第6話 肉塊

2年3組の事件

 『ジキルとハイド』

 原題は『ジキル博士とハイド氏の奇妙な事件』。ロバート・ルイス・スティーヴンソンの代表的な小説の1つで、二重人格を扱った作品である。

 そのあらすじはは、19世紀のロンドンにて、医者のヘンリー・ジキルは、精神を病んだ父のため、人類の幸せと科学の発展のために「人間の善と悪を分離する薬」の開発に成功する。しかし、セント・ジュード病院の最高理事会のメンバーである上流階級の面々に、神への冒涜であると批判され、人体実験の申し出を断られる。

 婚約者であるエマの婚約パーティーの晩、失意に沈むジキルはパブで、娼婦のルーシーと出会う。そして、彼女との会話の中で「薬を自分で試す」という解決策を見出した。ジキルは自分にその薬を服用するが、それによってもう一つの人格、ジキルの悪意の側面であるエドワード・ハイドが現れた。ジキルから変身したハイドは、最高理事会のメンバーを次々と殺害していく…という内容だ。



【島地高校 1階・図書室】



 それを学校の図書室で読み終えたアンリは、本から顔を上げる。

 とても面白い内容だと思った。しかし…主人公であるヘンリー・ジキルに、アンリは引っ掛かりを感じた。アーネスト、そう名乗った男が自分のことをヘンリーと呼んでいた。そして、ジキルにアンリが似ているということも……確か、ジキルは慈善活動に勤しんでいたという、自分もそうだ。いつだって誰かのために何かをしてきた。それが、アンリにはとてつもなく幸せなことだった。ジキルだってそうだったのだろう。きっとジキルの作った薬を飲むと、ハイドのような人格が生まれるのではないだろうか。

 だが…アーネストに言われた言葉を思い出す度に思う。彼は、自分の末路がコレ・・だと言われているのではないか?自分が殺人鬼になると?アンリは首を振ってその考えを振り払う。アーネストは正直胡散臭いと思っていた。しかし、福沢と旧知の人間であの笑みを見せられたら…。


「あの人は、いったい何者なんだろう……?」


 アンリは昨日の1件から、アーネストのことばかり考えていた。なんというか、彼は人を惹きつけるような魅力があるのかもしれない。いつもの薄ら笑いよりも、あの笑を浮かべていれば彼を第一印象で苦手意識など抱かなかった。


「うーん…」


 アンリは椅子にもたれて唸る。しかし、いくら考えていてもわからないものはわからない。アンリは本を片付けようと席を立とうとする。


「アンリ先輩!」

「うわぁっ!?」


 後ろから急に声を掛けられたアンリは、椅子を倒して転びそうになったが、寸のところで何とか机に掴まり、体勢を維持する。


「ク、クロエ……?」

「はい。一緒に帰りませんか?」

「いや、入ってきて大丈夫なの?」


 クロエは図書室の窓からアンリの後ろ姿を見たようだ。中学生のクロエが高校に入ってくることは無かったのだが、今日は違ったようだ。というより、アンリの見に起こったことで暫く殺人鬼について調べることは控えるはずだったのだが……。


「先輩、私は先輩のことが心配なんです」


 クロエは眉を八の字にさせてアンリを見つめる。アンリは随分とクロエを心配させてしまったようだ。父親も行方不明となっているクロエにとって、知り合いが1人でもいなくなってしまうという事態は、耐え難いことなのだろう。それを理解したアンリは、クロエに謝る。そんな彼にクロエは笑ってみせたが、やはりどこか心配そうだった。


「大丈夫だよ、学校には先生達や、福沢理事長がいるんだし」

「福沢理事長……確か、第1位・・・の! 今、いるんですか!?」

「いや、今日は用事があって学校には来ていないみたいだ」

「そうなんですか……」

 

 クロエはそれを聞いて、残念そうにしている。第1位の福沢は、この第1区の誇りである。心優しく、暴力的なことは必要な限りはしない。アンリは福沢のことを見て、そう感じていた。誰かのために色んなことをしてきた彼を、とても尊敬しているのだ。

 しかし、クロエを心配させてしまった。先生達がいても、事件を防ぐことができない時はできないのだから、そうなってしまうのだろう。


「…クロエ、帰ろうか。荷物はここにあるから、すぐに靴箱に行けるよ。先に行っておいて」

「一緒に行きましょうよ!」


 クロエは、少し不満そうな顔をする。クロエを安心させるために言い出したことだが、失敗してしまったようだ。それならば、とアンリは次の作戦を練る。


「中心区でクレープでも奢るからさ」

「はい、じゃあ先に行きますね!」


 クレープの言葉を聞いたクロエはそう即答して、すぐに玄関に走って行った。その速さといったら…アンリはそんなクロエを見て苦笑する。


「クロエは、クレープが好きなのかな?」


 アンリは彼女を見送ってから、帰り支度をはじめる。本は元にあった場所に戻し、倒れた椅子は起こして鞄の中身を確認する。その全部を終えたアンリは、鞄を肩にかけて図書室の外へ出る。

