だったら、私は君を殺さない
「異世界?」
シャルルは、聞き慣れない単語に首を傾げた。
「それは、ここ王都フリティラリアの外からやってきたという意味かい?」
そういう捉え方もあるのかと感心しつつ、葉月は首を横に振って否定を表現した。
「いいえ。そのままの意味です。私は、こことは違う世界からやってきました」
葉月の発言は、シャルル達にとってにわかに信じ難い内容だった。
異世界の住人であるシャルルとアランは、互いに顔を見合わせて肩を竦め合う。
「仮に、その話が事実だとして……葉月は、一体全体どうやってこっちの世界にきたのさ?」
顎に手を当てながら、シャルルは疑問に思ったことを葉月に尋ねた。
「アウロラという女神が、神の特権……だかを使ったと言っていました」
「アウロラって、女神のアウロラ様のこと!?」
「神の特権だって!? 冗談だよな……!?」
言ってもどうせ分からないだろうと高を括っていた葉月は、シャルルとアランが飛び上がるほど驚愕したことに動揺を見せた。
「……お二人は、アウロラのことをご存知なんですか?」
「ご存知も何も! アウロラは、この世に人間を作り出した女神の名じゃないか! って、それを知らないってことは、本当に──?」
奥ゆかしく、人間に頭まで下げた女神が、まさか人類の母だったとは──葉月は、ここにきてようやく事の重大さを実感し始めていた。
「と、とにかく、その命は大切にするんだよ? アウロラ様からの贈り物なんだから!」
葉月は、希望と正反対の行動を推奨されたことを悲しく思って、咄嗟に視線を下に逸らしてしまった。
「……お言葉ですが、私は今も死を探しています。嘘だと思うなら、ここに刃物を持ってきてください。見事、この首を切り裂いてご覧に入れましょう」
下げられた目が、再び前を向く。
その時にはもう、先ほどまでの弱々しいオーラは完全に消え去ってしまっていた。
「何を言ってるのさ!?」
葉月の肩をがっしりと掴んだシャルルは、変なことを言う少女の目をしっかりと見つめて生きる喜びを伝え始める。
「生きていれば美味しいものを食べられるし、綺麗な風景だって眺められる! 気の合う仲間を見付けた時の昂る感情は、何物にも代え難い心地よさがあるじゃないか! 死んじゃうと、これら全てを失ってしまうんだよ!?」
近距離で自分を見てくるシャルルを煩わしく思った葉月は、今度は視線を横に逸らして反論を述べた。
「それらを失う瞬間を知らないあなたには、私の気持ちなんて分かりませんよ」
「分からないさ! でも、葉月は今生きてる! だったら、少しくらい足掻いてみようよ! 私も協力するから──」
「御託はいいので、今すぐ私を殺してください!!」
激しい剣幕で怒鳴り付けられたシャルルは、葉月との接触をやめ、踵を返した。
「──分かった。分かったよ! 葉月の願いを叶えてあげる!」
「おい、シャルルマーニュ──!」
「葉月、付いてきて。汚れてもいい場所で執り行おう」
「……恩に着ます」
一度は呼び止めようと手を伸ばしたアランだったが、すぐに引っ込めて、シャルルの肩ではなく自分の顔にそれを当てた。
「シャルルマーニュ……お前、いつか騎士団を追い出されるぞ……」
軽快なベルの音だけを残して、美しい二人の少女は服飾店を後にした。
王都の門を抜け、更に城下町を通り過ぎた葉月を待ち受けていたもの。それは、緑広がる自然豊かな空間だった。
「あそこに立って」
シャルルが指差した場所には、不自然に草が排除された円形の渇いた土があった。
「そこは昔、処刑場だったんだ。多くの血を吸い込んだ土壌は、草木を含むありとあらゆる生を拒絶した」
「処刑場の横に王都……ですか」
葉月は迷うことも怯えることもせず、まるで日課の散歩でもするかのように円の中に入っていった。
「逆だよ。王都の横に処刑場があるんだ。光の裏に闇があるように、王都には穢れた過去が付き纏う」
立ち止まった葉月に向かい合う位置まで移動したシャルルは、ゆっくりと右手にはめたシルクの手袋を外した。
取り払われた白い布の下には、同じく雪のように白く、きめ細かい手がある。
そして、その指の間からは、黄金に輝く一本の鍵が見え隠れしていた。
「──開け、私のシークレットボックス!」
鍵を手に持ったシャルルが、金色のそれを虚空に向けて突き出し、解錠するように腕を捻る。すると、何もなかったはずの空間から、鎖に繋がれた直径四メートルはある巨大な鉄球が出現した。
「今からこれで、葉月を叩き潰すよ……本当にいいんだね?」
葉月が躊躇いなく頷いた姿を見て、シャルルは出血するほど強く唇を噛み締めた。
「……私は、一人でも多くの民の願いを叶えるために騎士になった。それができるだけの力と地位を手に入れて、ずっと憧れていた英雄になりたかったんだ」
