あなたの死因は、人に優しくし過ぎたことだよ

 オブリエルは、ゆっくりと後ろを振り返った。

 茶色いセミロングの髪に、この世の一切合切の悪を見てきたかのような黒い瞳。宝箱の中に収めておきたくなる、きめ細やかで白い肌と桜色の潤った唇。

 騎士のそれに近い格好よさと高潔さを併せ持った異世界の黒服と、可愛らしさを残した赤い線が十字に走るプリーツスカート。

 この世界ではなかなかお目に掛かれない高級な革製のローファーからは、飾り気のない制服と同じ色をした靴下が伸びている。

 ピンと伸びた背筋は、まるで彼女の真面目さを体現しているように美しい。

 オブリエルによる三碓葉月の第一印象は、誠実で温情があり、ちょっぴり苦労をしてきた少女というものだった。

 その所感は今も変わっておらず、葉月の側も、当時の心境をまだ抱き続けているのだろう。

 ただ、生前の感情を取り戻しただけ。たったそれだけだ。

 それだけなのに、どうしてオブリエルは怯えているのだろう。どうして、葉月に挑もうとしているのだろう。

「私は、死ぬのが怖い。皆も、死にたくないから生きているんでしょ? だから殺すの。これ以上、恐怖に怯えなくて済むように。私みたいに、何も失わないでいいように」

「機巧人めふぃすと──彼女の死が、あなたに踏み出す勇気を与えてしまったってわけね……」

 死に怯え、死を避けて、それでも死を目の当たりにしてしまったことが、葉月の内に渦巻くモヤモヤした感情に形を与えてしまった。

「私のいた世界といる世界は別物かもしれないって思いたかった。思っていた。だから私は、めふぃすとと出会ってからは昔みたいに笑おうと決意した。けれど、そこに生き死にが携わっている限り、何も変わらないんだってことが分かった」

「だから、あなたは救済をするのね……」

 葉月が頷く力は相当なものだった。そんな姿を見せられては納得するしかないではないかと、オブリエルに感じさせるほどに。

「──葉月の考えは理解できたわ。だから、その上で言わせてもらう。あなたは間違っている」

 オブリエルに肯定してもらえたと思い込んでいた葉月に告げられた、無慈悲なる否定の言葉。

 途端に怪訝な顔を見せ始めた葉月は、オブリエルが自主的に詳細を語るその時を沈黙と共に待ち続けた。

 オブリエルは、深く息を吸って吐き出した。

 彼女の内にはもう、迷いも恐れもない。

「生きていれば、辛いことは沢山ある。その度に逃げ出したいと感じる心も、痛いほど分かるわ。でも、私達は乗り越えていかなければならない。それが、生きている者の使命なんだから」

「……私は、オブリエルの感想が聞きたいわけじゃないんだけれど?」

「慌てないで。年長者の話は最後まで聞きなさい」

 葉月の十倍以上ある人生の中で経験してきたこと、感じたこと。葉月の十倍以上の喪失を味わって、導き出した結論。

 それを伝えれば、きっと葉月も納得してくれる。

 陳腐で、後世に残るような言葉ではないけれど、それでも、葉月には絶対に伝わると確信している。

「生きることが辛いのなら、私が生きることの喜びを教えてあげるわ! 乗り越えられない壁に直面した時は、私が壊してあげる! あなたのたった七十年の生涯を、共に歩んであげる! 私が、葉月を一人ぼっちになんてさせない!」