扉を開けて歩いたが、暫くして違和感を覚えた。もう授業も終わり、大体の生徒が帰る時間だ。学校全体が随分と沢が。やっと家に帰れる安堵や、友人とふざけ合う騒がしさではない。嫌な予感がしたアンリは急いで靴箱まで走って行った。

 靴箱には、アンリが思ったとおり、青ざめた顔の生徒達がごった返している。クロエはアンリの言っていた通り、靴箱の前で慌てる生徒達を戸惑いながら見ている。クロエは、ずっとアンリを待っているようだ。


「クロエ、今すぐ高校を出て!」

「え、え? アンリ先輩!?」

「早く!」


 クロエはアンリの怒鳴り声を聞いて、すぐに靴箱の前から走って行く。高校の中で何かが起こったことは、生徒達を見てわかっていたようだ。

 クロエを見送ったアンリは、騒ぎのあった場所にある向かった。こんなことをしてもアンリにはなにもできないことは、よくわかっている。きっと教師達に、クロエだってこっぴどく叱られるだろう。それでも、もしかしたらと思うと…足が止まらなかった。


 2階・2年3組で、アンリは足を止めた。アンリは呼吸を整えて、扉を開ける……。


「あ、ああ……」


 目に映ったのは赤だ。

 赤を認識したアンリが次に見たのは、こちらを心配する福沢だった。




【島地高校 2階・2年3組】



「これは酷い」


 島地団地島には、警察を自称している集団がある。自称ではあるが、この島の治安を守る彼らは島に無くてはならない集団なのだ。

 そんな自称警察の1人、正信は現場を見つめる。教室のあちらこちらにある血液が、この場で起きた惨状を物語っている。そして1番不可思議なのが教室の真ん中にある、肉塊・・だ。


「これは、正信さん…いったい」

「…おそらく、元々は人間だったんだろうな。こんな形になっても、元の原型が少しだけわかる」


 通報を受けてやって来た正信とその部下達が見たのは、教室の床に倒れる教師達と、それに囲まれるかのように鎮座していた肉塊だけだった。生徒がもう1人いたそうだが、今は緊急で呼び戻された理事長の福沢に連れられて職員質で待機しているそうだ。

 肉塊は警察達が駆けつけた時には既に冷たくなっていた。今からこの肉塊の身元を調査するの予定だ。


「しかし、この肉と肉の間に挟まったこれ・・は……」

「制服だな。生徒が、犠牲になったようだ」


 その場にいた彼らは、痛ましげに眉を顰め顔を逸らす。

 今すぐにでも丁重に運び出し、保護者の元に帰してやりたい衝動に駆られるが、おそらくこれは異能の力によってこうなってしまっている。発動条件がわからない限り、触ることすらできない。


「教師達は?」

「はい、全員息はあります」


 そうか、と正信は呟いた。先日に第1区で起きている不可解な事件の数々は同一犯ではなく、少なくて2人の犯人が絡んでいる可能性があると伝えられていた正信は、暫し俯いて思考をまとめる。殺人事件を起こしていたとされている容疑者は、監獄の中で事情聴取を受けているだろう。もし本当に彼が犯人ならば、あのような殺人事件は起きないはず…しかも教師達には息があるため、これは高校生の青年に予告をしていた人物の犯行と言えるだろう。


「………異能が使えるなら、何故全員肉塊にしなかった?」


 今まで人間が肉塊になる事件なんて無かったはずだ。それがこうして出てきてしまった。何故生徒だけがこんなふうになってしまったのだろうか。何故教師達は殺されなかったのか。


「第1発見者の生徒は、何と言っていた?」

「はい…」


 部下からの説明はこうだ。

 帰る前に図書室へ来ていた時に騒動があり、原因であろう場所に、好奇心でつい来てしまった。2年3組の教室に入った時にはもう既に教師達は血を流して倒れており、その真ん中にあった肉の塊を見て気を失ったようだ、と。


「そうか…」

「怖いもの見たさってやつでしょうね」

「俺もそんな時期あったから、何とも言えんな……」


 とにかく、この学校は暫く休校となることが決定されたはずだ。そうでなければ調査も滞るので有難い。

 順位第1位の福沢は一見優男に見えて、今回の事件を受けてとんでもない苛立ちを覚えているようだ。まさか、校内で殺人事件が起こるだなんて…と煙草のフィルター部分をガジガジと噛み潰しながらそう言っていた。警察達や看守達、裁判官達は、順位に参加することを自主的に禁止しているので、彼らとの力をはかることができないが、それでもその苛立ちを、殺気を当てられた正信達はその瞬間で福沢に勝つことは無理だと悟った程だ。おそらく彼が本気になれば、殺人犯達はひとたまりもないはずだ。


「犯人の目的は、福沢かもしれんな」

「え、何故です?」

「今の第1区を作ったのは福沢だ。そしてこの学校を作ったのも……奴は福沢に何かしら恨みでもあって、こんなことを繰り返している……と、俺は思った。お前はどうだ?」


 正信は部下に尋ねるが、彼は困惑するだけだった。


「福沢は第1位、島の中でアイツに勝てる奴はそういないだろう。だから直接手は出さないが、こうやって間接的に福沢にとって最悪なことを繰り返すんだろうよ。だが、これはあくまで個人の意見だ。他にも可能性があるならお前らにも話を……」


