灯台
茹だるような暑さに顔をしかめながら、黒田は作業服の袖で額を拭った。薄緑の丈夫な化繊生地に墨で描いたような跡がつく。灯台は白い塗料の上に特殊な加工が施されていて、煙突から吐き出される煙にまみれることもなく、薄青の空に嫌味に映えている。これだけの肉体労働が、未だ市の職員によって行われていることを知る者は少ない。平成がもう終わるというのに、この街の基礎は昭和の後半から殆ど変わっていないのだ。寂れた漁村だったこの街が埋め立てによる市域の拡大によって生まれた日本最大の鉄鋼加工基地と、当時日本一の花街といわれた吉原を規模で凌駕する「夢の国」によってその名を全国に知らしめ、鉄鋼業者と日雇い労働者、職にあぶれた漁民、帝都や勅令都市の船橋に通勤する知的階層によって、その人口は埋め立てる前の十倍以上に膨れ上がった。千葉県でも有数の工業都市となり、「東洋のピッツバーグ」とまで呼ばれているこの街は、そう呼ばれた当時から連綿と続く人々の営みによって、今もなお、男たちの汗と女たちの涙によって形成されていることを説いても、住民たちは鼻で笑うだろう。現に、国立船橋大学の経済学部を卒業した黒田は浦安市役所に入職するまで知らなかったのだから。
あとは破砕機を発動させれば、また数日は稼働し続けるだろう。築三十四年の日の出灯台は、未だに固形石炭を燃料に用いていて、こうして月曜と木曜に河川護岸課の職員が、固形石炭の塊を軽
重たい鎖が震え、ばりばりばりばりと軽妙な音を立てながら破砕機が発動した。雲ひとつない快晴の空に白い煙がたなびいている。旧式の灯台は、白日のもとではぼんやりと浮かび上がるような光を投げかけるばかりで、海原の道標になっているようには到底思えなかった。それでいて、月に一度は光室の硝子を清掃しなくてはならず、黒田はただただ徒労感を覚えるのみだった。
船橋の港に使われている灯台は既に
だが、彼にとって誤算だったのは、それほどまでに熱意のある学生が官吏を目指すことは非常に珍しいとされていたこと、また仮に官吏を目指すにしても、国立大学、まして帝都圏において帝都大学、筑波大学、横濱大学に次ぐ官吏の輩出校である船橋大学の出身ともなれば、むしろ中央省庁や都県庁を志望するのが当然であり、そこに勅令都市――すなわち千葉県内で言えば千葉と船橋のことであるが――が準じ、さらにその滑り止めとして、津田沼や市川、松戸、柏などの中核都市の市庁を受験するものと相場が決まっていた。埋め立てにより行政区面積にして五倍、人口が十倍となった浦安市とて、中核都市の第一条件である人口二十万には未だ達さない。すなわち、船橋大学、もしくはそれに準ずる大学を卒業するような優秀な学生にとって、浦安市庁というのは本来見向きもされないところであり、それは同時に、市庁の官吏もまた彼らを遠ざけているということでもあった。
黒田は入庁してその、段差とも呼ぶべきものに大きく躓いてしまっていた。元より身体は丈夫な方ではない。しかし、新人として都市整備部河川護岸課に配属された彼は、当然ながら最若手が行う仕事として、海岸沿いの三つの灯台の管理を命ぜられた。自動車の免許は内定を賜ってから人事課の職員に取っておくように言われて初めてとった。もし取っていなければどうなっていたか、想像したくもない。黒田の上司はほかの中年職員と異なり高圧的でも愚鈍でもないものの、自分が一度命じたことはすべて完璧に遣るのが当然という考えの男で、遣らないからには何かしらの理由があるのだろうという考察を日常的に行う人間であった。こういった人間はしばしばそうであるようにこちらに瑕疵を押しつけ続け、その業務に問題がなければ改善を検討することすら容易ではない。何か改善の打診をすればそれが口答えと思われてしまう。そういった問答にほとほと疲れ果て、渋々ながら酷暑の中でも彼はこうして灯台を廻っている。庁舎に帰れば無数の庁内照会や令達文書が未処理案件として黒田のもとに届く。彼以外にそれを処理できるものがいない筈はないのだが、そういった雑務は最若手がやる、という河川護岸課の理不尽な掟を全員頑なに守っており、決して手出しをしようとしない。先輩曰く、それが若手を育てる最良の方法だそうだが、組織として合理的でない働き方を行うこと自体、市民への背信行為ではないかと考えてしまい黒田は憤りと怯えの中で日々仕事をしている。
軽運搬車は積載量を増加させるために荷台を大きくし、重量を上げている。代わりに立ち上がりにくせがあり、免許を取ったばかりの黒田は三回に一度は
最後の灯台に燃料を入れ、黒田は空を見上げた。大分傾いてはきたものの、日没まではかなりの余裕があった。海の上には煤煙はなく、真っ青な空が望めた。飛行機がその中央に白い罅を入れていった。轟音で灯台の硝子が震えている。これまで作業に夢中で気づかなかったが、就職してすぐより手際がよくなったようだった。ふう、とため息をつき、ゆっくりと伸びをした。先輩に見られれば叱られそうだが、ここには黒田しかいない。これだけ身を粉にして働いたのだから、少しくらい休憩させてもらってもいいはずだ。
灯台に腰掛けて、水筒の蓋を開ける。温い水だったが、汗と埃にまみれた身体には丁度よかった。
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