果たして人間と呼べるでしょうか

「雨は嫌いだなー」

 そうぼやいたのは、“ファーストレイ”で雨宿りという名のサボりをしているシャルルだった。

「どうしてそう思うの?」

 シャルルに尋ねた人物はオブリエル。彼女もまた雨露を凌ぐために服飾店に滞在しているのだが、怠慢ではなく注文していた洋服の引き取りが本来の目的だ。

 アランがせっせと裾上げをしているレジカウンターの上に、黒いドレスが置かれている。まさにそれが、オブリエルの購入した洋服というわけだ。

 椅子の背凭れを前にして座るシャルルは、オブリエルがココアを啜り終えた直後に答えを口にする。

「彼らは身勝手だ。私達の都合なんて微塵も考えてくれやしない」

「……確かに、こんな日でも見回りをしなくちゃならないあなたには同情せざるを得ないわね」

「でしょー? あーあ。騎士なんてやめて、“ファーストレイ”の従業員にでもなろっかな」

 そう言って、シャルルはアランを横目で見た。

 対して、アランはまち針を凝視したままシャルルの意見に反論を呈した。

「シャルルマーニュを雇ったところで、マイナスにはなってもプラスにはならないだろう」

「分かってないなー、アランは。私ほどの美貌があれば、看板娘くらいお手の物なのに」

 シャルルのことだ、きっと看板娘の仕事も放り出して、毎日どこかを放浪するだけに違いない。

「看板娘として雇うんだったら、葉月の方が適任だな」

「私もそう思うわ」

「ひっどいなぁ、二人してー。でも、私も葉月の方がいい気がしてきたよ……」

 熱にやられたアイスクリームのように肩を落としたシャルルは、時の人である葉月の姿が見えないことを疑問に思った。

「葉月はまたお出掛け? 最近多いねぇ」

「お出掛けはお出掛けだけれど、これまでとは毛色が違うお出掛けみたいよ」

「経路が違うと言いますと?」

「毛色ね。アクセントが違わなかったら、気付かずに話を進めていたところだったわ……」

 オブリエルは、窓から差し込む光──更にその先へと視線を向けた。

 言い換えるならば、太陽よりも眩しい存在を見ようとしていた。

「アウロラと話をしにいくんだって」

「アウロラ様と!? 何で!?」

「さぁ? あの子なりに、思うところがあったんでしょう」

「それはそうだろうけど……じゃあ、どうやって神の世界までいくのさ?」

 テーブルに置かれたミルクピッチャーを持ち上げ、オブリエルはその中身をココアに注いだ。

 白を落とされた黒は、包み込むように、或いは飲み込まれるように存在感を薄くした。

「あの三日間、ずっと一人で信仰を集めてきていたみたい。神の世界にいくためにね」


 雲を突き抜けてなお終着点が見えない螺旋階段が、塔のように伸びていた。

 螺旋階段は淡く輝いているため、途中で床が消えてしまうのではないかと不安に感じていた葉月だったが……オブリエルがそんな失態を晒すはずもない。

 跳ねても蹴ってもなお抵抗を続ける階段の屈強さに、葉月の疑念は霧のように散っていった。

 恐怖を安堵に置き換えたのであれば、もうその感情に構ってやる必要はない。

 葉月は、本のページを捲るように新たな思考と向き合った。

(結構頑張ったんだけれど、届かなかったなぁ……)

 七十二時間、食事も睡眠もせずに走り回ったというのに、葉月の背中には羽の一本も生えてくることはなかった。

 葉月の三日間の努力を越える量と質の信仰心──この経験を通じて、葉月はオブリエルの偉大さを全身で感じることになった。

 いつか、追い付ける日がくるのだろうか。追い抜くことができるのだろうか。何度葉月が問い掛けても、青空は何も答えてくれない。

(自分で努力をするしかないか……)

 それからの葉月は、無心でピアノの鍵盤のような階段を上り続けた。

 雲の中に入って、一瞬葉月の視界が暗転する。眩しい暗闇に目を伏せた葉月が恐る恐る瞼を開くと、そこはもう、人間の住む世界ではなかった。

「久しいですね、葉月」

 悪しき心を有した人間であれば、彼女の姿を視認しただけで落命してしまってもおかしくはないだろう。

 葉月は、そんな神を凝視しながら挨拶を返した。

「お久しぶりです、女神アウロラ」

 人間族の生みの親であり、異世界転生の核と称すべき女神アウロラ。

 ずっと己の軽率な行動を悔いてきた彼女は、明るくなった葉月の顔を見て、胸のつかえが下りる感覚を味わった。

 これならばもう大丈夫だろうと、アウロラは好意的に葉月との会話を楽しむことに決めた。

「本日は、どのような要件でわたくしのところに?」

「一言、お礼を言いたくなったんです」

 心の距離を縮めるように、どんどん接近していく葉月。

 アウロラは、葉月が自分を赦してくれたこと、自分の人生を謳歌する決心をしてくれたことに何よりも歓喜し、両手を広げて我が子を抱擁してあげたい気持ちを堪えることに精一杯だった。

