澪から稜線まで

目覚め

 心地のよい音。

 耳を掠める、いいや、その音に包まれているらしい。

 私は意識がはっきりしてきたなかで、うっすらと目を開いた。

「………」

 思いのほか、眩しい場所だった。視野の全体がゆらめいている。音の正体が目を開けたことでわかり始めた。それは、ここが水中であるということ。

 水面の先には木々の緑が風にゆらめき、水色の空を飾っている。私のいる場所は、泉だろうか、鮮やかな水藻が柔らかくそよいでいて、銀色の小魚が身体を光らせ泳いでいく。透明な水面の先には小鳥がはばたき、まるで小魚と小鳥がともに踊っているみたい。

 なぜだろう? 苦しさは感じない。ただただ心地よさを感じる。こうやって、水に包まれているというのに。はっきりと耳元や素肌を撫でていく気泡の音がする。

私は微かに首を右横へむけた。視界には、細かい砂を巻き上げて湧き出る水。そして光りの柱で描かれる白い絵が砂の上を流れていく。小魚や水面の鮮明な影も。そして私は、それらの水底に刻まれる溝に身体を横たえているみたいだ。

 どうしても、私は自身の身体を見回すことはできない。ひと特有の長い手足も、水中では揺らめくであろう私の髪も見えない。ただ、四肢を動かせないだけだろうか。

 だっという音に私は水面を咄嗟に見た。気泡が数箇所で巻き起こっていて、それも落ち着いていくと、すると、それは数羽の水鳥が水面に着いて滑っていったのだとわかった。彼らの描く美しい波紋の四重奏が水面に折り重なる。

「ああ、可愛いな」

 足を動かしてすいーと滑っていく。彼らは特に私に気づくこともないのか、気持ちよさげに泳いでいる。

「あなたは変わり者ね」

 私は驚いて、首を声のした左横へ向けた。

 そこには水辺の生物がいて、岩場にむす苔に咲く花の間に一生懸命透明の卵を産み付けては、前足で器用に膜で覆っていた。名前のわからない小さな生物なのだろうけれど、今の私には私と同じぐらいに見えるから、私自身の身体がそれほど小さくなっているのだと気づく。

「変わり者?」

「ああ、そうさ? オスにも見つけられないように、そんなところに隠れたりなんかして。砂のなかには私らは卵は置けないんだからさ」

 私が、今話しているこの生物と同じ姿になっているというのだろうか。

 蜻蛉なら水面の藻に卵を植えつけるのだったろうか。

 私は夢想した。私が蜻蛉の卵として産み落とされて、そして孵って水中ですごし、そして時が訪れれば蛹から孵って羽根を広げ、あの天に羽ばたくのだ。それはのんびりとした日差しのなかでも、草花の間も、それに、優しげな夕日のさす時間にも。

 もしかしたら、この泉から見える山の稜線も望めるのかもしれない。それは、生命の神秘を感じた。この泉の澪から、山の稜線まで情操は羽ばたけるのだ。

 ここよりも深い木々の先には、朝陽が昇る連峰が空に影をつくる。

 私はそれが蜻蛉の目でならば、どういう風に見えるのだろうかと思った。世にも美しい万華鏡のような世界なのではないだろうか。一枚一枚丁寧に繋ぎ合わされたかのような。色があっても、わからなくても、それが蜻蛉の世界。軽やかに薄い羽根を広げ透かして飛び、緑の世界をゆく。

 私は夢想から目をひらいた。

 横を見ると、すでに生物は卵を産みつけ終わっていた。背中に気泡をつけているのが見える。細かい気泡が光って足などにもついている。その生物は苔の岩を伝ってこれから水面に上がるようだ。一度身体ごと振り向いて、私を見て来た。

「まあ、ぼちぼちね」

「あ、はい……」

 言い残して歩いていった。

 とはいえ、私の場合は実は動けない。なぜだろう。もしかして、心を借りているだけなのだろうか? 本来の今のこの生物の身体は眠っているのだろうか。砂にちょっと埋もれてみて遊びたい気持ちだったのだろうか。いや、もしかして動けなくなっているのかもしれない。

 そこで、私は自分に念じてどうにか身体をこの水底から動かしてみようと思った。ただ、どうやれば手足が動くのかはわからない。どこに意識を持っていけばいいのだろう。とにかく、一度暴れてみることにした。顔は動くのだから、いけるかもしれない。

