だから私は殺さなかった
落下による衝撃を緩和され、原型を留めたまま降り立った葉月の頬を、間髪入れずにシャルルが叩いた。
「何を考えてるんだ君は!」
肩を強く掴み、逃げられないようにしてから、シャルルは腹の底から吹き出てくる息に音を持たせた。
その絶叫は、先頃執り行われた善と悪の激しいぶつかり合いを凌駕するほど迫力があるものだった。
「何って……私は、失う恐怖から皆を救ってあげているだけだよ」
シャルルとは対照的な発声で、葉月が質問に答える。
その内容はシャルルの逆鱗に触れるもので、激昂した彼女は龍の咆哮のように次々と言葉を吐き出し始めた。
「何が救うだ! いいか? 死は救いなんかじゃない。逃げ道なんて以ての他だ! そこに希望はない。待ってるのは地獄だ!」
「死んだこともないくせに──死の恐怖を知らないくせに、知ったような口を利かないでよっ!」
「ああ知らないさ! でも、それが怖いことだっていうのは私にも分かる! だって、葉月がこんなにも恐れてるんだもん!」
葉月は言葉を詰まらせた。
「だから私は殺さなかった! あの日、この場所で、君の嘆願を拒んだんだ!」
結果的には、神の特権を授かっている葉月を殺してしまっても、彼女が死ぬことはなかったのだろう。
鉄球を叩き付けていても、きっと未来は変えられなかったのだろう。
それでも、シャルルは葉月を殺めなかった。
「君は、私が救った確かな命なんだ。だから、そんな簡単に自分を捨てようとしないでほしい」
「救った──か。私にとっては、大きなお世話以外の何物でもなかったんだけれどね」
ずっと死にたくて、やっとの思いで生きる覚悟を決めることができた。しかしながら、その決心は破棄された。
最低最悪、しかし非の打ち所がない最期で、めふぃすとが人間になってしまったためだ。
唯一の救いであった彼女との出会いという奇跡さえも自分の首を絞めると言うのであれば、もう、生きていたって苦しいだけだ──葉月がこのような結論に達してしまった時点で、シャルルの不殺が悪手と認定されてしまっても文句は言えない。
「それを踏まえた上で、あえて言わせてもらうわ。その余計なお世話が救いへと変貌する前に──シャルルがもっと大切な存在になる前に、あなたにも消えてもらわなくちゃいけない」
「……考えを改めるつもりはないってことだね?」
葉月は首を縦に振り、まだ見えない何かに視線を向けるように王都の上空へと移した。
「私はもう、戻らないし戻れないから──」
急速に訪れた夕焼け。世界は赤と黒を混ぜ合わせるパレットと化して、人々の関心を一身に受けた。
葉月と同様に、移ろう空の方へと顔を動かす人達。彼らの瞼は千切れんばかりに見開かれて、大きく開かれた口からは、声どころか息すら飛び出てくることはなかった。
そう。王都に影を落としたものは、太陽でも時間でも神でもなかったのだ。
「暗幕に閉ざされた劇場 《ブラックアウト・シアター》……!?」
ヴァンパイア族が代々語り継いでいる秘技の効果によって、物理的に光が届かないようにされていたなど、誰にも予想できるはずがない。
しかも、それが空を覆った暁には、決まってヴァンパイアによる鏖殺が待ち受けている。目や口の一つや二つ、開けっ放しにしたくもなるだろう。
「残念ながら、ハズレみたいだよ」
葉月は、大きな瞳をキツネのように細めて、コウモリ達から降り注ぐ線を注視しながらそう言った。
オブリエルとシャルルも同様のことをして、暫しの沈黙を挟んだ後に線の正体を完全に理解してしまった。
「血の雨……?」
比喩表現などではなく、それは正真正銘鉄の臭いがする赤黒い液体だった。
降る血液がどこで、どのように生まれているのかは窺えない。だが、少なくともそれはコウモリの体内から流れているわけではないということは推測できた。
「ヴァンパイアって、血を得るとどうなるんだっけ……?」
大切なことを思い出そうとするように。わざと忘却したふりをしているように。シャルルは、オブリエルに回答を求めた。
そんなシャルルとは相反して、オブリエルは平静を保ったまま淡々と模範的な答えを口にする。
「身体能力、免疫力、治癒力……その他様々な力が飛躍的に向上するわ。簡単に言えば、弱点を攻撃されない限り無敵の存在になれるってところかしら」