 葉月が、また一歩近付いて口を開く。

「私に、神の特権を──寵愛を授けてくれて本当にありがとうございました」

「まぁ、まぁ! いいのですよ、お礼なんて! わたくしは、あなたがこうして生きていてくれさえいればそれでいいのです! 他には何もいりません!」

 我慢の限界を迎えたアウロラは、昂る胸の赴くままに葉月を包み込まんと駆け足で彼女に近付いた。

「本当に──本当によかった! さぁ、あなたの温もりをわたくしにも──」

 女神に触れたものは、人肌のような熱を持ったものではなく、人のように温かな心を秘めたものでもなく、無機質で冷たい金属の板だった。

 いや、それが金属であるかどうかも怪しいところだ。何故ならそれは、神の瞳にさえも映らない絶対不可視の刀だったのだから。

「どう……して──?」

 何故、自分を刺したのか。何故、自分は人間に殺されそうになっているのか。

 人は、父であり母である神を殺めることはできないように、わざと能力を欠落させて生み落とされている。

 それに、神殺しという悪心を抱く者は神の世界への来訪すら認可されないはずだ。

 その他にも、自分を騙す無数の言い訳がアウロラの脳内を支配した。

 わざわざ自分一人で思慮を巡らさずとも、目の前の人間に尋ねればそれで済む話だということにすら気付かずに。

「神の寵愛と信仰心を受けた私は、果たして人間と呼べるでしょうか?」

 神に愛された者は、主人公となるのが鉄則だ。

 その座に就いた者は皆、使

 では神は? その問いに対する回答もまた、これと同様のものだ。

 であれば、主人公と神は同等であるのか。答えは否だ。

 両者の間には、圧倒的なまでの格の違いという溝がある。たった一つの差が、人と神という種族の相違を生んでしまっているのだ。

 葉月は紛れもなく主人公ではあるが、まだ神の領域には達していない。

 それどころか、天使とすら認められていないため、言うなれば神性を保有した人間といったところだ。

 微弱な格ではあるが、人の域から脱したことには変わりない。

 その証拠は、論ずるまでもなく今ここに広がっている。

「女神アウロラ。あなたの失態は、長命の呪いを手放してしまったことです。それは、不死者が不死の能力を捨ててしまうのと同義ですから」

 葉月は、より念入りにリヒトの手から拝借した刃をアウロラの心臓に捩じ込んだ。

「ぐ……がはっ……!」

 恨み。妬み。葉月の善意あくいは、既にそんな枠には収まっていなかった。

「痛いでしょう? 苦しいでしょう? それが死です。私が、最も恐れているものの正体です。あなたは、そんなことも知らずに人間を生み、死者を生かした。きっと、今ここで私が止めなければ、この先もずっとあなたは悪を振り撒いていたでしょう? それだけは許せない。あなたが、どんどん悪に染まっていく姿を見ていたくない……!」

 アウロラの人間を創造する能力は、葉月にとって最も忌むべきものだった。葉月の未来を、最も阻害する要因だった。

 故に、何よりも先に潰しておく必要があった。誰よりも先に、アウロラを救済しておく必要があったのだ。

「葉……月……」

「安心してください。あなたは何も悪くありません。だって、私があなたの生み出した悪を全てなかったことにするんですから……」

「葉月……」

「あなたに与えられた余命くらいは生きてみようと思います。未来の私には、それくらいの時間が必要でしょうし」

 葉月は、アウロラがもう聴覚の機能を停止させていることを察せていなかった。

 そのせいで、刹那の間だけ覚悟が揺らいでしまうことになる。

「葉月、あなたの温もりを……感じられてよかった──」

 女神の抱擁は、一切の悪を抱えていない純粋無垢な熱を──確かな命の温もりを葉月に伝えた。

 呆然と立ち尽くす葉月の肩から、女神の腕がずり落ちていく。

 それから、幾ばくもの時が経過したのだろう。

 思考能力を取り戻した葉月は、自然と溢れる笑みと共に独り言を呟き始めた。

「葉月……葉月か──」

 アウロラの側から離れ、地上に向かう階段の手前まで移動した葉月は数秒立ち止まって、何事もなかったかのように一段目に足を掛けた。

「アウロラ、あなたは勘違いをしていたみたいだね」

 葉月は、痛む胸を何度も撫で下ろして、階段の二段目を踏んだ。

「あなたは葉月に殺されたんじゃない。あなた自身に殺されたんだよ」

 服の上からでは窺えない秘密を隠したまま、葉月は神の世界から去っていった。

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