じゃあ、今回だけは許すね

 まるで、天国への階段を上っているような揺れと傾きだった。

 下半身は痛み、停車してもなお揺れ続けている視界に吐き気を催しながらも、葉月とマジェンタのコンビは無事にアイスストーンの鉱山に到着した。

「マジェンタ。炭鉱夫のためにも、道の整備を上層部に提案してくれないかな……」

「せ、せやな……」

 近くに生えた岩を背凭れに、二人は地底まで落ちてしまったテンションを取り戻すことに尽力していた。

「慣れないときっついですよねー、この道! 俺も、初日は仕事を辞めるか本気で悩みましたよー!」

 酒の場で過去の武勇伝を語るが如く笑い飛ばす御者の男。馬の方も、これといって不具合を訴えてはいない。

「それにしても、いい景色だよね……!」

 色とりどりの耐寒性の花がカーペットのように広がり、華やかさを演出する。点在する岩の無機質さが究極のコントラストとなっている点も評価に値する。

 極めつけは、モノリスのような黒曜色をしたごつくて大きい岩肌だ。中心部に金属製の扉が設置されていることから、ここがアイスストーンの鉱山であると推測できる。

「自然と人工物のコラボレーションって言うのかな」

「人工物かぁ。確かに、アイスストーンは自然のものっぽくはないなぁ」

「この、黒光りしている岩がアイスストーンなんですか?」

「せやで。触ってみ」

 葉月は、早速鉱山の皮膚に手を触れてみた。

「冷たっ!」

 アイスストーンは、冬場の水のように、夏場の氷のようにひんやりとしていた。

「金属っぽい材質だから、外気に触れて冷えちゃっているのかな?」

「そいつの名前はアイスストーンやで。逆に、この寒冷地域を作ってるんがそれや」

 環境がアイスストーンを冷やしているのではなく、アイスストーンが空気を低温にしている……マジェンタの解説は、葉月の心を更に躍らせた。

「マジェンタ、早く中に入ろうよ!」

「すっかり元気になりおって……まあええわ。昼までには終わらせるでー!」

 マジェンタが設定した制限時間はおよそ一時間。アイスストーンの鉱山は直線をメインに構成されているので、決して無謀な設定というわけではない。

 異常の概要と大きさによっては、余裕を持って達成できる目標だろう。

「俺は、いつでも出発できるように今からランチタイムを楽しませてもらいます。お気を付けて!」

 手を振り合い、三人は別れの挨拶を済ませる。

 その手を下ろすついでに、マジェンタは金属の扉を開けた。

「うわぁ……!」

 青白く発光する玉響が、黒曜の洞窟に明かりを灯す。

 夜の水中のような光景に目を奪われた葉月は、感動のあまり時間を忘れてしまった。

「ほら、入った入った。前を歩いてくれていいから、ちゃっちゃとしてなー」

「ありがとう! 優しいね、マジェンタ!」

「あー、眩しい眩しい笑顔ですこと。昨日のヒステリックな表情とは大違いですわ」

 キョロキョロと辺りを見回し、キャッキャと騒ぐ葉月を、落ち着いた目でマジェンタが見守る。

「凄い……凄いよアイスストーンの鉱山! 皆にも見せてあげたいな……!」

「死んだらもう二度とこの景色は見られへんで。それでも死にたいんか葉月は?」

「あっ……」

 アイスストーンと玉響の織り成すプラネタリウムは、美しく、神秘的で、思い出足り得る光景だった。

 すなわち、葉月が一番見てはいけない風景に相違ない。

 生を享受しながら美と情を拒み続けることの難易度は相当に高く、十中八九どこかで綻びと妥協が生まれてしまう。

「落ち着いて、私……」

 死を諦めるのはまだ早い。アイスストーンの鉱山を、自身の未練として残してはいけない。解けそうだった心の紐を、葉月はきゅっと締め直した。

 それからというもの、上下左右の壁に反射する音という音は二人の足音くらいだった。

 この場所には、静謐がよく似合う。葉月が、新たな喜びを発見したその時、奇声を発した数十匹のコウモリが、一斉に葉月に襲い掛かってきた。

「嫌っ、何!?」

 咄嗟に頭を庇った手に、穢れなき首元に、コートからはみ出た瑞々しい脚に、赤黒い二つ並んだ点々が刻まれていく。

「痛いっ! やだ、痛い痛い痛いっ!!」

 少しずつ、それでいてしっかりと、葉月の声から理性が霧散していく。次第に強く、荒くなっていくそれは、高度な言葉を模した獣の発狂となっていった。

 そう思ったのも束の間、葉月の声はドップラー効果のように遠くなっていった。

「あ、ああう……」

 満足したコウモリ達は、蹂躙し、ボロ雑巾となった少女には目もくれずに洞窟の奥へと帰っていった。

 はだけた衣服から覗く女子高校生の肉体は、もはやどこが傷口なのかすら分からないほど血液に塗れてしまっており、とても直視できる状態ではなかった。

 焦点の合っていない瞳からは輝きが失われ、酷使された口元は動くことを許されていない。

 穴という穴から流れ出る体液は、血溜まりに溶けてかくれんぼをしている。

 こうなってしまっては、少女の未来は一つだ。

 知力。体力。精神力。長年培ってきた全ての力を失ってしまった人間に訪れるもの。それは衰弱死だった。

