俺、今日で死ぬかもしれねーんだ

 ──幼い葉月は、大好きな本に登場した王の都に憧れていた。

 自分は貴族で、毎週行き付けのパン屋さんを訪れる。そこで、甘い食パンを買って帰る……そんな、誰でも抱けるような夢を持っていた。

 しかし、そんなものは叶わぬ妄想に過ぎない。

 三碓葉月はただの一般市民であり、普通の日本人だった。


 焼き立てのパンの香りが、通りを余すところなく包み込む。

 きっと、ここのパン屋の食パンは柔らかくて美味しいのだろう──成長して、現実を直視できるようになった葉月は、それ以上の感想を述べることができなくなっていた。

 行き交う人の波を掻き分け、多くの店舗に囲まれた噴水広場を抜ける。

 このまま真っ直ぐ進めば、葉月は己が望んでいた場所──川のもとへと辿り着くことができる。

 なのに、葉月はその場で立ち止まってしまった。

 死ぬ前に、昔の夢だった王都の食パンを食べてみたい。そんな、些細で平凡で単純な願望を抱いてしまったからだ。

「……いらない」

 葉月は、自分に言い聞かせるようにそう呟き、首を横に振った。

 幼い頃の記憶が、今の自分の未練になるなんて……葉月は、既に自身が生という鎖に縛られ始めているのではないかと不安に思い始めていた。

 葉月は、一度は呼び起こした記憶を二度と思い出すことがないように、脳の奥底へと仕舞い込んだ。

 以後、葉月が歩みを止めることはなかった。

 そして、舞台は清流を跨ぐ橋の上へと移動する。

 灰色の石を、如何に並べればこんなものが造れるのだろう……落ちそうで落ちない不思議な床に、葉月はそのような疑問を抱いた。

 両手を重心として胴体を持ち上げ、橋の柵に座る葉月。

 その出っ張りは太めに作られているため、不用意に暴れない限り、人が下に落ちることはない。

 そのせいもあって、行き交う人々は特に葉月を気遣うことなく、自分の人生を歩み続けていた。

 葉月は、赤く染まった太陽と、光に照らされて、白い渡り鳥の群れのようなシルエットを浮かべる川を同時に視界内に入れた。

「悩んでいるのかい、お嬢ちゃん?」

 許可も取らずに女子高生の隣に座ってきた男性は、シャルルの装備していた鎧によく似た模様の入った装備で胴体を覆っていた。

 ただし、彼女のものとは違って、金属部分の比率がとても多い。装備者を守護するという、本来の役目を果たしてくれそうなものだった。

 茶色い顎髭を生やした三十歳くらいの男性は、葉月と同じところに目をやった。

「私、今からここで死ぬんです」

 男性は、葉月を否定をしなかった。逆に、うんうんと首を縦に振って肯定の意志さえ示していた。

「死にたいよなー、本当」

 予想外の反応に、僅かな動揺を見せる葉月。

「立派な大人になるために頑張ってきたのに、いざその大人になってみると、これが結構退屈なんだよ。やれ任務だやれ始末書だ、責任なんて取れるわけねーし、せっかくの休暇も疲労で一日中寝ているだけ。やってられっかよって話よな」

