姉さんを救ってください
『姉さんを救ってください──』
そのような声が聞こえた。
弱々しく、頼りない声がした。
勇気と希望を抱いた、心を動かされる声が届いた。
何度目の命だろうか。葉月はむくりと起き上がって、自分の影から生えてきた細長い杭を握った。
(そんな声で言われたら、断れないじゃない……!)
意識が薄れゆく。神の特権に、全てが飲み込まれていく。葉月が葉月であるうちに、彼女は声の主ヴァイオレットの懇願を引き受けた。
これで、葉月がやるべきことは済んだ。
後のことはもう一人の自分に委ねて、赴くまま微睡みの中に落ちていよう──
葉月が、ゆっくりと息を吐きながら起立する。
それから、ヴァイオレットに渡してもらった杭を自分の影に突き刺した。
その感触は、岩肌に杭を立てるというよりも、砂に突き刺すといった柔らかなものだった。
託したはずの意志を、僅かな間で返されてしまう──ヴァイオレットには葉月の
「心配はいらないよ、ヴァイオレット」
その言葉に葉月の意思はなく、あるのはただ、己の生命を脅かさんとするものを排除したいという心だけだった。
ゆらりと、影のように動き出す葉月。
その存在感のなさは、交戦状態にあるマジェンタもばあるも気が付かないほどのものだった。
ばあるが大剣を振りかぶり、マジェンタに刃を通そうと試みる。
その耳元を、およそ三碓葉月のものとは思えない妖艶で背徳的な甘美なる声が優しく撫でる。
「あなたは私を殺せますか?」
語尾の上がったその音は、言葉の通り可能か不可能かを問うているのではなく、不可能を嘲笑う意味合いを有していた。
まるで死人に囁かれたかのような感覚に囚われたばあるは反射的に、己の能力──隠し通さなければならなかった手の内を明かしてしまう。
姿を消してしまったのだ。
ないものを掴んでいる触感に、葉月は目を丸くする。
「これは驚いた。なるほど、あなたはカメレオンだったんだね」
しまった──ばあるは、更なる焦燥感から、冷静さを損なってしまう。
こいつは、こいつらは、必ず殺さなければならない。たとえ、相打ちになったとしても。
葉月の身体が、あたかも浮遊するように宙へと浮かび上がった。
「あいつ、葉月を消し飛ばす気か!?」
今まで剣を交えてきたからこそ、相手の思考を理解できる。
マジェンタは、葉月を救う術を模索した。
──このまま葉月がばあるに捕まり続けたら、すぐに吹き荒ぶ風と衝撃によって挽き肉にされてしまうだろう。
反面、葉月に手を離させたら──さすれば、一時に限り彼女を延命させることができるだろう。
しかしながら、すぐに姿を眩ませたばある の攻撃が頭上から襲いくることになる。
戦闘経験の浅い葉月ならば回避は難しいだろうし、マジェンタ自身も、他人を救出できるほど素早く行動することはできない。
ばあるが次のフェーズに移った瞬間、葉月の死亡が確定する。
だったら、そうさせないよう振る舞うしかない。
「待っとけ葉月! 今助けたる!」
貴重だ、奥の手だ、などと言っている場合ではない。
マジェンタは、乗り気ではなかったがモップを葉月の方に構えた。
「まだ撃っちゃダメだよ、マジェンタ。それと、少し離れていてくれる?」
「はぁ……!? 何をする気なんや?」
時間がなくて焦っているというのに、当人は待機を命じてきた。
マジェンタは自分を信じて発砲するか、未来を葉月に託して待ち続けるかの瀬戸際に立たされることになった。
そんなぐらつく心の支えとなったものは、葉月のこの発言だった。
「私の言う通りにすれば、必ず勝てるよ」
天井に頭を掠めるところまで上昇した時、ばあるが出現して、風と共に大地を穿つ一撃を放った。
「失せろ、化物ぉぉぉ!!」
後のことなど見えていないといった全力落下。ばあるは、葉月を殺めることに全身全霊を賭けていたのだった。
「っ──! 強烈な風やな……!」
葉月に諭されて何歩か後退していたマジェンタさえも吹き飛ばされてしまいそうな暴風が、ばあるを中心とした全方位に放たれる。
