私は、死ぬのが怖いって

 雨のようで、雪のようで、天からの贈り物のような純白の羽と、オーロラのように輝く長い糸が全土に降り注いだ。

 それらを手にした者は皆、一度何かを思考してから、まるで隕石でも落ちてきたかのように慌てふためき出す。

 彼らの騒音しらせは、すぐに屋根の下にいる者にも伝わって、更にその声を大きなものへと変貌させた。

 これらの異変を察知したシャルルは、“ファーストレイ”の新作の服を試着していたオブリエルを呼び戻して次のように言った。

「これって、歴史の文献に記述されている神の落命に似てない……?」

「白い羽と虹色に光る長髪……まさか──!」

 慌てて“ファーストレイ”を飛び出そうとするオブリエルの腕を、シャルルががっちりと掴む。

「待った! オブリエルの推察を教えて!」

「アウロラよ! アウロラが落命したの!」

「アウロラだと!?」

 高速で時が流れたかのような勢いで立ち上がったアランは、即座に二人の近くまで寄ってきて真偽のほどをオブリエルに尋問した。

「十中八九当たっているわ!」

「じゃあ、葉月も危険なんじゃ……!?」

 核心を突くシャルルの疑問に、オブリエルは苦痛に顔を歪めながら回答を齎す。

「アウロラは、対談をする時には決まって結界を展開させるのよ。一対一で真剣に会話ができるようにね。だから──葉月に危険はないわ」

 葉月が犯人であると仄めかすオブリエルの声は、シャルルとアランからあらゆる言葉を奪い去っていった。

 瞬きすら忘れて棒立ちする二人に、オブリエルは神託を授ける。

「シャルル、アラン。二人は、すぐに兵舎へと向かいなさい。王都に、終焉の刻を訪れさせないためにもね」

「お、オブリエルは……?」

 本当は、オブリエルも民間人の避難誘導や暴動の抑制に務めたく思っている。だが、彼女にはそんなことをするよりももっと多くの命を救えて、やらなければならないことがある。

「──葉月を止めるわ」

 全身を漂う悪寒と脳裏を過る光景がオブリエルの背中を押し、一秒でも早く前に進ませようと躍起になっている。

 そして、不幸なことにオブリエルの予感はよく当たってしまうのだ。

「……大丈夫なんだろうな?」

「……正直、自信はないわ」

 どれだけ神に祈っても、一向に回復の兆しを見せない折れた翼。お世辞にも全快とまでは言えない手足。加えて、友達思いの性格が、ここにきて悪さをしている。無事に帰ってこれるという確証は、天使でさえも持っていない。

