⑦環状線で轢いてやろ

卒業式。

桜の薄っぺらい花が消えた正門を通り、私は体育館に入る。体育館の後ろではそれぞれの親達が皆一様に、ハンカチを取り出しては涙で拭いている。ぐずくず体液を啜る音が騒がしく、ノイズで騒音でうるさい。

背筋伸ばした国語の教師が千人近く集まる空間を統制する。授業とは違う、マイクで編成された声が私達卒業生の起立を促す。厳粛に加工した気を付け礼が指示され、かつ支持され、所謂一体感に被せられた皆が着席した。

限りなく小さい雑音の中に異音が発生して首を曲げると、隣に座るやつが顔を真っ赤に、人差し指に瞼を擦りつけていた。口の上下まで波立たせて、女泣きをしていた。そいつ以外の光景も見てみると、保護者含め、充血してる目が多い。流された涙ばかり流れている。あいつの姿は見えない。

校長が、式辞の項目に移り、壇上を滑らかに歩く。演台の前、拡声機越しに話し始める。要約すれば学校生活で得た経験を社会に生かしなさいと語った校長は、最後に卒業おめでとう、の決まり文句を添えて歩いた道を逆再生した。このタイミングで決壊する人間もいた。

プログラムに従い、席から独立した在校生代表、卒業生代表が互いに送辞答辞を連絡し合う。時折飲み込む嗚咽は会場の演出に貢献し、感動の渦が館内における立場の垣根を越える。スピーチが章末の句点を打つ頃には、見渡す範囲のほとんどが下を向いていた。

閉式前となり、終幕の演目として歌詞もろくに覚えていない校歌を歌う。三年間過ごした中で最も透き通った合唱に、震える歌声を混ぜながら私は口パクで参加した。

伴奏が引き、二度手間以上の着席をして、司会進行が式典の終わりを告げる。卒業証書の獲得と退場を兼ねて一組から順に立ち上がり、長い長い待機列を作る。あいつはどうしているのか注意していると、腫れた目尻を抱えた見慣れないあいつの顔が垣間見えた。

あいつも泣いてんのかよ。

私の在籍していたクラスの番が来て、アルミニウムの椅子を去る。出席番号一番からたっぷりの時間を浪費して待つ退屈を涙の代わりでも何でもなく流す。遅い一歩を前にいた人数分繰り返した先、ようやくコピーされた旧字体が踊る賞状と黒い円柱が、我が組の担任より直送される。一時間弱の前例は私にも適用するようで、他人でしかない担任と固く脆い握手を交わした。これからも頑張れよという激励を片耳で聞いて、体育館を出た。

埋め立てたら相当な効果がありそうな人口の密集を誇る体育館出口に留まっては気疲れするため、比較的人の少ない裏道に移動する。一呼吸置いて、既に出ていったあいつを探す。だけど見つからない。

目に入るのは、入学した時から三年経っただけの人間と、それを娘に所持する保護者の群れ。親交のある親同士が子を携えて、思い出話に枯れた桜を咲かせようとする。立派な大人になったわねぇ、感慨を共有しようと誘っている。大人になったと言われた子供も、大人になったように姿勢の正した格好を振る舞う。

あぁ、終わってるなと思う。

大人大人って、馬鹿の一つ覚えみたいに言って。

人は口々に『大人』『子供』という言葉を使う。それは卒業式に限らない。そして、『子供』から『大人』になることを『卒業』と言い表したりする。卒業式には、きっとこの意味も含まれている。

『大人になりなさい』『君はまだ子供だから』皆は自然に口にする。

いや『大人』『子供』関係ねーよ。それは何も考えてないからこそ生まれる発言だろ。その表現は、二十歳または十八歳のボーダーを越えた人間を形式的に二文字で記しただけではなく、明らかな含意があるよね。それはきっと精神的とか社会的な性格のことを曖昧に指しているのだろうけど、だとしても年齢と性格が比例すると決めつけたら大きな誤算だ。譲歩すれば、他人に足並み揃える自意識の少ない人は、老いるにつれて自分の考えを失い他人に紛れ、俗に言う穏やかな性格になっていくことは事実だけれど、意志の強い人は意志の芽生えた時点から一貫して強いままなんだよ。そして誰にとっても、生誕何年目であろうが、自分が自分であることに変わりはない。歳をとる中で少なからず性格の変動はあるとしても、それは『大人』になった訳でなく、そもそも『大人になる』こと自体意味不明だけど、主として環境の移り変わりによることで、取り違えるのは間接的に時間へ焦点を当てているからだ。性格が変わることは、それが幼年期であれ青年期であれ中年期であれ、『大人になる』ことでない。その間違いにも気付かず、もしくは気付かないように装って、『大人』と言った架空の存在に縋り、自分の無さを言い訳するように時間の責任にして、自分は『大人』として進歩していると言い聞かせる。自分が無いのに自分を励ますという矛盾であり、逆に自分のある人は『大人』という言葉を必要としなく、常に自分を自分にしたまま矛盾のない生き方を選ぶ。つまり性格や行動に、年齢は関係ねーよ。