「……シャルルの夢、今叶えられますね」
「あぁ。悲しいことにね……私はもう、二度とこんな願いを叶えたくない──二度と、葉月のような願いを抱く人が生まれてほしくない」
「……それは、私も同感です」
少女は、誰よりも優しい目をしていた。
天を仰ぐその姿は天使のように純粋で、とても死を目前としている者のようには見えなかった。
美の顕現を目の当たりにしてしまったシャルル。彼女は、恐怖に震える手足を鎮めるために、大きく深呼吸をしてみせた。
「すー、はー……よし──いくよっ!」
決して軽くはないはずの鉄球が、羽のようにふわりと宙に浮かび上がる。そうさせているのは、シャルルもとい彼女の能力だ。
空中で激しい回転を見せる鉄球。その速度は次第に増していき、次の瞬間、蓄えたエネルギーを惜しみなく使って葉月の方へと進路を変更させた。
眠るように軽く目を閉じる葉月の鼻先に、硬く冷たいものが触れる。しかしながら、その物体がそれ以上葉月に接近することはなかった。
「……どうして止めたんですか?」
無機質な鉄球よりも冷めた声で、葉月が約束を破ったシャルルを責める。
「……私には無理だっ!」
詰まる空気と共に吐き出された言葉は、人間によって葉月の機嫌を損ねる意味を与えられていた。
「あなたは、私を殺してくれると言ったじゃないですか」
「言った! でも、覚悟が足りなかった! 所詮は口だけだった! 私に民は殺せない……!」
「民は殺せない……」
言葉の綾。表現の問題。そんな僅かな過ちが、一人の異世界転生者を更に狂わせていく。
「──だったら私、民を止めます」
横へ移動し、眼前に迫る黒い太陽の側から離れた葉月は、至って普通に歩いてシャルルに近付いていった。
シャルルには、その普通こそが何よりも恐ろしく感じられた。殺されそうになった相手が、殺そうとした相手に殺意すら向けずに歩み寄ってくるなど、とても普通のことではなかったからだ。
一方、葉月は神の特権によるギフトがいかほどのものなのかを確かめていた。
開閉する手の感覚、止まる気配のない自信。はっきり言って、この肉体は無敵に近いものであると確信していた。
葉月は、軽く大地を蹴った。すると、身体がふわりと浮き上がって、鷹の飛翔のような速さで座標を移動することができた。
あっという間にシャルルの側まで肉体を持っていった葉月は、簡単に折れてしまいそうなか細いシャルルの首を両手で鷲掴みにした。
その時の勢いで、シャルルは後ろに倒れ込んでしまう。
「ぐっ……がっ……!」
呼吸のできない苦しみに藻掻くシャルル。お世辞にも鍛えられているとは言えない肉付きの少女が、王都の騎士ですら振り払えない力を有しているなどあり得ない──追い込まれながらも、シャルルは冷静にそう分析していた。
「さあ、どうです? 私は騎士に仇なす悪人ですよ? こうすれば、あなたは私を殺せますか?」
「舐め……るなぁ!」
限界以上の力を足に込め、地面を蹴るシャルル。
どうやら、葉月の体重にまでは神の特権の補正が掛かっていなかったらしく、咄嗟に手を離した少女の胴体は、一回転したシャルルの足の更に向こう側まで飛ばされていた。
すぐに態勢を立て直し、横たわる葉月の髪を掴んで上を向かせ、首元に鍵を向ける。もっとも、この鍵自体は戦闘用に作られたものではないため、殺傷力は皆無だ。
「君は今、犯罪者となった。だから、私は罰を与えなければならないっ! 君が望むものは死──だったら、私は君を殺さない! 死なせたりしない! 一生生かして、一生死の恐怖に立ち向かわせてやる! いっぱい幸せにして、失う恐ろしさを大きくしてやる!」
汗、涙、唾液。己の頬を濡らしたのは、どの体液だったのだろう……そんなくだらないことを考えられるほどに、葉月の頭はすっかり冷静さを取り戻していた。
「……いいです。あなたは私を殺せないと分かりましたので、もう抵抗も反抗もしません」
死んだように脱力した葉月。この少女にはもう、戦う意志はない。だったら、シャルルが彼女を押さえ付けておく理由もない。
「正直、私は葉月の覚悟を舐めてたよ……」
葉月の横で仰向けになったシャルルは、苦笑を浮かべながらそんなことを口にした。
「分かってもらえたようで何よりです。殺したくなったら、いつでも殺してくださいね」
葉月が、シャルルの方を向いて言った。
「……罰。もう忘れたの?」
シャルルも、視線を葉月の側へと移して返答する。
「余りにも理不尽な判決なので、控訴させていただきます」
処刑場で、一滴の血すら流れない争いが行われた。
仰向けに倒れる二人の少女は、これから先、何を見て何を思うのか。
それは、その時がやってくるまで誰にも分からない。
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