったっけ? 高校の時の制服じゃ変かなと美希が話している。「変だろう」とこの世界に目を向けながら、大輔は答える。「だったら、パパのかな。あんた、パパよりも小さいけれど、つめればいいか」。光の当たり加減で、私のディスプレイが大輔自身を映し出す。大輔は、血のつながった父親の死について、まるで悲しんでいない自分自身と対峙する。昼も夜もない生活を送ってきて、脳の働きがおかしくなってしまったのか、または、あまりの事実に、心が自己防衛のために、固まってしまっているのかとも考えるが、その余裕がそもそも、心が痛んでいない証左にも思えた。それどころか、大輔は、これから葬式で、親戚や和哉の知人などと顔をあわせる気苦労の方に気が滅入っていた。スーツの丈をどうにかつめようとする美希との現実的なやりとりを厭わっていた。決して、尊敬すべき立派な人間ではなかったが、和哉は殴る蹴る、生活費を遣い込むといった悪逆非道を行った人間でもないはずだった。今日まで育ててくれた、愛すべきところも備え持った、たった一人の父親のはずだった。

 大輔は影の中に入る。私の液晶をようやく見ることができる。大輔が派遣してあった部隊が五つの町をもつSLAのメンバーを何人か駆逐するのに成功している。大輔は即座にその町で徴兵を行う。

「あんた、パパに最後に会ったのはいつだった?」

 と美希がきいている。

「地震のあとで、実家に行っていたときかな」

「行っていたって。あんた」

 大輔は私から目を上げて、美希を顔をあわせる。お互いに何かを口に出そうとする。親子は違和感だけを共有している。この感じがなぜ生じるのか、別のところに住んでいるせいであるのか、父親が死んだからなのか、互いに相手に答えを見いだせずにいる。

 電車が知らぬ間にホームに滑りこんでいた。

 各駅停車であるその電車に美希は乗ろうとする。次の急行の方が早く着くと大輔は口にした。美希はそうねとわかったような返事をした。

 大輔は私を見ることをやめ、ホームの乗客に向けて立つ看板に視線をやる。不動産屋とビールの看板のあいだに視線を投げかけながら、和哉とのよい思い出を探っている。釣りやキャッチボール、キャンプといった世間では男親が息子に教えるとされているものについて、和哉はときおり、思いついたように大輔と試みようとした。たいていのものが世間並みにできない和哉が同じ血を受けた大輔にものを仕込もうとしても、教師が三流であれば、生徒も三流であり、おまけに釣り竿、グローブ、テントといった用具も粗悪なしろものばかりのために、無様な結果となるのが常であった。釣り針は自転車のサドルに刺さって抜けなくなり、軟球は叢に消えた。周囲にいた慣れた人間たちが助け舟を出してくれるときがあり、そういう時の和哉は相手が息子に近い年齢の若者であっても、徹底した低姿勢で、代わりの釣り針などを分けてもらえるようなことになればヨダレでも垂らすんじゃないかと疑うほど、感謝の言葉を並べたのを大輔は思い出していた。大輔はそういう和哉を恥じていた。まだ幼い頃から恥じていた。無能も、それゆえの貧乏も、救いがなかった。だから、家の中でテレビでも見ていればよかったのだといつも後悔した。

 大輔が大学に行くことに決まったときも、和哉は入学金と授業料の心配ばかりしていて、祝いの言葉をいっさい口にしなかった。

 良い思い出を求めたはずなのに、無残な過去ばかりが表出する。生まれてから、なにもうまくいかなかったくせに、病気は何とかなるだろうと勝手に思い込み、ポテトチップとカップ麺の食べすぎで、あっけなく死んだ敗残者。

 美希は携帯電話を操作し、病院のベッドで漫画を読む和哉の写真を探し当てると、それを大輔に見るようにせまった。大輔は父親の写真と対峙し、黙ってうなずく。ああ、父親が漫画を読んでいるとの感想以上のものをどうしても持てない。

「この漫画、あんたが前に置いていったやつだよ。大輔が面白いって言っていたから読んでみるかって、パパ、これを読んでいるの」

「別に俺はそれを面白いって言ったわけじゃない。暇だったし、ブックオフで安かったら、買っただけだ」

 ぶつぶつという大輔を前にして、美希がやにわにホームの上でしゃがみこんだ。

「ねえ、パパが死んじゃったんだよ? わかってる? ダイスケ、あんた、本当にわかっているの? なんで、そんな平気なのよ」

 大輔はその言葉に応えることができなかった。泣くことも、そうしない理由を語ることもできなかった。何も変わらない空気の中で、立ち上がることもできず、美希は蹲ったままでいる。その姿を見ているうちに、大輔はますます、どうとでもよい気分が募っていく。美希の視線がないことをいいことに、大輔は私からこの世界にログインする。己の兵隊順調にSLAの町を落としていることに満足する。

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