⑭ヘイトレター

シャーペンを走らせるのは画用紙を切り裂くように。画用紙を無視して歪めた直線の閉鎖区画の内部の平面を隔て。尖った筆記用具の部分が学習机の保護フィルムを射撃すれば結果として画用紙には線の連なりが生じた。名称を排した黒鉛の性格がパルプの広がりに時のまま出現した。嘔吐する程のわたしの内側を上肢の微細に込めて外周を刳り貫く右手が動きに折れ曲がり屈伸運動するようなやり切れなさを一蹴した。線の消滅に固執しない意志ある濃淡と角度が画用紙の眼中に決定的な想像を特異に描くわたしは、潤滑に時に筆を止めながら胸にある物を一つの形としてただそれ以上の表現を省いて直接に写した。わたしが十分弱でイメージから複製した線画のキャラクターは灰色の肌と噛み合わない肩甲骨と長い脚と首吊り用のロープを司った物体の全体像は文学に反骨した物ばかり浮遊し掠れている。白く伸びた髪型の未確認生物に喩えてはしまえないモノクロの造形が完成した。更なるわたしの手の切っ先はコマと呼ばないコマに囲まれて2Bの芯を屈折に移らせた。

中三の夏以来、漫画を描くことは一日の欠陥のない日課となり生きる手段となった。親に貰う定期的な小遣いを画材に変換して平日は教室の後部座席、休日は部屋の回転チェアに座り長方形の白紙をそれだけに気を向けて描き尽くすことに没頭した。クラスメイトが近くで喚く時も親が家族会議を拵えて来る時も漫画を描くことが大事で優先だから描いた。漫画を描いているとわたしの内側の全てが具体的になるようで、しかしながら抽象性を維持していると思える。完成品を眺めるのは自分を見返すのと同じで良ければ快いし悪ければ悔しいけど、一番興味深く且つ意義があるのは秒単位の創出途中だ。自分の保持や飛躍を机上でリアルタイムに確かめられることより良いことはない。

何処まで形跡の残る線を何処まで引くか。長さ短さ、細さ太さ、広さ狭さ、濃さ薄さがどの度合で装いを変えていくのか。何通りもある順路をたった一つに決めて描き出せば自分らしさの代用を担う絵が生まれる。絵が絵であることは変わらないから見る人によって善し悪しは変わるだろうけど、わたしが絵を描くことはわたしの人生と平行線を描く。わたしの人生その物は奪われない程度にわたしの鬱憤のような創作意欲を表し続け、わたしにしか描けない絵しか描かない。そんなわたしのオリジナルアートに多少の脚色を添えてあげれば絵画は漫画になり、わたしと違った人からの解釈もカバーする。はずなんだけど、クラスの奴らに見せる時は大概「よく分からない」か「凄いね」という同義の一言のみが寄せられる。お前がファンレター送るとしたら受取人の作家が花粉症患者の場合は鼻水を紙飛行機職人だったら商売道具として飛ばすことになるよねと予想するけど元からわたしとお前の間には何の社交性もなかった、とそういう時思う。理解されないことは何となく分かってるしそうされない作品も作品で自分さえ愛していれば取り敢えずいいかと今は考えている。見せる相手と親交があれば話は一変するのかもしれないけどわたしは平面の方を、絵だけを作っていきたいんだ。

授業中も在宅中も修学旅行中も家族旅行中もトイレと風呂と帰宅中は流石に例外で退屈な余暇を発することなく絵描きに費やす。無駄な時間は出来るだけ避けていきたい。人生の時間は限られていて死んだ後にも絵を描けるとは限らなく、いつ運が悪く死ぬか分からないから。例えばあそこのブラインド仕掛けの窓から不審者が誰一人撮影しない現場で映画のように身と硝子を粉にして強襲する犯罪者だと明らかになるかもしれない。一目見て女性だったら悩み所だが男性だったら愛用のシャーペンをぶっ刺すしかない。そしてその体液をインクに使えば生き生きとしたタッチが誕生するに違いない。でも腐臭がきつそうだからやらないしまずありえない。

夏休みは時間が溢れている点で比類なく都合が良い。部活生徒会夏期講習、どれを選んでも暦に記載のないわたしの夏休みは絵を描いていることを疎外すれば家に居ることが唯一の生活習慣と見られる程だ。事実、わたしがグラフィカルな取り組みを趣味以上としているのは親へはむざむざ公表してないので親はわたしがえぬいーいーてぃーであると誤認しているとしてもおかしくない。確かにこの規範に外れた漫画を今すぐ賞に出してデビューしようとの企みは毛頭なく卒業後どうやって生計を立てるかは不定だけど、別にどうでもいい。暮らしは最悪養ってくれる人を見つければいい上、漫画家になれるのだとしても描いている内に自然にそうなっていたってのがあらましだ。金銭は健康で文化的な最低限度の生活を過ごす為の手段でしかない。温度差はあれど言ってしまえば絵を描くことも変わりない。

