あなたは私を殺せますか?

 この一手で全てが終わる──葉月は、リコのそれを真似て創造した剣を勢いよく振り下ろした。

 顔に振り掛かる血飛沫から目を守るために。そして、潔く死を受け入れるために、リコは固く瞼を閉じた。

 だが、どれだけ待っても、彼女の意識が途切れる瞬間は訪れなかった。

 死の間際の人間は、時間を低速にさせるほどまでに生に執着してしまうのか。

 人間の何倍も生きてきた自分が、それでもなお生に執着してしまうのか。

 リコは──オブリエルは、貪欲で滑稽な自分自身を笑って見送った。見送ろうとした。

けれども、彼女はその場に留まったままだった。

「うぐっ……もう少しだったのに……な──」

 恐る恐る開眼したオブリエルは、口の端から赤黒い液体を垂れ流した葉月の姿を見て絶句した。

 自分は何もしていない。何もできないのに、どうして葉月は負傷をして、どうしてこんなにも苦痛に顔を歪めているのだろう。

 オブリエルの頭は、髪のように真っ白になった。

 葉月は、ふらつきながらも力一杯フリティラリアの前まで移動して、城壁を背凭れに、その場で腰を下ろした。

 直後、オブリエルを支えていた槍が消滅して、彼女はそのまま前へと倒れ込んだ。

 気力は、血液と共に抜け落ちた。そのはずなのに、オブリエルは手足を震わせながらも立ち上がって、葉月のすぐ側まで近付いた。

 対面する位置で限界を迎え、尻餅を付いたオブリエル。

 その不安そうな表情だけで、葉月には全てが伝わっていた。

 ふっと笑みを浮かべて、葉月はブレザーのボタンを外し始めた。

「ほんと、タイミングが悪いなぁ……」

 誰に聞かせるでもない、ただのぼやきだ。

「ふー……」

 ブレザーのボタンを外し終えた葉月が、一日の労働を遂行した大人達のように深く息を吐く。

 だが、彼女の仕事はまだ完遂されてはいない。

 葉月は続けて、ワイシャツのボタンに手を掛けた。

「後少し。もう少しだけ……」

 繰り返される『少し』という言葉は、自分自身に言い聞かせる自己暗示のようなものだ。

「待って!」

 葉月が最後のボタンに触れた時、栓が外れたかのように大きな声を上げて、オブリエルがその手を制止した。

 オブリエルには、葉月が生きるために必要な線を自分で切っているように思えてならなかったのだ。

 だから、どうしても最後のボタンだけは外させたくなかった。

「ダメ……だよ……」

 オブリエルの必死な訴えも虚しく、葉月は全てのボタンを外し終えた。

 それから、呆然とするオブリエルをちらりと見、今度は胸部に刺さったナイフの柄を掴む。

「すー……はー……」

 葉月の頬を、脂汗が伝う。

 それが顎から滴り落ちた瞬間、彼女はナイフを全力で引き抜いた。

「っ──あああぁぁ……!!」

 ナイフをその場に捨て、葉月はワイシャツで傷口を押さえながら蹲った。

「葉月っ!!」

 何が何だか分からない──オブリエルには、葉月に授けられた神の特権が効力を失っている事実を認識できなかった。

「動かないでっ!」

 命を削る魂の叫びが、オブリエルを縫い止める。

 焦りの垣間見える速度で起き上がり、葉月は深く呼吸をした。

「この世界には……私かオブリエルのどちらかが必要なの……!」

 人々を、死の恐怖から救済する葉月。人々を、死の恐怖から守護するオブリエル。

 似通っていて、それでいて正反対な二人のうちのどちらかが先陣を切らなければ、人はたちまちその重圧に押し潰されてしまう。

 落命と隣り合わせのこの世界には、絶対的な“望”が必要なのだ。

「どちらか一人である必要はないでしょう!? 待っていて、すぐに助けてあげるから──!」

「私はもう……助からない。それは、自分が一番よく理解しているよ……それに──」

 葉月は、人生で二度目の死の姿を見て満面の笑みを溢した。

「──それに、嬉しいの。私は、ようやく私に戻れるんだって……そう思うと……」