 それでも、この地上に葉月を止められる人物は一人しかいないのだからやるしかない。

 それが、かつて人間族を救った主人公の役割なのだ。

「……もう、いくわね」

「待っ──」

 シャルルは、離してしまった手を伸ばそうと試みたが、それ以上のことはしなかった。

 オブリエルは、確かに『自信はない』と公言した。しかしながら、『無理である』と発言したわけではない。

 彼女は、自分ならば葉月を救えると信じていた。天使オブリエルから、そう賜っていた。

 だからこそ、シャルルを黙らせられるような背中を向けることができたのだった。


「待っていてくれると思っていたよ、オブリエル──」

 未来を予知していたかのような発言だった。

 踏み抜くべき壁──踏まれて当然の低き障壁は、残すところ十段。神殺しの声も、無理なく地上に届く距離だった。

「バカなことをしてくれたわね、葉月?」

 それは即ち、地上から見上げるオブリエルの声もまた、葉月のところまで届くということを意味している。

 ──思えば、二人は最初から対等な関係にあった。

 あったからこそ、オブリエルは互いを真っ直ぐ見つめ合える親友になろうとしたのだ。

「見ていて」

 葉月は、己の背中に収束していく黒い粒に視線を集中させるようオブリエルに告げた。

 空中を舞う悪の破片は何かを形成しようとしているらしく、ある一定の領域に集っていることが見て取れる。

「憎悪を利用するなんて……考えたわね」

 ──色こそ異なるものの、オブリエルは一度この現象を目撃していた。

 この粒子は、謂わば人間の抱く極端なまでの感情が具現化したものだ。

 一つひとつは小さいが、そこに秘められた力は絶大で、一箇所に集合すれば種族間戦争さえも止められてしまう。

「階段を下りる姿を見られていたんだろうね。少しずつ、私がアウロラ殺しの真犯人だってことが世に知れ渡り始めたみたい!」

 葉月は狂っていた。自分が罪人であることなど、隠し通せるのであればそうするに決まっている。なのに、彼女は歓喜の笑みを溢していたのだ。

 まるで、明瞭になることを望んでいるかのようだ。生きにくくなる世界を望んでいるようだ。これを、狂っていると言わずして何と表現しようか。

「あそこだ!」

「弓を用意しろ!」

 天へと続く階段の方へと向かえば、そこに神殺しの姿がある──その意思の下集まったアウロラ信者が、続々と二人の空間へと流れ込んできた。

「あなた達、やめなさい!!」

 オブリエルの制止も虚しく、彼らは葉月に牙を剥くことをやめようとはしなかった。

「矢を射ろ! 悪を討て!」

 頭上を流れる矢の川をせき止めるために、オブリエルは百の盾を顕現させた。

 それによって突撃を遮られた無数の矢は、葉月の元に届くよりも先に戦意を喪失して墜落していった。

「どうしてそいつを助けるんだ!?」

「きっと、そいつがオブリエルの信者だからよ!」

「レイシストめ! お前から殺してやる!」

 人々は、無謀にも天使に挑戦する道を選択した。

 彼らの判断は誤っている──オブリエルは、殺意を垂れ流す獣達を正すべく言葉を羅列した。

「皆、落ち着いて! 何も、あなた達が手を汚すことはないでしょう!? きっと、平和的に解決する方法だってあるはずよ!」

「綺麗事を吐かすな!」

「一度ならず二度までも信仰を奪った奴の発言だ、絶対に耳を貸すんじゃないぞ!」

 アウロラ信者達の中には、オブリエルが葉月に手を貸したと盲信している人物も幾らか紛れ込んでいるようだ。

 そんな人々の目には、天使の行動が葉月を庇うためのものとして映っているため、オブリエルはこれ以上彼らを刺激しないように、口を噤むことにした。

 その選択が、却ってアウロラ信者達を刺激することになるとも知らずに。

「悪魔オブリエルを討ち滅ぼせ! いくぞー!」

 男達は劈く雄叫びと共に武器を構え、大地を割ってしまうような足音を鳴らして地を駆ける。

 津波の如く押し寄せる人の波に、オブリエルは剣ではなく盾で対抗する姿勢を見せた。

 その直後、漆黒の炎がアウロラ信者達を足元から燃やし始めた。

「ぎゃあああ!!」

 飛び跳ね、手で叩き、地を転がっていた人間達は、やがて熱によって肌を溶解させ、大地に倒れ込んだ。

 この炎の特徴は、人体以外のものを一切焦がしていない点にある。

 洋服には一切の欠損が生じていないというのに、着用していた肉体の方は炭となったり液状化したりしているこの光景は、明らかに異常だった。

「オブリエル、大丈夫だった?」

 地獄にでも堕ちたのかと錯覚してしまいそうな死体の山を目の当たりにしたオブリエルを心配するような声が、彼女の背後から飛んでくる。

 その氷のように冷たい音に、オブリエルは反射的に身震いしてしまった。

「まさか──これもあなたがやったって言うの……?」

 オブリエルは、後ろを振り返ることができなかった。

 恐ろしかったのだ。事実を知ることが。葉月が頷いてしまうことが。

 だから、葉月は声にした。きちんとオブリエルに届くように、はっきりとした口調で真実を告げたのだ。

「そうだよ!」

「嘘……でしょ──?」

 オブリエルは、全身から血の抜けるような感覚を味わった。

 優しくて、臆病で、誰よりも死を恐れていた葉月が、殺人を厭わなくなってしまったという現実を直視できなかったからだ。

「嘘じゃないよ」

「……どうしてこんなことをするの?」

 これが正しき世界であるのならば、天使も逆らわずに全てを受け入れる。ただ、何故こうなってしまったのかという理由を求めずにはいられなかった。

 靴音が七つ。もうすぐ、葉月が地上に降り立つ。

「皆を救うためだよ」

「人を殺すことが! 救いになると本当に思っているの!?」

 オブリエルは、自分の手で行った殺戮が、救済の意味を孕んでいるなどとは一度も考えたことがなかった。

 全ては悪で、強奪で、理不尽な命の破壊に過ぎない。永遠に忘れてはならない、背負い続けなくてはならない罪に他ならないのだ。

 だからオブリエルは、戦争から二百数年もの間命を繋ぎ止め続けてきた。

 だからオブリエルは、未だに正義を貫いて戦い続けているのだ。

 それらが、僅かでも奪った命の贖罪になると信じているから。

 それらが、少しでも自身に対する罰になると信じるために。

「思っているよ。だって本当のことだもん」

 オブリエルは、湧き上がる怒りを飲み込んで平静を取り戻す。

「……質問を変えるわ。あなたは一体、何から人を救おうとしているの?」

 葉月が、一つ段を下りた。

「ずっと言ってきたじゃない」

 もう一段分、葉月の影がオブリエルに迫った。

「私は、死ぬのが怖いって」

 葉月が、大地に足を付けた。

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