だからもう、救われていいんだよ
膨らむ夜色の膜は、あっという間に王都をスノードームが如く包囲した。
壁に阻まれているせいで、中は完全にシュレディンガーの猫状態にあり、それがまたオブリエルの心をざわつかせる。
「ねぇ……皆は無事なのよね?」
この期に及んでまだ葉月を信じ続けようとするオブリエル。あまりにも現実の見えていない彼女の発言に、葉月は溜め息を吐き出すしかなかった。
「耳を澄ませてみて」
オブリエルは、葉月に言われた通りにした。だが、その行動に意味があるとは思えなかった。
それでも、きっと何か理由があるのだとオブリエルは傾聴を継続した。そして、遂に葉月の真意を汲み取った。
「何も聴こえない──?」
無。それが答えだった。
賑やかなはずの王都が。混乱する人々が。死に直面した人間族が、沈黙を貫くわけがない。
それはつまり、住民が黙らざるを得ない状況に追い込まれているということを指す。皆が、無事ではないということを意味している。
葉月は、思考を放棄しているオブリエルのために一つの問題を提示した。
「救済には力がいる。力を得るためには人間の心がいる。じゃあ、力を得た私が取るべき行動は?」
解に意味などない。この問いは、十歳の子供でさえも答えられるような易しい内容なのだから。
「……あなたの考えはよく分かったわ。つまり、私は選択を誤ったというわけね」
葉月は、首を横に振らなかった。
刹那、突風が轟き、オブリエルに瞬間移動顔負けの高速移動をさせた。いや、オブリエルによって空気が移動させられたのだ。
その手に握られた光の剣は、他でもないオブリエル──リコの精神そのものだった。
己の首に噛み付こうとしてくる光の剣に対処すべく、葉月はバリアを展開させた。
それから、槍を五本出現させてリコを襲わせた。
互いが互いの攻撃をガードし、第一フェーズは引き分けに終わる。
第二フェーズで先攻したのは、またもやリコだった。
葉月の足に、自身のそれを引っ掻けて払う。
体勢を崩された葉月は、慌てて羽をばたつかせて空へと逃げた。
「獲った」
上下左右を剣で包囲され、葉月はその場で留まる以外の選択肢を奪われてしまう。
しかしながら、彼女はその状況を微塵も危機とは感じていない。
表情にも現れている葉月の余裕を感じ取ったリコは、容赦なく剣を獲物の方へと移動させた。
一本たりとも同士討ちしない完璧過ぎる配置。そこまで気を配っても、葉月のバリア一つで無駄な行為に終わってしまう。
否。まだ、リコのターンは終了していない。
破片となった剣は、再度葉月に突撃してバリアを張らせた。
五秒に渡る猛攻が終わり、葉月はリコのいた方へと視線を移す。
「消えた──? 何てね」
揺れ動く空気の微細な変動を一切見逃さずに、葉月は背中側にバリアを集中させる。
目視するまでもない濃厚なオーラを剥き出しにしておきながら、不意を突こうなどととは思わないことだ──葉月は、天使の焦りと自身の優位性を確信して、内心歓喜しながら踵を返そうとした。
「闘志を放ち過ぎだよ、オブリ──」
煌めく一閃。両断される右翼。
繋がりを失った負の感情は即座に成仏し、葉月のバランスを崩す。
バリアはちゃんと出ている。リコの放った剣も、その破片も凌ぎ切ったものだ。だから、葉月が手を抜いたわけではない。
硬度が下がっていたのか。否。葉月の盾には永続的に力が注がれているため、欠損は即刻修復されて基の硬さを取り戻す仕組みとなっている。
葉月に油断はない。ではどうして、リコの矛が葉月の盾を上回ったのだろうか。
その答えは、翼と同じように切り裂かれたバリアそのものにあった。
夜の帳に輝く天の川。白き光は無造作に並べられているわけではなく、とある目的のために住みかを選んでいる。
バリアが再生されないように、破片よりも更に小さくなった光が溝を埋めていたのだ。
これによって強度を落としたバリアは、もはや脅威でも何でもない。
いつも通りに剣を振るえば、勝手に玉砕してくれるのだから。
葉月の身体が落下を始めた瞬間、リコは大きく片翼を振って時間を稼ぎ、位置関係をよりよいものにする。
それから、構えた剣を全力で葉月へと投擲した。
瞬きのうちに葉月の腹部を貫いた剣は、己が持つ速度を彼女にも分け与える。
土煙が大木の高さまで昇るほど威勢のいい墜落をした葉月の肉体は、再生に幾許の猶予を必要とした。
リコは、知ったことかと四本の剣を展開して、葉月の両腕と両腿を狙撃する。
杭を打たれた葉月は身動きが取れなくなり、その間にリコは安全な着地を実施した。
(形勢が逆転するの早すぎない……!?)