 まず、首を振る。水にいるから抵抗があってゆっくりと動く。

「あら」

 そのたびに、砂が視野の横に巻き上がる。これはいけるかもしれない。

 小魚が私を見つけて、口をぱくつかせると身体を返して向こうに行くかと思われた。けれど、あのひらひらとする透明な尾ひれで砂が大きく巻き上がった。そのことで、私の半身にかぶさっていたのだろう砂が、さらさらと解かれるかのように落ちていった。

 一気に身体が軽くなる。すると、自然と私の身体は湧き上がる水にぽこぽこと押されてどんどんと水面へ近づいていった。これまで、どうやら湧き水の発する気泡に口元だけでも包まれていたから、苦しさを感じなかったのかもしれない。

 ゆらゆらと昇っていくうちにも身体を水藻がなで、魚の泳いでいく流れに揺られ、そしてどうにか水藻につかまった。

 やっぱり、私の伸ばした手は、話しかけてきた生物と同じだった。他の手足でも藻を掴むと、身体を柔らかな藻が包む。黄緑の世界だ。その先に、純度の高い泉の世界が広がっている。

「美しい世界」

 私は藻を伝って上へと歩いていく。

 すると、水面に出てきた。顔だけを覗かせて、眼下に広がる水面の世界は、向こうに水鳥が滑っていたり、今飛び立っていってこちらまで波紋が来て私の小さな身体を揺らしたり、木の葉が滑っていたりしていた。

「あら」

 仰ぐと、さきほど話しかけてきた生物が羽根を広げて空を羽ばたいている。もう向こうへ飛んでいった。

 心が人だからだろうか、彩の世界は、泉の外にも広がっていた。泉を囲う木々の遥か向こうに、やはり見えたのは山々の連なりだった。

 私はそこまで飛んでいきたくて、思い切り羽根を動かそうと思う。

 ぴちっと、雫を跳ねさせて私は飛んだ。水が流れ落ちて体が宙に浮かび上がる。そして、不安定だったのが一気に体勢を立て直して高くまで飛んでいた。


 起き上がって、私は何度も瞬きをした。

「……?」

 あたりを見回す。

 そこは真っ暗い場所で、そしてあたたかかった。

 横を見ると、暗がりで何もわからないけれど、誰かの鼓動をすぐそばに感じる。ふわふわとしたその誰かは、先ほどまでの自分のように眠っているようだ。

ざあ、かさかさかさかさ

 木々の風に揺れるさわめき。私たちの身体を風が撫でていく。

 寄り添う誰かが身体を動かして、もっと身を寄せ合った。ふわっとする。もぞもぞと動くと、何かが私の背中を撫でていってまた離れていった。

 私はそのことで安心をしたのか、だんだんと深い眠りへと誘われていった。

「ピピピ ピピ」

 目覚めは、いつもの小鳥たちの歌声。薄い瞼を透かす淡い光りに、私はその瞼を持ち上げようとした。

 しかし、どうやらその瞼から覗く視野は、上からじょじょに見えていく。眩しさに目を一度細めてから、しっかりあけると、そこは森だった。

 あたりを見ると、そこは木の幹や葉枝に囲まれたところだった。

「ピピ ピ おはよう」

 後ろを振り返ると、そこには美しい小鳥がいた。愛らしいつぶらな瞳で私を見つめている。そして、くちばしを近づけると、私の背中や頬をそのくちばしで撫でた。

 ああ、昨日はこのくちばしで夜に目覚めた私の背を撫でてくれたのだ。

「おはよう」

 その鳥は頬をふわつかせた。微笑んだ、のかもしれない。

「さあ、行こう?」

 鳥が枝から飛んでいき、私は反射神経でその枝から葉を揺らして鳥について飛んでいった。羽根を一生懸命ぱたつかせて、空気を羽根でおすかのように。

 朝日はまだ上がりきってはいないようだ。淡い光りが、天を包んでいる。遥か向こう、ぼんやりとした先から光りややってくる。そして、私たちの背後はまだ夜を薄っすらと引き連れて淡い群青だ。上品に光る明けの明星と、細い細い白月。

 見下ろすと、私たちのいたのは山々の頂のあたりだった。

 他の小鳥たちも朝日を待って空を羽ばたく。

 遥か向こうの森に、見つけた。木々に囲まれた泉。

 稜線から澪まで、今ならばわかる情景。

 これは魂が漂流して、見せてくれているのだろうか? 私はオスの鳥とともに囀る。その囀りは天空に響き渡り、他の小鳥たちと朝の音楽を奏であった。

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澪から稜線まで @rosenjasmine

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