オブリエルにも思いが届けられるかな?

 前世の葉月は、誰かを救えるのであれば命さえも惜しくないと思っていた。

 人に尽くし続けた見返りとして、恵まれた環境、幅広い情報網、歩という魂の伴侶を手にすることができたし、自分の力で皆を笑顔にする快感は、何物にも代え難い心地よさがあった。

 だから葉月は、死ぬまで誰かのために命を浪費し続けた。

 そんな彼女に贈られた最後の見返りは、全てを失う恐怖という名の感情だった。

 その瞬間まで大切にしてきたものに牙を剥かれる感覚を、誰かに知ってほしくない。無論、その『誰か』には、オブリエルも含まれている。

 だから、葉月は最終警告をした。

 オブリエルが、歩みを止めてくれることを期待していたのだ。踵を返して、自分のために生きてくれることを希望していたのだ。

「それでも、私は前に進み続ける」

 だが、当のオブリエルはきっぱりと葉月の助言を突っぱねた。

 であれば、葉月が致す行動は一つだ。

「──私があなたを殺します」

 円を描くように、夕闇色の槍が空中に等間隔で並ぶ。

 それらは、勢揃いすると同時に弾丸のような速度でオブリエルに襲い掛かる。

 オブリエルは、的確に槍の射線を見抜いて盾を展開し、迫りくる全ての攻撃を軽くあしらった。

 最後の槍が弾き飛ばされた瞬間、葉月は攻撃方法を炎へと変更した。

 こちらは、槍のように出現させてから位置をずらすものではなく、座標を指定してから現界させるという手順であるため、回避が困難だ。

 視線を前方に奪われているオブリエルには、高確率で命中することだろう。

 葉月の推測は見事的中し、黒き焔は白き天使を包み込んだ。

 僅かに口元を綻ばせる葉月だったが、その笑顔はすぐに崩されることになる。

「──散華」

 オブリエルが静かに呟くと、彼女を取り囲む闇と熱が破裂するように散り散りとなって無に帰した。

「……流石に手強いね」

「もう諦めたら?」

「それとこれとは話が別だよ!」

 葉月は、大地を蹴った後、羽を巧みに操って地面と平行に宙を滑空する。

 一秒にも満たない速度でオブリエルとの距離をゼロにし、その側頭部目掛けて爪先を叩き付けた。

 しかしながら、またもやオブリエルの盾に打撃を阻害されてしまう。

 葉月も負けじと応戦するが、オブリエルは更にその上をいっており、視線一つ動かすことなく猛攻を凌ぎ切った。

「まだ力が足りないか……だったら──!」

 葉月は軽く跳躍し、オブリエルの頭部に現れた盾と足裏を密着させる。

 踏み付けた力をバネにして、素早く上空へと飛び出した葉月は、その身が地上へと帰らぬよう羽を振って空中に留まり続けた。

(空からの攻撃か……!)

 片翼を潰され、飛ぶことができなくなったオブリエルには効果的な位置取りだが、それも彼女の防御を突破できる破壊力があってこその地の利だ。

 空から豆を落とされても大きな怪我を負わないように、盾を突破できない攻撃ではどこから攻めようと差は生じない。

 しかし、オブリエルは深刻な思い違いをしていた。

「葉月──あなたはどこを見ているの……?」

 葉月は、オブリエルのいる下方など視界の端にすら映してはいなかった。

 その目が見据えるものは王都フリティラリア。ひいては、その王宮に他ならなかった。

「王様方、長らくフリティラリアを存続、統治してくださってありがとうございました。王都の陥落を目撃することは心苦しいでしょう。ですので、一足先にその恐怖から救済して差し上げましょう──」

 葉月の頭上に、王城をすっぽり収めてしまうほど大きな魔方陣が出現した。

 紫色に輝くそれはじっと王城を睨んでおり、中心点から透明感のある黒色の球体を吐き出し始める。

 葉月は、良からぬことを企てている──そう直感で悟ったオブリエルは、五百近い剣を天に向けて撃ち放った。

 オブリエルとの距離は三十メートル。天使の剣と言えど、多少の速度減衰は発生しているだろうと葉月は油断をしていた。

「っ──!」

 予想以上の攻撃力を残したまま飛来するそれらは、自分や球体に悪影響を及ぼしてしまう。

 頬を走る赤い線を手の甲で拭い、葉月は地上に槍の雨を降らせた。

 全ての剣を弾き返せなくてもいい。オブリエルに命中させる必要もない。ただ、時間を稼げればそれでいい──葉月の願望は、神に聞き届けられた。

 魔方陣の拘束から解き放たれた球体は、飛翔する鳥と同等の速度で宙を駆け抜ける。そして、城の屋根と接触するや否や、クラゲのように傘を広げてすっぽりと王宮とその近辺を包み込んでしまった。

