じゅくのなつやすみ
@renkon-28
第1話 コーヒーは苦い
全然眠れなくて、それで、今日のことを思い出していた。
「コーヒーのいい匂いだね」
コーヒー嫌いの私は、少し嫌味も兼ねて言ってみた。
「俺、コーヒー大好きなんですよ」
隣で愛おしそうに缶を眺めている後輩の村田くんとは、最近話すようになったばかり。
私は村田くんのことを知っていたけれど、彼は私のことを知らなかった。
だから、互いに興味もなかったので、彼と同じ塾に通っていたことを知ったのは、私が塾を初めて1年以上経っていた時だった。
彼も私と同じ時期に入塾したのに、互いにすれ違わなかったから。
「私は、コーヒーが苦手なんだ」
「え、そうなんですか?」
でも、1年経って仲良くなったことには、運命とか、そういう何か意味があるものだと思う。
「その香りは好き、でも飲めない」
「それ、なんか意味無いですよね、香りと味を楽しむ飲み物なのに」
それが、私には理解できないのだ。
まだまだ子供なんですよ、私は口をフグみたいに膨らませた。
「先輩は子供なんですね」
「私が今、それを思って不機嫌になったの分かってて言ったよね?」
「さぁ、どうですかね?ははっ」
村田くんの、そのきちんとした敬語は、話す度に素晴らしいと思う。
もう何回もこうして、塾の帰りに立ち止まって話してるというのに、タメ口にならない。
私達は先輩後輩という関係なんだなと感じさせる。
私はそれが嬉しかった、弟ができたみたいで。
仲の良い後輩は村田くんを入れて、5人程度しかいないから、この関係はずっと大事にできたらいいなって、何度も思った。
「口の中に残る苦さが、なんだか嫌」
「大人っぽい先輩も、コーヒー飲めないんですね」
「人は見かけによらないんだよ、村田くんはコーヒー飲めなさそうな顔してる」
「そうですか?」
村田くんはまた、コーヒーを一口飲んだ。
ふわっと、コーヒーの匂いが私たちを包む。
そもそも、私たちがこうして立ち止まってるのは、村田くんからの誘いからだ。
「先輩、一緒に帰りましょう」
あの時、不意打ちを食らったようだった。
まさか、帰ろうなんて誘われると思ってなかったし、目の前には先生もいたというのに。
「あーあ、幸せがなくなっていく」
村田くんは、缶を少し横に振った。
もう、底に残った少量のコーヒーしかないんだなと、音だけで分かる。
コーヒーが幸せだなんて、私には理解できない。
「そんなに幸せなの?コーヒーが?」
「飲んでみます?」
「え?」
その言葉の意味はよく分かったし、これが「関節キス」と呼ばれるのも、私にはよく分かる。
今、村田くんはどんな思いで、私に飲みかけのコーヒーを勧めたのか。
私、さっきコーヒー嫌いって言ったよね?話聞いてたの、君。
ふと、彼の顔を見た。
飲まないんですか?とでも言いたげな、涼し気な顔。
気にしてるのは、私だけなの?
私以外の女の子とも、普通にこういうことをするからなのか?
だとすれば、彼は、見かけによらず…。
そんな頭の中を全てかき消すような、苦いものが口の中に広がった。
飲んでしまった、彼の飲みかけのコーヒーを。
ただの後輩で、それも性別が違うのに、私はきっと平気を装って飲んだ。
「うわ、苦い」
「そこまで苦くないですよー」
恋愛対象でない男の子との関節キスは、許されるのだろうか。
最近、少し気になることばかりだ。
この前は遊びに行かないか誘われ、今日はこれだ。
勘違いでも本気でも、どちらにしろ私のことを好きなのではないかと、思ってしまう。
彼が私のことをどう思っているかはとにかく、私は村田くんを、ただの後輩としか思っていない。
だから、もし彼が私のことを本気で好きならば、私は最低なやつになってしまう。
「苦いね、コーヒー」
眠れなくなったのは、きっと、あなたの勧めたコーヒーのせいだよ。
「先輩、待って!」
私が塾の部屋から出た時に、後ろから村田くんの声がした。
振り返ると、村田くんはいなくて、外に出ると、別の入口から彼は出てきた。
「もうすぐ夏期講習始まるね」
「そうですねぇ、俺は部活がめんどうです」
地獄の夏期講習と部活。どちらも全然休みがない。
私は部活が忙しいという、彼らの気持ちはわからないが。
「夏期講習始まったら、一緒に帰れなくなるね、時間変わるし」
意地悪だけど、言ってみた。
私には他に好きな人がいる。
どうにかして、距離を取らなければ、面倒なことになるかもしれない。
「確かに、帰れなくなりますね…どっか行きますか?夏休み」
「え、2人で?」
出たよ、また、彼のよくわからん言動。
「いや、それは、勘違いされると面倒じゃないですか」
「でも、他に誘える子いないじゃん」
「俺は2人でも、まぁ、気にしませんよ」
どっちだよ。
今さっき、勘違いされるの面倒って言ったじゃん。
ツッコミどころ多くて、なんか、もういいや。
「てか、来年、もう先輩いないじゃないですか」
彼の弾丸トークはまだまだ続く。
そろそろ帰らないと、私、怒られちゃうのに。
「そうだよ、卒業しちゃうもん」
「夏休み帰れないねのレベルじゃないですよ」
そんなに、私と一緒に帰って、立ち話する時間が好きなのか。
それは素直に嬉しいが。
「時々、遊びに来るよ」
「え、塾にですか?」
「うん、先生にも会いたいしね」
なら嬉しいですと、村田くんは少し俯いて言った。
「花火しましょう、あと、夏祭り行って焼き鳥も食べたいです」
「いいね、焼き鳥。私はかき氷食べたい」
口の中でひんやりと溶けるかき氷を想像する。
私は、行こうという誘いに、断ることができなかった。
二人の汗が滴り落ちるのに、暑さを感じないこの時間。
セミの鳴き声が大きく響くのに、静かな夜。
ほんとに彼は、私に恋をしてるのだろうか。
私には、他に好きな人がいるんだよ。
言わなきゃ互いに、伝わらないままだけれど、もうそれでいい。
それでいいから、もっと君と話していたい。
あぁ、説明できないこの状況で、どうにもならないこの頭の中で、私は思いだす。
昨日のコーヒーは苦かったなと。
今日から始まる、最初で最後の君と過ごす夏休み。
きっと、口の中は苦い味のまんまだ。
じゅくのなつやすみ @renkon-28
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