 もう少し噛み砕いて説明しもう一度尋ねようとした時、正信は動きを止めた。教室の入り口に張っていたテープを剥がしながら、青年と話す男性の姿を見たからだ。時が一瞬止まったような感覚に陥る。こんな現場に、何故一般人が立ち入ろうとしているのかは謎だが。というか、彼は何さも当たり前のようにテープを剥がしているのだろう。


「……おい、アンタ何してる?」

「ん? KEEP_OUT入るなと言われたら、入るしかないだろう?」


 困惑して声を掛けることさえ忘れてしまった正信達は、そのまま数秒固まっていたが、1番初めに正気に戻った正信が彼に話し掛ける。そして返ってきた言葉がそれだった。入ってはいけないから、KEEP_OUTという文字があるのだ。それをわざわざどうして無視しようとする?いや、それ剥がさなくても良かったんじゃ?正信は彼の信じられない行動と発言に目眩を覚えた。


「アーネスト、何かわかったことがありましたかな?」

「んー? いや、まだちゃんと見てないから」


 そんな彼に穏やかに話し掛けたのは、先程話題に上がっていた福沢だった。


「ふ、福沢…この2人は…?」

「彼はアーネスト、隣の彼は道先案内人ですよ。彼らには事件の調査を依頼していましてな」


 警察達を差し置いて、調査を依頼しただと?正信は信じられない、と福沢を睨みつけるが、曖昧な笑を返されただけだった。

 それにしても、この男はいったい何者なんだろうか。扉の前で怯えている道先案内人と呼ばれた青年には、見覚えがある。何度か同僚の警察達が彼の協力を要請していたこともあったはずだ。


「それより、アンリくんは元気?」

「まだ顔色は優れませんが、なんとか」

「そう……お大事にって伝えておいて」

「……アナタが誰かの心配をするとは……明日は雪ですかな?」

「叩くぞ、デコを」


 会話を聞くに、2人は親しい間柄のようだ。


「アーネスト、それより早く調べちゃってくれよ! 俺、ここにあんまりいたくねぇから!」

「あー、道先案内人は警察が苦手だからね」

「頼みます!」


 アーネストは手に持っていたテープを雑に床に放り投げると、肉塊の側までやって来た。


「おい、何をしている!?」

「……死体はこれだけ?」


 アーネストは正信の部下に尋ねた。部下が戸惑っていると、アーネストはもう一度、ゆっくり尋ねる。その圧に負けた部下は恐る恐る、そうだ、と答えた。


「アーネスト、殺人事件はもう起きないはずでは?」


 福沢はアーネストを止めようとする正信を止め、アーネストに聞きたかったことを尋ねる。


「僕もね、これがあるまではもう起きないと思っていたよ」

「予期せぬ出来事、というわけですな?」

「まぁね」

「教師達はおそらくエドゥアールだと思っていますが…肉塊コレのことはどう思いますかな?」


 アーネストは暫く考え込む。しかし、それから10秒も経たない内に首を横に振る。


「エドゥアールの仕業ではないね。彼は人は殺さない。彼の異能ではこんなことできないし……」


 エドゥアール、確かもう1人の犯人だということを思い出した正信はすぐに教室を出て署まで連絡をしようとした。しかし、アーネストは正信を引き止めた。アーネストの行動が全く読めない正信は、翻弄されるだけだ。

 すると、アーネストはおもむろに肉塊の中に手を突っ込んだ。


「な、何をやっている!?」

「何って……ちょっと興味があってね……」


 肉がグチャグチャと音を立てる。腕捲りしかしていないアーネストの腕は、血で赤く染まっていく。ふと、アーネストの腕が止まり、すぐに腕を引き抜いたアーネストは、ジッと手のひらを見つめる。


「……目が覚めた教師は?」

「今のところいません」

「……警察の、えーと……」

「正信だ」


 アーネストに指を差された正信は名前を答える。


「正信…教師達が目覚めたらすぐにその時のことを聞いて、僕に教えてくれないか?」

「何故教えなければいけないんだ? お前は一般人だろうに」

「じゃあ、松永くんに僕のこと教えておいてくれよ。それで話は通る」


 正信は目を見開いた。松永とは、正信の上司に当たる男だ。アーネストはあの人のことを知っているらしい。しかし、正信の中で信頼できない人物堂々の第1位である松永と知り合いだというアーネストは、正直信用したくはない。

 松永との因縁は正信が幼馴染と共に警察官になった時から始まった。部署は幼馴染と同じで、上司である織田の元で警察としてのイロハを学んでいた、そんな折りに事件が起き、正信は気が付いた時には松永の部下になっていた。そして、まるで馬場者の如く扱き使われる日々を送ることとなったのだ。


「松永くんに嫌な思い出があるようだね」


 正信が露骨に嫌な顔をしていたのがわかったのだろう。アーネストは同情というか、本当に正信を気の毒だと思っているような顔で励ますように肩を叩く。


「イヤ、ナレテイル」

「……あんまり無理すんなよ」

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