圧倒的なまでの戦闘技術差を前に、葉月は少しでも天使を越えたと思ってしまったことを後悔し始めていた。
単純な殺し合いでは、まるで歯が立たない。リコが経験したことのない、前代未聞の一撃でも思い付かない限り、葉月に勝ち目はないと見ていいだろう。
等間隔の靴音が、葉月にリコの接近を知らせる。
(……ここは、離れた方がよさそうかな)
葉月は、わざと剣に裂かせるように腕を引いた。肉と骨が楔のように断たれた様は葉月の口内を酸っぱくしたが、すぐに再生すると自分に信じ込ませることで事なきを得る。
葉月の奇行を警戒したリコは、三本一組とした三つの剣部隊を放った。だが、それらはバリアによって粉砕された。
「はぁっ……!」
葉月は、脚に突き刺さった信仰の証を掴み、手のひらから不敬虔を溢れ出させる。そうすることで、剣を破砕しようとしているのだ。
「そんな猶予は与えないわよっ!」
リコは、地を駆ることで一気に葉月との距離を詰めようと目論んでいた。単純な策故、葉月もすぐに気が付いて槍を召喚させ始めたが、どれもリコを射止めるには力不足だった。
時に避け、時に跨ぎ、時に弾いて槍に対応するリコ。そんな時、葉月が右足の剣を砕いた。
(──慌てる必要はないわ)
急いては事を仕損じる──この冷静さが、リコを勝者足らしめた要因だ。
葉月という強敵との戦いだけでなく、天まで伸びる階段の召喚や、二万本の剣を展開したことによる疲労が積み重なっている今、平静を保つ重要性は更に高まっている。
剣や盾の新規展開は最小限に留めておき、極力手に持った一振りだけで葉月の元へと駆け寄る──リコは、そんな未来を想定していた。
葉月も疲労しているのか、宙を駆ける槍にはこれまでのような勢いがなかった。
(これならいける──!)
障害物を的確にいなし、リコは勢いに乗って一気に前進をする。
葉月の両手が、左足に刺さった剣を握り潰す。
自由の身となった葉月は、後方への跳躍と同時に大地を激しく燃焼させ、リコの行く手を阻もうとした。
しかし、リコは炎の頭を軽く飛び越えて葉月を視認した。
リコと葉月の間にできた溝が、一瞬で埋め立てられた。
「──終わりよ」
構えの姿勢を取り、リコが剣を振り下ろそうとした刹那、想定外のところから飛び出してきた槍が彼女の胸に突き刺さった。
「なる……ほどね……」
疲弊しきった肉体と精神を騙し騙し酷使していたリコには、この一手が必殺の一撃のように感じられた。
すっかり脱力してしまった手から、剣が滑り落ちる。
光の剣は、接地すると同時に霧となって散っていった。
「がはっ……!」
それから、追い打ちとばかりに、五本の槍が焚き火でも始めるかのように地中から顔を出して天使の肉体に穴を空けた。
もう、リコには身体を支えるほどの筋力さえ残されていない。槍の支えがなければ、そのまま大地に突っ伏してしまうことだろう。
葉月は、自分で作った風穴が塞がるのを待ってから優しくリコの髪を撫でた。
「あなたは、誰よりも頑張ったよ。だからもう、救われていいんだよ」
「救……われていい……」
捨てたも同然の命を拾って、早二百数年。気付いた頃には、既に人間の寿命を遥かに超越していた。
長命──それは神の慈悲であり、呪いでもあった。
多くの出会いがあって、その数だけ別れの痛みを味わう。天使は何度も泣いて、叫んだ。そうしているうちに、また次の出会いがあって、心の傷を塞いだ。
その遭遇が離別した人の子孫だった時は、天使に不思議な感覚を経験させた。
まるで、同様の時を二度繰り返しているような……そんな、夢のような一時を。
此度の出会いは、何度目の忘却の果てにあったのだろう。
ここに辿り着くまでに、どれほどの傷を負ってきたのだろう。
覚えきれないほどの死を目の当たりにして、自分はどこまで強くなれたのだろう。
──どれほどの希望を、この背で受け止めてきたのだろう。
天使の脳裏に、走馬灯と自問が湧き出してくる。
その度に、葉月の救済に対して恐怖心が芽生えてくる。
(やっと、長命の苦しみを理解してくれる人と出会うことができたのに……この命はもう、深い眠りに落ちようとしているのね──)
死の恐怖。別れの恐怖。これが、葉月が誰にも感じさせまいと思っていた感情だ。
悔恨の収集のために意図的に発生させたものでもあったが、それはやむを得ない犠牲というものだったのだろう。
「怖いよね。苦しいよね……待っていて。今、私が取り除いてあげるから──」
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