「ヤバいじゃんそれ! 早く応援に向かわないと!」
「その必要はないわ。だって、私がここにいるんですもの」
話し終えた直後から、オブリエルの目の色が変化した。
神秘的で、それでいて緊張感がある天使の一瞥。
たったそれだけで、この問題は解決するはずだった。
「っ──!」
短く息を吸引し、オブリエルは回避運動のために身を捻らせた。
それは、シャルルの肌が警戒によって痺れを感じてしまうほどの早業だった。しかしながら、負傷を免れることはできなかった。
「葉月っ……!」
葉月は、怖いくらいの真顔で透明な剣をオブリエルに薙いでいた。
狙いは首や胴体といった甚大な被害を生じさせる箇所ではなく、致命傷は負わないものの、人体の弱点として数えられている両目だった。
「流石に、そう上手くはいかないね」
自然と血の涙が流れ出る右目を押さえながら、オブリエルはギロリと片方の目だけで葉月を睨み付けた。
「葉月ぃ!」
葉月は、掴み掛かってくるシャルルの腹部に膝を入れ、蹌踉めいたところに容赦なく蹴りをぶち込む。
「がはっ……!」
「シャルル……!」
駆け寄ろうと試みるオブリエルには、葉月が辻斬りから拝借したとてもよく切れる刃がお見舞いされる。
当然のことながら、オブリエルには二度目の斬撃が当たるはずもない。
シャルルへの接近を諦め、彼女は一度後ろに跳躍した。
「……目を潰せば、あの暗幕を捲ることはできなくなるとでも思ったかしら?」
「……違った?」
オブリエルはフッと笑みを浮かべて、腹を押さえて蹲る騎士の少女を呼び掛ける。
「シャルル、一分だけ時間を稼いで頂戴!」
「っ……! 引き受けた!」
シャルルは、立ち上がると同時に手袋を外した。続けて、目にも留まらぬスピードで鍵を回し、封印されていた鉄球を目覚めさせた。
「やぁっ!」
サイコキネシスによって重量を無視された鉄球は、プロペラのように何度か回転をした後、地響きを引き起こすほどの衝撃を葉月へと送った。
「容赦ないね」
手の甲に出現させたバリアでダメージを無にした葉月は、苦笑いを浮かべながらそんな言葉を溢した。
「これも、葉月を助けるためだよっ!」
自身を宙に浮かべ、勢いが死んでしまった鉄球の上空を通り過ぎるシャルル。その時に生じた力を加えて、効率的に鉄球を自分の上まで浮かべる。
シャルルはすかさず後方を振り向き、スイカ割りでもするかのように全力で鎖を葉月へと振り下ろした。
追従する金属の塊が、またもや葉月へと襲い掛かった。
「くっ……!」
今度は、両腕をクロスして重圧を消し去る。
天使を凌駕する身体能力を獲得した今の葉月であれば、シャルルの攻撃など容易に回避することができる。だが、それはあくまでも理論上の話だ。
シャルルの攻撃方法は、葉月でさえも防ぐことで精一杯なほど斬新かつ変則的だった。
いつ、どこから、どのタイミングで飛来するかも知れない鉄球を躱すことができるのは、未来を視る能力を保有する人物くらいだろう。
そんな神の特権など授かっていない葉月は、拘束されているわけでもないのに身動きが取れない現状に焦りを感じていた。
オブリエルが、難解な単語を詠唱していたからだ。
何を引き起こすための準備なのかは二人共未知だったが、少なくとも、葉月のメリットとなるものでないことは明白だ。
そう仮定するのであれば、阻止しない手はない。そのためにはまず、騎士と金属の舞踏会を閉会させなければならない。
「それっ!」
地面を擦りながら突進してくる鉄球をわざと自分の身に直撃させ、葉月は高速でシャルルの射程外へと飛び出す。
シャルルを撃ち落とそうとしてすかさず槍を数十本放つ葉月だったが、せり上がってきた鉄球に計画を阻害されてしまった。
「読み通り!」
葉月は、シャルルの鉄球が移動した時を見計らって、オブリエルの足元に炎を出現させた。
「しまった──!」
足止めに熱中し過ぎて、当初の目的を失念してしまっていたシャルルは、空中に静止させた鉄球を蹴ってオブリエル救出作戦を実行した。
「──いいタイミングね」
瞬間、オブリエルの胴体に触れたシャルルの全身に、静電気のような衝撃が走った。
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