机に直向きな猫背を取ること二時間半、夕日が地平線下に没入すると絵描きも佳境に突入し最後の仕上げにまで迫っていた。その時重く低い音質で何かが何かを呼ぶ声が轟いた。

きさきぃ、ご飯だぞ」

仕上げはお母さん、ではなくお父さんがわたしに野太く夕食を呼びかけた。コールはお母さん担当なのに類希なる。降板されたのかどうか取材すべく中途半端な線路をドローし、シャーペンを伏せてターンエンド。四十秒で支度したと高唱できる駆け足で食卓の取り巻きに参加した。母父娘、計三人の核家族だけど。

「いただきます」

空疎なコップに氷と緑茶を収集した後、一膳の箸で葉菜に口付けする。栄養素をぱくぱくしていると、お父さんが凍ったグラスに麦酒を点滴してわたしとお父さんが卓を挟み打ちする形となった。新聞紙を相することのある懐は今夜は空席、という見映えに斟酌するまでなく血肉化に勤しみ、前掛けに巻かれるお母さんが絨毯に円やかな尻餅を着く。薄型に地上波を披露させ、点いた映像は何気ない晩餐に穏やかではない事件の臭いを調合した。遠くの都会の街角でよくありそうな猥褻犯罪が起こったらしい。犯人の動機は劣情が絡んだ揉め事によるようだけど、完全に下らないし癪が荒れる。騒動その物もそれを知らしめてくるこの番組も、何奴も此奴も痴情の縺れに気を囚われる奴らばかり。知性の稼働もなく感性の刺激もない恋愛ごっこがそんな愉快に思えるほど人類は動物なのか。誰にも描けない絵の未知を探すわたしのレベルまで来れる人間が少な過ぎる、饗応の最中痛感した。

「ごちそうさまでした」

芸術家の垢を煎じる見込みもない世界から飽食しない内に出てゆくわたしが慎ましく言って居間を去る。制度上巣に帰る雛鳥は親鳥との共鳴も程々にして自分のやるべきことに精を出す。昨日や一昨日と双璧をなす部屋の奥に入り、循環する席でシャープペンシルに握力を担保させ、未完の未を末期の末に翻字すべく仕上げを施す。終始独自の筆遣いを忘れないよう順調に放射させゆく。

十分後、やっと完成した。午餐より遥かに濃密な過程を経て四つ切り一帯の漫画が終結した。漠々としたキャラクターが線に組み合わされながら睨んでいる。

コンコン。一枚絵の景観に肩を落としたまさにその時、ローペースなノック音がわたしの部屋を叩く。これまた定石にそぐわない体裁につき隙が貫通したらしく緊縛する。

「入っていいか?」

四捨五入すれば宣言を立てているも同然なのはお父さんで、わたしは仰せらるるまま認める。万が一拒絶すれば親子の絆に切り傷が火花を散らすことは万に九千九百九十九だから。

のそのそと部屋に合法侵入するお父さんは「ちょっと失礼」娘のプライベートを妨げることへ一抹の敬意を払いつつわたしの身近に立ち寄り、寝台の柵に自重を託す。取るに足りない稀代の説教を乞う近未来が予知されるが、何やらそうではない、マニュアルにない互いにぎこちなく立ち居振る舞われる。間を空けて均衡を破るお父さんが尋ねた。

「……后、最近楽しいか?」

腐りかける程には親しい常套句が見えない壁の暖簾をそよぐ。またかよ、わたしは見せられない溜息を溜める。二ヶ月半前、母親と鳥の散歩みたいな喧嘩をした日の通わない語らいが後遺症のようにタイプリープしてやって来る。

「うん」応急に深く考えることを引退した接し方で父親に明るく元気に気持ち良く喉を絞る。しかしながらあまりの漠然さに「何で?」と入念に聞き返すと、「いや、それならいいんだけど」それを文頭に掲げて父親との応対が立て続く。

「夏休みに入ってから后、あまり外に出掛けないだろ?」

面倒と恐れが伴う詰問が展開を急がせる。直面しないよう部屋のあちらこちらに注目を配分する。こうやって見渡せば父親に費やす労力も薄まって消えてくれるかもしれない。

「部屋に篭る日が続いて、お父さん心配なんだよ。お母さんも、心配してる」

効果はあっけなく、精神への負荷は消滅の気配がない。絞りが切迫して窮屈で狭苦しくて唾が飲み辛い。

「嫌なこととか、辛いこととか、そういうのはあったりしないか?」

そんな簡単に聞いてくる。

嫌なことか。

あり過ぎて何を答えていいのやら。今こうして時間の無駄な親子関係に屈してることも含めて、色々あるけど。わたしという恐怖症で成り立っているような生い立ちを掻い摘んで話すことなんて、したくもない。