 しかしながら、葉月にはまだ一つだけ力が残っていた。

「神の特権──想像以上の効力や……!」

 生じた不都合を、神の力が強引に揉み消していく。

 五秒もしないうちに、葉月は自力で起き上がれるほどの再生をしてみせた。

「動いて平気か? 無理は禁物やで?」

 駆け寄ってきたマジェンタに、葉月が手で心配はいらないことを伝える。

 二本の足で立ち上がった葉月は、ボロボロになったコートを可能な限り整えてから口を開いた。

「怪我とかしていない?」

 悲惨な目に遭ったばかりだというのに、もう他人を気遣っている葉月の不気味さに、マジェンタは身震いした。

 赤紫の髪を持った少女は、できるだけその心理を悟られないように、慎重に言葉を選んでから返答をする。

「ウチは無傷や」

 余計なことは口走らず、必要なことだけを伝える。色々なことを考える力を備えた人間には難しいことだが、同じくらい見返りも大きい。

「よかった──」

 葉月は、胸に開いた手を当てて憂懼の混ざった息を吐き出した。

 白という色を持ったそれは、瞬間的にこの世から存在を消滅させる。

「さあ、先に進もう? コウモリには充分注意して、ね」

 自虐でもしているかのような、息よりも軽い注意喚起。

 この時マジェンタは、素の葉月も相当に狂っているのではないかという疑惑の種子を芽吹かせた。

 そして、襲撃をじっと傍観していただけの自分を責めてくれない葉月のせいで、ある事実を告げるチャンスを失っていた。

「せ、せやな! ははは……」


 マジェンタの自己を騙すための笑い声から二分経過した頃、葉月が死んだコウモリの群れを発見した。

 それらには外傷も出血もなく、毒や病気といった内部からの侵蝕が原因であると推察できた。

「歯に血液が付着している……もしかして、さっきのコウモリ達なのかな?」

「違うかったら、ここに何匹コウモリがおるんやって話やけどな」

 葉月の推理が的確であることは重々承知していたマジェンタ。彼女がはっきりと頷かなかったのは、コウモリ達の不可解な死の原因が自分にあると知っていたからだった。

「もしかして、私の血に毒が混ざっていたとか?」

 葉月は、マジェンタのツッコミを期待して後ろを振り返った。だが、ツッコミ役は気まずそうに目だけで天井を見上げながら、「あー……」と、喉から音を絞り出していた。

 それを肯定と取った葉月は、ボケであってほしいと切に願いながらマジェンタに確認をする。

「う、嘘だよね……?」

「ウ、ウソヤデー」

「棒読み!」

 両手でマジェンタの襟首を掴んだ葉月は、凄んで脅迫を始める。

「一体、私の身体に何をしたの!? 私、どうなっちゃったの!?」

「お、落ち着け! 全部話すから!」

 物理的には解放されたものの、下手なことを言うと何をされるか分からないという精神的な恐怖はまだ、マジェンタの中に残されたままだった。

 とはいえ、ここで誤魔化したり言い訳をするのはお門違いであり、マジェンタもそのことは承知の上だった。

「寝てる葉月に、毒の注射をさせてもらった。しかも、普通の人間やったら一時間半もあれば死に至るような強力な毒や。理由は二つ。一つは、葉月の神の特権を確かめるため。もう一つは、アイスストーンの鉱山に発生した異常が、吸血コウモリの大量出現やってことを知ってたから」

「……それだけのために危険を冒したの?」

「身を以て経験したと思うけど、あのコウモリは集団で一人の人間を襲う習性がある。駆除しようにも、先にその人が殺されてしまうっていう前例があったんや。せやから、人智を超えた再生能力のある葉月は使えるんちゃうかと思ったんや」

 人類を脅かすコウモリの習性を、逆に利用して一気に処理してしまう──現代でも、アリやゴキブリなどの駆除に用いられる方法だ。

 ただし、今回は毒餌が人間であるという非道な相違点があった。

 騙され、囮とされた人間が激昂するのは当然の反応と言える。

「もし、私が毒で死んでいたらどうするつもりだったの!?」

「危なくなったら解毒剤を飲ませるつもりやった」

「やっていて、自分って最低だなとは思わなかった!?」

「思った。でも、止めるつもりはなかった。これが、ウチのやり方やったから」

 騎士道精神の欠片もない下衆な戦術でも、それがマジェンタというナイトの戦い方だった。

 それを責める理由も義理も、どこにもありはしない。

「……反省はしている?」

「それは勿論」

 葉月が吐き出したものは、諦観の色をした溜息だった。

「じゃあ、今回だけは許すね。ローリスクハイリターンの結果は出ているわけだし」

「……狂っとるな」

「何か言った?」

「いえ、何も!」

 面倒な依頼を請けてしまったと後悔しながらも、葉月は任務を続行するのだった。


 それからは、一匹すらコウモリの影を目撃することがなかった。

 拍子抜けするほどあっという間に最奥まで辿り着いた葉月は、溢れんばかりに浸された湖と、人を食らう男の姿を目撃した。

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