 別に、人生に絶望して死を望んでいるわけではないのだが……葉月は、様子見も兼ねて、彼の同意を求める文末にあえて沈黙を返した。

「俺、今日で死ぬかもしれねーんだ」

「えっ?」

 彼には、葉月の心の内が全て見えていた。

 故に、彼の唐突な発言は意図されたものであり、葉月はその罠にまんまとはまってしまっていた。

「ちょいと、厄介な仕事を掴まされちまってな。お嬢ちゃん、よかったら一緒にくるか? 多分、苦しまずに逝けるぞ?」

 苦しまずに逝ける──死ねるのであれば、苦楽も方法も何だっていいと葉月は考えていた。

 ただ、苦を感じない死というものには些か興味があった。

 死に際というものは、長引けば長引くほど苦痛を与えてくる。それがないということは、即ち即死できるということ。

 そして、即死できる死に方というものは、それ以外の方法よりもずっと強大なエネルギーが発生する。

 ビルの屋上からの転落、走る電車との接触……それほどの衝撃があれば、神の特権を打ち砕くことができるかもしれない。

 考えを纏めた葉月は、男性をしっかりと見据えて大きく頷いた。

「私も同行させてください!」

「よし、決まりだな!」

 にんまりと笑う男性に、葉月は柔らかな笑顔を返した。

「でもその前に──一度死なせてくださいね」

 葉月は、両手を重心として胴体を持ち上げ、橋から身を投げた。

 成否は問わない。

 ただ、これで死ねるかもしれないという淡い期待を抱いて飛んだだけだった。


 水中には、これっぽっちも誘惑なんてものはなかった。

 あれが欲しい。誰かに好きになってもらいたい。そういった欲望が、人間の住む場所ではないここには一つもなかったのだ。

 それもそのはずだ。ここには少女が一人いるだけ。

 何かを作る、或いは自分に好意を寄せてくれる人間はどこにもいない。

 葉月は、今回は上手くいきそうだとボヤける頭で考えていた。

 しかしながら、葉月の意識は途絶えなかった。

 どうやら、自分はまた死ねなかったらしい──口に入った水を吐き出しながら、葉月は仕方なく現実を受け入れることにした。

「げほっ、げほっ……!」

 川岸に四つん這いになり、咳を繰り返す葉月。その上を、一つの影が差した。

「死のうとするなってあれほど言っておいたのに……はっきり言って、葉月はバカだよ!」

 声の主は、びしょ濡れになった騎士様シャルルだった。

「何で……シャルルがここに……?」

 切れ切れの息を贅沢に使って、葉月は声を発した。

「言ったでしょ? 私が葉月を死なせないってさ! ま、本当はたまたま通り掛かっただけなんだけどねー!」

(そんな偶然で、私は命を救われてしまったんだ……)

「私は、つくづく運のない女だね……」

「幸運なんだよ、葉月は。何と言ったって、この私と巡り逢えたんだから!」

 葉月は、調子に乗り始めたシャルルの肩を軽く殴った。

「おいおい、痛いじゃないか! ま、そういうところも可愛げがあって素敵だけどね!」

 暴力を振るわれたことも笑い飛ばす器量を持ったシャルルという名の騎士。ここまでの図太さだ、もしかしたらパンチとすら思っていなかったのかもしれない。

 何をしても上手をいくシャルルに、葉月はまた不満を募らせた。

 そんな時、遠くの方から気楽な声が空気中を漂ってきた。

「おっ、元気そうじゃねーか、お嬢ちゃん……って、シャルルマーニュ!?」

 遅れて登場したヒーローならざる者が、本物の英雄の姿を見て顔を引き攣らせた。

「ニコラ騎士団長!? 作戦の準備は!?」

 顔をビシっと指さされたニコラは、両手を前に突き出して慌てふためいた。その様子は、矛の突きを防ごうとする盾のようだった。

「お、落ち着け、準備は済ませてある! 今は……そう、休憩タイムだったんだ!」

「葉月、このおっさんに変なこと言われなかった!?」

 シャルルは、ニコラをわざと無視して葉月にそう語り掛けた。

「自殺を教唆されたかも……」

「貴様、それでも騎士団長か!」

「サボり魔のお前には言われたくねーよ!」

(大丈夫なのかな、この騎士団……)

