じゃあ、やっぱり死ぬのが正解なんだ

 乱れた呼吸を整え、葉月とシャルルは“ファーストレイ”への帰路に就いた。

 道中、シャルルはフリティラリアの観光名所や、美味しい料理を提供してくれる店舗などについて語り聞かせていたが、葉月はそれらに微塵も興味を示さなかった。

 シャルルの努力も虚しく、二人はとうとう目的地へと到着してしまう。

「しばらくは、“ファーストレイ”でお世話になるといいよ!」

「どこかにいくんですか?」

「私は騎士だから、そろそろ警備に戻らないといけないんだ……またね!」

 元気よく手を振るシャルルに冷めた目を向けながら、葉月はボソッと言葉を漏らした。

「結局、目を離しちゃうんだ……」

 葉月は、自分にしか聞こえない声の大きさで言ったつもりだった。

 だが、シャルルが困ったように後ろを振り返った姿を見て、その考えが誤っていたことに気付いた。

「仕事なんだってばー! ついでに言っておくけど、私がいない間に死んでやるーなんて考えないでよねっ!」

 葉月は、不機嫌そうにシャルルを睨み付けた後、無言のまま“ファーストレイ”の扉を潜った。

「よかった、生きていたか……!」

 不穏な言葉のお出迎えを受けた葉月は、素早くアランから視線を外した。

 流れる景色は、端に作られた休憩スペースで着席している少女のところで停止する。

 ミルクのように白くて長い髪に、馬が駆け出しそうな新緑色の瞳。石膏のように白いシルエットの肉体とは裏腹に、纏った衣装は夜を映し出す漆黒のロリータファッション。

 右の顔半分と右腕に巻かれた包帯は、遠目で見ると髪か皮膚の一部であるかのようだ。

 そんな白と黒のコントラストはとても印象的なものであるが、葉月の視線の先にあるものはそれではない。

 この世のものとは思えない白さを誇る穢れなき左翼。それと、鋭利な刃物で切断されたように欠ける穢された右翼。羽が閉じられていても、その痛々しさは隠しきれていない。

「何?」

 初対面の相手にまじまじと見つめられることは、気分がいいものではない。

 純白の少女は、訝しげな表情で葉月を見つめ返した。

「……いえ、とても美しい翼だな、と思っただけです」

 何層にも重なった羽根の一本一本が衝撃を吸収してしまいそうなのに、お構いなしに全てを切り裂いた刃……それがあれば、神の特権をも上回れるかもしれない。

 そう。葉月の『美しい』という発言は、少女の白い羽に向けられたものではなく、そこにできた斜線に向けて言い放たれたものだった。

「……私も、少し前までは自慢の翼だと思っていたわ」

 羽を生やした少女は、小さなテーブルの上にあった白いマグカップを両手で持ち、口まで運んだ。

「手、動かしても平気なんですか?」

 扉のすぐ横の壁に凭れ掛かり、葉月が質問をする。

「手はもうほとんど治っているわ。心配してくれて、どうもありがとう」

 両手でマグカップを握らなければ持ち上げられない状態のことを、果たして『ほとんど治っている』と表現していいものなのか。

 納得しきれずにいた葉月だったが、本人が大丈夫と言っているのであれば口を挟むのは野暮というもの。

 葉月は、少女の手に向けていた興味を他の場所へと移した。

 テーブルに立て掛けられた杖。そこから少し目を動かして、包帯が覗く足を視界に捉える。

 きっと、右足もまだ痛みを訴え続けているのだろう──葉月は、目に飛び込んできた情報からそんな推測をした。

「私はリ──じゃなくて、オブリエル。あなたは?」

 葉月に悪意がないことを察したオブリエルは、彼女と友好関係を築くために互いの名を教え合うことにした。

「三碓葉月です」

「……失礼。どこからが名前なのかしら?」

「葉月が名前です」

 三人の反応を受けて、葉月は自分の持った日本人の名前が、この世界では一般的ではないという疑惑を確信へと変換した。

「葉月さん、ね。あなたは、ここをよく訪れるのかしら? 私は……こんな身体だから、アランさんに特注品の服を作ってもらっているの。本当は、黒よりも白の方が好きなんだけれど……って、ごめんなさい。質問をした後に自分語りなんて、対応に困っちゃうわよね?」