だけどまぁ発端だけなら心の犠牲を屠って追想できなくもない。当時純粋無垢の外套を着て何も知らなかった小学生のわたしが綴ったラブレターが、今のわたしの原作だ。相手は今でもはっきり輪郭を空に描ける、チェックのブラウスを羽織った同級生。身体特に胸に丸みを帯びる彼女へ他の誰をも送らない気持ちを募らせていたわたしは、心を決めて夜業して書いた恋文を、逸早く登校して机の引き出しにそっと封じた。けれど何日経っても反応はなかった。それどころかわたしの身の周りは日を追うにつれ何処か故障していった。

終にわたしは文字が嫌いになった。恋文に載せた文章を素に文字全般を厭うようになった。文字に頼る世界も人間も愛の形も全て失くなればいいと思って、失くした。卒業してから二年過ぎてその代わり以上となる、絵画という術に見惚れ始めた。吹き出しを作らない漫画はその名残であり基盤だ。当然蛇足な題も名付けない。文字から乖離すればする程絵は観る人の美的センスを瘋癲させる。文学的でない物語は桎梏に縛られず、直接人のシンパシーを訴訟する。そんな絵をわたし独特の遣り方で伝えたい。わたしは出来れば永遠に隔離されて絵を描きたいんだ。

だからわたしから、貴重な時間を奪うな。肉親であろうが同居してようが養育してようが父親とわたしでは考え方が違う。わたしの一秒と父親お前の衰退した一秒は対等じゃない。シャーペンをぶっ刺したい心模様。

「ないよ」

それでもわたしは痩せ我慢する。もちろんシャーペンの方を。わたしの最悪な履歴は当初から誰にも告白するはずがない。わたしのトラウマはわたしが背負って、わたしが打ち勝つ。絵を描くことはそれすら助けてくれる。

「なら、良かった」

「全然いつも通りだよ」

長文には及ばずとも多めの単語を使い聴衆の心構えを演技する。嘘は一つも吐いていない。

「そうかそうか。いやほら、后はいつも通り過ごしていたとしても、他の人から見ると必ずしもそう見えないからさ」

父親がそんなことを言い出す。それより早く次の漫画を描きたい。

「それに親って、どうしても子供を心配する生き物なんだよ。これは多分、どの親だってそうだと思う。子供のことが気にならない親なんて居ないんだ」

窃盗を正当にしようと説得する父親だけど容疑は否認できていない。他人の話はわたしにとって無縁なのに。まぁ父親も臙脂色の他人だから差詰めわたしと没交渉だけど。放置が娘の最善策と知っての罪科か。

などと暗中唱えていたら父親が予測の外に議題を砲撃した。

「あと、話は逸れるけど、后、将来についてはどう考えてる?」

濁していた茶が卓袱台返しされ、頭で編んだ糸が綻ぶ。鋭いペン先を縫い針にして父親に裁縫することはできず何も言えず黙りこくる。詳述すれば唇から鳴らす異音と咳払いは無力に流しているけど有力になる前兆はない。わたしが教科書的に思考錯誤していると、父親はわたしの腕で巧妙に下敷きと転職していた画用紙を覗き見る。ぎゅるぎゅると透明な体温計が加速するのが分かった。

「それとか、最近よく見掛けるけど……もしかして漫画家になりたいのか?」

「っ、………………………………うん」

抑揚の破綻した声で言う。閉塞的な平静でこの場を曖昧にする役作りに努力する。けれど唾液のサイクルが安定する傾向は感じられない。胸焼けも炎症してくる。自分の描いてきた物に恥じる理由はないはずなのに。

「……そうか。后がそう言うなら、親として応援する。だけど、それって決して楽な道じゃないだろ?」

厳しい家系だったら将来は拘束されていて我が家はまだ恵まれている方なのか、なんて感謝するはずなく、単なる義理の立場で何時までも居続けて欲しいと思った。好きなことを好きなままで居させて欲しかった。

「高校卒業まで残り一年、だな」

ちぐはぐな言葉を交えた結果、言いたい事のメインが父親から現れる。

「后が一年後も漫画家を目指していたら、お父さんお母さんも協力するよ。漫画家だって立派な仕事だと思うから。けどもし気が変わったら、お父さんにでも、お母さんにでも言ってよ。未来のことは分からないだろ?」

口癖である「未来のことは分からない」をここぞとばかりに擁して、娘の将来を締め括りに入る。それこそわたしには未来のことを考える時間なんてないのだけど。

「まぁでも后が元気なら良かった。お父さん安心した」

父親は表情筋を笑わせて、最後にそう言う。

「じゃあな」

父親が部屋の扉を閉める。階段を落下して離れてゆく。

あー良かった、帰った帰った。

確認した途端、涙と声が呻いた。

画用紙をくしゃくしゃに丸めてそいつを拭き取る。

死んだ心から棄てられた廃液だと思った。

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