 葉月は、だんだんとニコラの騎士団の行く末が気になり始めていた。無論、ただの興味本位であり、未練云々とは全く関係のないものだ。

「後、厄介な仕事に付き合えとも言われたような……」

「任務に一般人を巻き込むつもりか恥知らずめ!」

「いやだってさ、お嬢ちゃんが死にたいって言うんだもん! おっさん何でもプレゼントしたくなっちゃうじゃん!」

「拒否してよ! うちの騎士団の評判が悪くなるだけじゃんか!」

「いや、そうとは限らないぜ?」

 勝ちを確信したのか、ニコラは含み笑顔を浮かべながらシャルルに耳打ちをし始めた。

「……確かにそうかもしれないけど、やっぱりリスクが大きすぎるよ!」

「ダメ元だよダメ元。皆が生きて帰るための最善手だぜ?」

「私は死なせてくださいね?」

「お、おう……マジで死にたいのな、お嬢ちゃんは……」

 死にたいけれども死ぬ気はないニコラと、一秒でも早く死にたい葉月。

 同じ『死にたい』でも、その覚悟は天と地ほどの差があった。

「お嬢ちゃんもやる気だし、ここは俺の策に賭けてみてくれや」

「……絶対、死なせちゃダメだからね?」

「生憎、ニコラ騎士団は精鋭揃いでね。死なせる方が難しいぜ、こりゃ」

 ニコラは、シャルルに街の見回りをするよう命令し、葉月には同行を命じた。

「さて、作戦会議といこうじゃねーか。主役は勿論お嬢ちゃんだぜ?」

「はい。スポットライトは常に私の上にあります」

 異世界にきた葉月が、初めて心からの笑みを浮かべた。


 ニコラは、疲労の色が窺える葉月を気遣って馬車を雇った。そのおかげで、二人は楽に城下町にある騎士達のキャンプまでの移動を済ませることができた。

 王都へと繋がる門のすぐ近くにある、民家程度の大きさの建物。ここが、今回の拠点となる場所らしい。

 葉月が中に入る頃には、ニコラの部下らしき騎士達が、既に整列を済ませていた。

 壁際に並ぶ騎士の間を通り抜けたニコラが、中央に鎮座する机の前で立ち止まる。

 そして、威厳のある声色で現状報告を始めた。

「さて、ニコラ騎士団の団員であるヴァイオレットとマジェンタからの報告によると、標的は今、城下町にあるアジトに潜伏しているようだ」

 ニコラが、机上に広げられた地図を指差しながら話を進める。

「標的の身元は一切不明。我々は、その手口から、奴を『鎌鼬の辻斬り』と呼んでいる」

 『鎌鼬の辻斬り』──名前だけで、その人物が鋭い刃で人々を斬り伏せていく姿が目に浮かんでくるようだ。

「どうもこいつは革命派の人間みたいでな。被害者は、いつもオブリエルの信者だ。というか、もうオブリエル本人も致命傷を負わされちまった」

 ここで、葉月はオブリエルの凄惨な傷跡を思い起こした。

 鋭利な刃物で裂かれた白い羽。『鎌鼬の辻斬り』という名前……パズルに、次々とピースがはめられていく。

「あのオブリエル様を倒した相手──そんな奴に、我々は勝利できるんでしょうか……?」

 一人の騎士がそう呟くと、他の騎士達にも不安な感情が伝染していった。

 ほんの僅かな時間で静寂を失った拠点に、渇いた手拍子が二度鳴り響く。

「黙れ黙れ。まだ話は終わってねーぞ。正直、お前らの気持ちはよーく理解できる。だから、そんなお前らのために特別な作戦を用意した。全員生きて帰るための、素晴らしい作戦だ」

 葉月を含めた全員が、ニコラの話に傾聴する。

「お前らも気になっていたと思うが、彼女──名前何だっけ?」

「三碓葉月です」

「そうそう、葉月だ葉月! シャルルがそう呼んでいたのを今思い出した! んで、この葉月ちゃんをここに招き入れたのには理由がある。そう、彼女を囮として使うんだ」

 ニコラは、葉月に保守派を装わせて、『鎌鼬の辻斬り』を釣ろうと画策していると伝えた。

 「民間人を作戦に巻き込むのは愚策だ」、「か弱い少女を囮に使うなんて最低だ」という騎士達の言い分には、葉月が自分で反論をした。

 あっという間に葉月の狂気に圧倒された騎士達は、納得できない気持ちを胸の内に秘めながらも、作戦内容に否定をするようなことはしなかった。

 話は纏まった。アランは満足げに頷いて、参加メンバー達に役割を課す。

「葉月ちゃんには、空き家の二階でオブリエルに祈祷をしてもらう。奴を誘き寄せるためだ。室内には、俺を含む七名の騎士を配置しておくから、葉月ちゃんは安心して役目を果たしてくれ」

「護衛は杜撰でいいですよ」

「……こほん。奴が囮に釣られたら、建物の周辺に待機していた五名の騎士を突入させる。三人を殺し、一人に重症を負わせてなお顔が割れていないようなやつだ。退路はしっかり塞いでおかないとな」

「ちゃんと、私に釣られてくれますかね?」

「それは、葉月ちゃんの演技力次第だな」

 手っ取り早く死ぬためには、犯人を騙すほどの名演技をしなければならない。

 逆に言えば、名演技をするだけで、自分は死ぬことができる。

 他の方法を試すよりも、ずっと簡単だろう。

 葉月は、少しでも完璧に近付くために、脳内でシミュレーションをし始めた。

 無論、作戦を成功させるためのものではなく、最高で最速のをするためのものだ。

「俺、今日を生き延びられるのかな……」

 アランの計画は、『鎌鼬の辻斬り』を確保することに特化しており、騎士達の生死にまで気を配られていないように窺える。

 何人かの犠牲が出るビジョンを敏感に察知した騎士の青年は、捨て犬のように身を震わせながら、己の感想を率直に述べた。

「まだ命の心配をしている奴に朗報だ。向かいの建物に、ヴァイオレットとマジェンタを配置する」

 これの何が朗報なのかがちっとも分からなかった葉月に反して、周囲の騎士達は見違えるほど士気を上昇させていった。

 拠点が騒々しい歓喜の声に包まれたことから、名前を挙げられた二名の実力が葉月にも見て取れる。

 騎士のコンディションが最高潮に達したと同時に、ニコラが締めの台詞を高らかに宣誓した。

「いいか、今宵で『鎌鼬の辻斬り』を確保する。二度と奴に刃物を握らせるな!」

「「「おー!」」」

「お、おー……」

 文化祭の準備ではしゃいでいたクラスメイトを彷彿とさせる空気感。葉月は、失敗へと続くことの多いそれを気掛かりに思っていた。

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