この洞窟も、すぐに崩れ去ってしまうのではないかと思える威力だったが、激しい揺れと何粒か破片が落ちてきた程度で何とか持ち堪えたようだ。
やがて嵐は過ぎ去り、台風の目の地点にはばあると生きた葉月だけが取り残されていた。
神の特権による防衛本能が働いている間──それは、葉月が持つ全ての機能が最大限まで発揮されている状態だ。
再生能力も例外ではなく、葉月は今、ばあるの破壊を凌ぐ勢いで肉体を修復してみせた。
何ともない口を開いて、葉月がマジェンタに合図を送る。
「──今だよ」
若い乙女でありながら、マジェンタは乱舞する髪を整えるよりも先にアイスストーンの弾丸を発射した。
収まりを取り戻した空気はいつもより静かで、弾の進行を邪魔しようと考えるものは一つとしてなかった。
そのため、想像していたよりもずっと淡白に、守護してくれる相棒を消失させたばあるの肉体に穿孔が刻まれた。
「ぐっ……この程度の傷──んなっ!?」
苦痛。不屈。驚愕。ばあるは、コロコロと表情を変えている。
どうやら、己の身に起きている異変を察知したらしい。
「もっと、マジェンタちゃん格好いいー……って未来を予想してたんやけど、たまにはこういうのもありやな」
「お前っ──俺に何をした……!?」
マジェンタは片目を瞑り、発言すべきか否かで頭を悩ませた。
「よし。地獄で、マジェンタちゃんの武勇伝を語ることを条件に教えたるわ。特別やで?」
こうしている間にも全身に寒気と麻痺の感覚が広がっていっているため、ばある自身も冷静かつ固まった思考をしている場合ではない。
それ故、彼はマジェンタの長ったらしい前置きに苛立ちを覚え始めていた。
狂犬のように牙を剥くばあるに怖じ気付き、マジェンタも空気を読んで解説を始める。
「ウチがお前に撃ったアイスストーンは、液体に混ぜるとそれ諸共凝固する性質を持ってるんや。せやから、上手いこと体内に弾を残すことができたら血液を凍結させることができるかもって寸法やった。ウチもどうなるかまでは知らんかったし、まさかここまでの成功を収めるとは思いもよらんかったわ」
「機巧人にも体温はある! 血管内を流れる血液が凍るはずがないだろう!」
「そういう化学的な質問はアイスストーン博士にでも聞いてくれや。あれや、アイスストーンにはそんな常識が通用しなかったんやろ」
「そんな適当なっ……!」
殺したいほど憎くて、全身の血が沸き立つほど怒りが込み上げてきて……されど、手足は固まっていく。それこそ、氷に覆われていくように。
ばあるは負けを認めた。
認めたからこそ、遠吠えをするしかなかった。
「この身が熱によって呼び覚まされた時、お前だけは絶対に殺してやる! 首を洗って待っているがいい!」
発言の終了は、ばあるの意識が終了するのとリンクしていた。
「よいしょっと……」
彼は気が付いていなかったようだが、葉月はばあるの足が動かなくなってから、ずっとその身体を支えてあげていた。
ばあるを横にして、遂にその手が離される。
即座にマジェンタが接近してくることから、葉月はその行動の真意を汲んで二歩後ろに下がった。
「生かしとくわけないやろ、アホが」
憂いの籠もった罵声と共に、マジェンタは取り出したナイフでばあるの四肢を全て切断した。
ばあるの体内を流れる赤い液体は完全に固まっており、切断面からそれが流れ出ることはなかった。
──機巧人は死なない。だが、切り離された身体を自分だけで修復することはできない。
今のばあるは、ある意味では死んだも同然の状態だった。
「……先に進もか」
「そうだね」
当初の目的を果たすためには、ここで立ち止まっているわけにはいかない。
二人は、ばあるに合掌をして、また細くなっている奥の道へと歩みを進めた。
その途中で、葉月はいつもの彼女に戻った。
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