『大人には色々ある』分かったように自称『大人』達は呟く。

なら具体的に言ってみろ。大したこと考えてないくせに。精々、給料とか会社とか上司部下のいがみとか生活とか結婚とか疲れたとか、やりたいこともない自分の取らなければならない無駄な責任に、煙草や酒や風俗などの一時的な娯楽を合間に挟んで、何となく生きてるだけだろ。それを社会や家庭のためになってると思い込ませている。社会の一部としての『大人』であることを自分の存在意義であると見なし、そうでない人を『幼い』と評する。社会に囚われた社会人が社会を成り立たせているのは確かだけど、社会なんてもっと広い視野で見れば人々の工作に過ぎなく、本来的には自分や自分の愛する物、者が最優先のはずなのに。だから詐称『大人』達は自分を、諦めてるだけだろ。考えるのが面倒になって、自分が無くて、皆が使う『大人』のフレーズを引用して。『大人だから』と知った風にして。

『大人って何だろう』などと考える振りをする人もいる。

だからそもそも『大人』という言葉には意味なんてないんだよ。『大人』『子供』『幼さ』『大人っぽさ』その他の関連語は全て空虚で的外れだ。大抵の場合、『立派な大人になった』は「社会と自分の関係を知り、おまけに顔と体が少し変形した」で、『子供っぽいことするな』は「社会のことを考えろ」で本質的に訂正できる。『子供』『幼さ』の方は特に論旨すら筋違いなことが多いけど、言葉遣いがそれをよりひどくする。『大人になる』ことに関して、自立すること、自力で生活することをそれとよく捉えられるが、それには非はないと思う。ただそれも『大人』と言い換える意味がないから誤りには違いない。

『あたしもう、そういうの卒業したから』

『大人になる』を暗に含めてこう言うケースがある。これにも上と同じことが言えるけど、『卒業する』は『大人になる』を更に短期的に、軽度にした物だと思う。卒業式だって、高々数年の時間に終わりを設定した儀式だ。その軽々しさが鼻につく。自分を簡単に否定すんなよ。繰り返しになるけど自分が大切なら、自分の過去はあっさり投げ捨てるはずがない。それに自分は変わらないし、変わらないはずだし、変わらないべきなんだ。対して『卒業』の響きは根底では変わらない過去の自分が、一過性の自分であったと切り離すように訴えかけてくる。卒業式では三年間の行動とこれからの行動を仕切ろうとする。人生は連続しているのに、そこで生き方を変える人が出てくる。『卒業』したことで捻じ曲げられた人達の心に、私は納得できない。同時に怖い。

『全盛期』という言葉も腑に落ちない。全盛期なんて誰の人生にもねーよ。強いて言うなら毎日全盛期だよ。単数にしろ複数にしろ、何回目か分からないけど自分が自分であり、あいつがあいつであることは不変で普遍だ。私に、私達に『全盛期』も『卒業』もあっちゃいけない。

何事も、時間のせいにする世界が嫌だ。

時間なんて関係ないのに。

あー、卒業式なんて出席しなければよかった。

私は卒業しない。卒業しない。

卒業しない。卒業しない。卒業しない。

卒業する訳ねーよ。


十九分見渡し続けて、やっとあいつを見つけた。

恐らく元一組の親子と向かい合って、泣きながら可愛く笑っている。一秒だけ迷って、すぐにあいつの元に駆け出した。

激しい人混みに阻まれ、誰にも話しかけられない隙間を掻い潜る。あいつの母親の背後まで迫った時、あいつ、いやこいつが私の登場に気付き、手を小さく挙げる。

娘の動作を切っ掛けに、何気に初対面の母親が振り向いた。

「あら、ひょっとして御徒ちゃん?」

そうですと頷くと、世渡りに使い古したのであろう上品な笑顔を作り、

「これからも仲良くして頂戴ね」

何の曇りも見せない『大人』の送辞を吐いた。それは私の台詞だけど、きっとこいつの母親は私達の関係を深く把握していない。こいつは十中八九言っていない。確かに言う必要は今のところない。だけど、言わないは言わないで。

「まだ帰らないの?」話を逸らして、想像を中断する。

「……どうする?ママ?」

「あらもう帰っちゃうの?御徒ちゃんのご両親とも、お会いしてないのに……まぁ早く帰りたいんだったら、御徒ちゃんと一緒に先帰っててもいいわよ。二人はいつもそうしてるんでしょ?」

話し振りから確信しつつ、私はこいつに顔見合わせる。

「じゃあ帰ろうよ」

「……そうする?」

定まらない答えをイエスと決定して、こいつの母親に学校を出る旨を伝える。

「気を付けて帰りなさいよ。御徒ちゃんもね。」

何かと心配症なのだろうこいつの保護者に見送られ、二度と来ない体育館に後腐れない別れを告げた。

乾き切った涙を貼り付けるこいつと、一切れの涙も生まれず正門を抜ける。

いつの間にか、こいつが『大人』びて見えた。

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