「……いえ」

 これ以上話すのは失礼だと思っているオブリエルと、何も語るつもりはないと考えている葉月。

 異なる理由で同様の結論──沈黙に至った両者の間には、むず痒くなる空気が漂っていた。

「オブリエルは、フリティラリアにあるホープネス大聖堂に住まう天使なんだ。正義のために戦ったという記録から、『フリティラリアの英雄姫えいゆうき』と呼ばれることもある」

 途絶えた会話を再開させたのは、いつの間にか奥の部屋へと消えてしまっていたアランだった。

 彼は、運んできた黒いマグカップをオブリエルの使っているテーブルに載せ、立ち話をしている葉月の方を振り返って口を開く。

「裾上げにはまだ時間が掛かる。それまで、二人でゆっくりティータイムを楽しむといい。まぁ、中身は紅茶ティーじゃなくてホットココアなんだが……」

 自分はどうするべきかと思慮を巡らせていた葉月だったが、オブリエルの星のように輝いた瞳に負けて、一緒にお茶をすることにした。

 葉月が席に着くと同時に、オブリエルは興奮気味に口を開く。

「葉月は何が好き?」

「……チョコレート」

「私も好き! すっごく甘いやつ!」

「……好きなのは、結構苦いやつ」

「一番は甘いのだけれど、苦いのも嫌いじゃないわ!」

 葉月は、今生の別れをした親友にそっくりな話し方をするオブリエルに一方的な苛立ちを感じていた。

 それを表に出さなかったのは、甘ったるいココアが感情を抑制してくれていたからだった。

「他には何が好き?」

「うーん……パンとか?」

「ふふっ、食べ物ばっかりね!」

 葉月が、一口だけココアを啜る。

「でも、気持ちは分かるわ。美味しいものを食べている時って、ああ、私は今も生きているのねって実感できるもの」

「生きる実感を得られることが、好きなものの条件なの?」

「そうではないけれど、生きる目的になるものを嫌いになる理由なんてないでしょう?」

「……否定はしない」

 満足感すきなものを得ている時だけは、不治の病に侵される恐怖を忘れることができた。その瞬間だけは、生きる実感とやらを感じることができた。

 葉月は、失った己の一生に思いを馳せながらオブリエルの話に耳を傾けていた。

「生きているって、本当に素晴らしいことよね。だって、生きれば生きるほど大切なものに出会える機会が増えるもの!」

「早計。大切なものを手にすれば手にするほど、死ぬのが怖くなるでしょ?」

「然り、ね。私も、いつ死ぬか知れたものじゃない大怪我を負った時に、この幸せだけは失いたくないって生に縋り付いたもの」

 オブリエルは、優しく右の羽を撫でた。

 その表情は、まるで無数の死を見てきたかのように暗く、重苦しいものだった。

「生まれた直後は、きっと怖いものなしなんでしょうね」

「失うものがないもんね。ちなみに、今私が一番欲しているものがこれだよ」

 だから、葉月は一日でも早く死ななければならないと思っている。これ以上、死ぬのが怖くなる前に。失うものが増える前に。

「それこそ早計よ。失うものがない人生なんて、とても生きているとは言えないわ」

 失うものがない──それは、即ち無だ。

 人間、生きていれば必ず何かしらとの出会いを経験する。つまり、それがないということは生きていないということ。そんな状態は、心臓が動いているだけで死と何も変わらない。

「……じゃあ、やっぱり死ぬのが正解なんだ」

 まだ中身が残ったままのマグカップを机に置き、葉月は席を立った。

「えっ……どこかへ出掛けるの?」

 慌てて立ち上がろうとするオブリエルだったが、足が言うことを聞かず、再び椅子の上に落ちてしまった。

「ちょいと、地獄にでも旅行しようかと思いまして」

 葉月は、去り際に次のような言葉を残していった。

「オブリエル。あなたと過ごした時間からは、ちっとも生きる実感を得られなかったよ」

 葉月が向かう先は、フリティラリアの観光名所となっている巨大な石の橋。シャルルが、『下を流れる川は、まるで神の水瓶から零れ落ちた水のように澄んでいる』と語った河川だった。

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