 この能力は痛みを与えない。絶望も生むこともない。肉体を抉ることなく、建造物を傷付けることなく、その内部に至るまでのあらゆる生物から、ただ魂を抜き取るだけだ。

 その微細に残された良心が、難を逃れた人間達の心に形容できない恐怖心を誕生させることになる。

「恐ろしい……ですよね。ですが、安心してください。次はあなたの番ですから……」

 語り掛ける声は、雪のように弱々しい。なのに、何故か隣で話し掛けられているように、はっきりとした言葉が耳から脳へと伝えられている。

 怖い。死にたくない。意味が分からない──恐れ、畏れる人々の視線が、諸悪の根源集まる。

 抗えない死の切迫に追い詰められる民草は、気が動転して所構わず破壊活動を開始したり、側で避難誘導をしていた騎士を罵りながら暴行したりと、どちらが化物なのか分かったものではない行動を起こし出した。

 そして、彼らの放つ憤怒と悲観の感情が葉月の羽へと吸い込まれていき、力となっていく。

 負の感情の蓄積が落ち着いた頃には、既にオブリエルよりも大きな羽が完成されてしまっていた。

「これなら、オブリエルにも思いが届けられるかな?」

「くっ……!」

 とうとう、人々の希望を絶望が超過してしまった。

 希望の具現化である自分が、絶望の増幅を抑えることができなかった。

 オブリエルが感じる自責の念は、人間では想像すらできないほど巨大で、天使では感じることができないくらい巨悪なものだった。

 だが、今は後悔をする時間ではない。

 劣っていようが小さかろうが、それでも自分が彼女を止めなければならない。彼女を救ってやらねばならない。

(まだ、心は折れていない──!)

 希望と正義感が混在する強く眩しい瞳が、葉月の内に落胆と愉悦を芽生えさせる。

「こんな状況でも前向きでいてくれてありがとう、オブリエル。きっと、私があなたを助けてあげるから──!」

 空に浮かぶ無数の槍。道に迷った渡り鳥のような影は、新たな居住地として地上を選択した。

「ぐっ……うおおああぁ!!」

(……何百年ぶりかしら。全力を出したのは──)

 二万の盾が、敵軍の魂の一撃を受け止める。

(……何百年ぶりかしら。人類のために戦うのは──)

 武器達が放つ金属音のような雄叫びと、欠けゆく命の破片の間を縫って、勝利を誓う二万の剣が悪へと突貫する。

「届かないよ」

 剣の前に出現した六角形のバリアが、接触する端から脅威を完膚なきまでに粉砕していく。

 剣とバリアは二人の潜在能力の差を顕著に表現しており、今のままではオブリエルに勝機がないということは誰の目にも明らかだった。

 それでも、天使は笑っていた。

 それも、お淑やかな令嬢の笑みではなく、汗と土に塗れた怖いもの知らずの歪んだ微笑みだ。

 そして、彼女の気分は最高潮まで昂ぶっていた。

(……何百年ぶりかしら。これほど楽しい戦をしたのは──!)

 粉々になった剣が、星の欠片が如く煌めきを纏ってゆらゆらと落ちていく。

「──こちらこそありがとう、葉月」

 刹那、散開したピースが再び天を目指し始めた。

 ──英霊達は、ふてぶてしくもまだ戦闘を放棄していなかった。砕けてもなお、勝利を夢見て挑戦し続けていた。 

「おかげで目が覚めたわ」

 ようやく、隠されていた味が出たと言うべきだろうか。

 オブリエルは、彼女が操る剣や盾と同じ一介の兵士としての顔を取り戻した。

「私はリコ。トライアングル・ウォーにて、人間族に勝利を齎した戦乙女よ!」

 彼女の声に呼応するように、破片達が疾風迅雷の突撃を行う。

「無駄な足掻きだよ……!」

 展開された葉月のバリアは、剣三万本程度のダメージならば容易く防ぎ切ってしまうだろう。

 しかしながら、相手は十万の闘志だ。それに、彼らは呆れ返るほど図太い。

「バリアがっ……!?」

 リコの猛攻がちょうど半分に差し掛かった頃、葉月を守る負の感情に亀裂が走った。

「よく覚えておきなさい! 人間は、恐怖を乗り越えられる生き物なのよ!」

 薄い膜が裂ける音と共に、バリアはその効力を失った。

 遮るものを排除した欠片達は、ある者は栄光を手にするべく、またある者は分かり合うために葉月へと力を行使する。

「私は……こんなところで──きゃっ!」

 負傷のたびに再生を繰り返す肉体と違って、翼は簡単に傷を捨てられない。

 空を支配できるほどの活力を削がれた羽は、細かく分裂するように羽根をばら撒きながら活動を停止した。

 欠けた翼を視界に映し、葉月はいるべき地上ばしょへと引き戻されていく。

 その身に大地の制裁を受けることはなく、代わりに、初めてこの地に降り立った時に感じたものと同様の浮遊感を体感した。

「葉月──君は本当にバカ野郎だよ」

 シャルルマーニュ=ヴァル・ド・ロワール。サイコキネシスの能力を持った騎士が、眉を吊り上げながら葉月を罵倒した。

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