 この世に存在するあらゆる概念の中で、最もオブリエルを傷付けたもの。それは、孤独だった。

 共に剣を以て正義を一貫した戦友を失ったこと。肩を並べて歩いた親友の手を離してしまったこと。世界が、自分のことを忘却オブリビオンしてしまったこと……

 誰も、の天使の名前を知らない世界。過去に置き去りにされてしまったままの人生。傷付け、傷付けられた年下のあの子を看取る経験……

 別れの数だけ出会いはあった。けれども、世代を重ねるごとに、よそよそしさと浮遊感が嵩を増していっていった。

 これらの違和感をようやく払拭できたかと思えば、その人はもう影すら連れて天に昇ってしまっている。

 また間に合わなかった──落とした涙は土に溶け、新たな生命の糧となって消える。彼女に残されたものは、吐き気がするほどの喪失感だけだった。

 生きるということは、辛く苦しい。でも、そんな現実から逃げたいとは思わなかった。

 出会いの喜びが、別れの苦しみを溶かしてくれたから。

 オブリエルは、未来に遭遇がある限り、繰り返す別離に臆したりはしない。

 葉月の最期を見届けることになっても、後悔はしない。

「誰も知らない森の奥に、二人だけの家を建てましょう。小鳥と共に歌を歌って、そよ風にキスをしてもらいましょう。この世界には、まだまだ沢山の温もりが眠っているのよ」

 朝日なんて目じゃないほど儚くて、真に迫る包容力を携えた柔らかい笑顔を、天使が恐怖に震える少女へと向ける。

 少女は下唇が切れるほど強く噛んで、そして、叫んだ。

「小鳥も、そよ風も、あなたも──葉月わたしには必要ない!!」

 それらは、葉月に死の恐怖を味わわせる要因でしかない。

 葉月の策略は、自身と他者との接触を断絶する目的も兼ねている。なので、オブリエルの語る夢のような話は、葉月が最も回避したい未来の展望だった。

「私は一人で生きていく。何も失わずに人生を終える。だから、交渉決裂だよ、オブリエル」

「そう……なら、一つだけ謝らせて頂戴?」

 意見の相違こそあれど、オブリエルは間違ったことなどしていないはずだが……葉月は、じっとオブリエルを睨み付けながら数分前の会話を思い起こした。

 しかしながら、何度顧みても彼女には非の打ち所がないという結論にしか辿り着くことができなかった。

 口を開いたオブリエルの、息を吸う音が葉月の耳まで届く。

 彼女の口から語られた内容は、人間では気付くことさえ叶わないような、独特の視点から俯瞰された天使らしい観点をしていた。

「言葉で葉月を説得できなかったことは、私の汚点よ。ごめんなさい」

 汚れのない汚点。悔いる必要のない後悔。そんなことを謝られても、怒りが湧いてくるだけだ。

 そして何よりも、言葉以外を用いて説得を続けようとするオブリエルの心意気が、葉月の腸を煮え繰り返した。

「あなたの死因は、人に優しくし過ぎたことだよ」

 漠然としていた憎悪の粒子が、悔恨の欠片が、葉月に手を貸すように羽の形を構成した。

「これ以上、私の中に踏み込ませない!」

 正義に輝く澄んだ瞳が、自分を敵と認識している──オブリエルは、二百の盾と共に親友の意志を受け止める覚悟を決めた。

 まだ攻め時ではない。ここで勝鬨を上げても意味がない──これが、この場所に剣が展開されていない理由だった。

 身を焦がす灼熱の業火も、魂を削ぎ落とす死神の鎌も──オブリエルは、どこまでも追い掛けてくる葉月とその能力をいなし続けた。

「逃げてばっかり……私をバカにするのも程々にしてよねっ!」

 世をさ迷う死者の腕が、オブリエルの四肢に絡み付いて離れようとしない。

「まだこんなに……! 浄化の光よ!」

 オブリエルの周囲を神々しい光輝が包み込み、救いを求める魂たちを天に送る。

 迫りくる葉月の追撃を何とか退け、オブリエルはまた後退を始めた。

 誰とも遭遇しないままタブー・ウィングを抜け、背景は下町の色に染まる。

「オブリエル……!? 何か、大変なことになっているぞ!?」

 幸運なことに、人智を超越した二人の攻防戦を目の当たりにした住民は、他の人々に避難を推奨し始めた。

(ありがとう──!)

 意思のある行動なのか、それとも反射的なものなのか。答えは、オブリエルにも分からない。

 けれども、その勇気が誰かのためになっているということは、隠しようのない事実だ。

(被害は、極力最小限に……!)

 あちらこちらから反響する声のおかげで、オブリエルは安全に目的地へと到着することができた。

 そこは、葉月もよく知っている場所。葉月が、最初に死を受け入れようとした処刑場だった。

 花は勿論のこと、雑草すらも芽吹かない腐った土地。この場所に、二人以外の人間がいないということは言うまでもないだろう。

「なるほど、これが狙いだったってわけね……」

「私はもう、罪を背負いたくないもの」

 葉月が、過去を振り返るように遠い目をしながらぽつりと呟く。

「その道は険しいよ?」

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