 笑いながら、泣いていた。

「葉月……」

「変かな、私……えへへ……」

 葉月は、オブリエルに苦笑を見せた。

 そして、真剣な面持ちになったかと思えば、突然胸の刺し傷の内に手を突っ込んで息を止めた。

 その時発せられた音から、息の静止が意図したものではなく、反射的に行われたものであることをオブリエルの耳が捉えていた。

「っ──はぁっ……!!」

 血液と内臓が掻き混ぜられる不快音。葉月が激痛によって漏らす吐息と鼻を啜る音。

 葉月は奏でたくないし、オブリエルは聴きたくないそんな演奏を延々と続けさせるメリットなどない。

 それでも、葉月は一所懸命だった。オブリエルも、そんな葉月を止めることなんてできなかった。

 文字通りの自殺行為を黙って見届けることは、救世の天使に罪の意識を育む。だが、それも長くは続かなかった。

「がっ……あぐっ……!」

 葉月の体内から生まれてきたもの。それは管が繋がったままの心臓だった。

「がはっ……げほっげほっ……!」

「葉月っ!」

 もはや何が原因で噎せているのか分からないほどにボロボロとなった葉月は、伸びてきたオブリエルの手に己の内臓と胸に刺していたナイフを握らせた。

「ダメよ……ダメよ、葉月っ! やめてっ! 私にはできない!」

 オブリエルは、これから起きることを完璧に理解してしまっていた。その上で、懇願するように否定の言葉を口にしているのだ。

 しかしながら、その声はもう葉月の耳には届いていない。

「オブリエル、知っている……? 異世界転生者の心臓は……万能薬……なんだよ……?」

「いらない! いらないいらないいらないっ!! これは葉月のものよ! だから、バカな真似はやめて頂戴……!」

「私のことは……早く忘れてね。もう、どこにも生きていたくないの……」

 きっとその葉月も生を憎み、悪いことばかりをしてしまうから。

 きっとその葉月も死を望み、苦しみ続けてしまうから。

 忘却オブリビオン──それが、二度目の人生にて初めて学んだワガママだった。

「お願い、オブリエル……私を……救って──?」

「ずるいわよ……葉月はいつもいつも……!」

 オブリエルの翼に、小さな小さな希望が蓄積された。

「最期に……これだけ言わせて……?」

 葉月は、今までに見せたことのないような穏やかな笑顔をオブリエルに向けて、言った。

「あなたは私を殺せますか?」

 振り上げられた刃物は、紐のように簡単に切れる管を切断した。

 遺された心臓は、まるで葉月の生に対する執着を体現するかのように、ずっと脈を打ち続けた。

「何が……救済よ!!」

 震えが収まらない身体を抱き締め、オブリエルは大地に心の叫びを叩き付けた。

 そう。こんなものは救済でも何でもない。

 オブリエルは、何も救われていない。

 一歩届かなかった手足はすっかり冷えきって、胸中には不愉快極まりないモヤモヤした感情だけが渦巻いている。そして、三碓葉月の笑顔が、呪いのように脳裏に刻まれてしまっている。

「バカ……バカッ……!!」

 それからオブリエルは、赤子のように声を上げ、子供のように顔をくしゃくしゃにしながら泣きじゃくった。

 一頻り涙を流して、オブリエルの心に僅かな平穏が戻った時、もう活動をやめてしまった心臓が、物言いたげに彼女の視界内へと飛び込んできた。

「葉月──あなたのバトンはちゃんと受け取ったわよ」

 オブリエルは、自分らしいやり方で人間を救済することを誓った。

 その未来が、必ずしも平和に繋がっているとは限らない。それでも、オブリエルは歩みを止めたりしない。

 それが、葉月の友としての使命であると信じているから。

 ──青い空。白い雲。爽やかな風は、芽吹いた緑を優しく撫でる。

 そして、少女の背中には、それはそれは立派な二つの白翼が生えていた。

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